第1章「町にひとつの診療所にて」2


 午後三時を告げる鐘の音を耳にして、それを合図にするように私は思い切り机に突っ伏した。毎日変わらず整えているセミロングの茶髪が、黒のニットワンピースの上でパチパチと微かな音を立てて流れる。

 抱き込むようにして触れた木製の机は、午前中から絶えず陽の光が注いでいたためほんのりと暖かい。秋も深まり、なんだったら冬の訪れすらも感じさせる季節ながら、窓の外の気配もそれなりに暖かそうだ。まだ美しい紅に彩られた遠くの山々には、厳しい冬の到来は先のようにすら感じる程。

「こら、リグ! あたしの講義が終わるまでが勉強の時間やからね。鐘の音はあくまで目安ですー」

「痛ー!」

 穏やかな温もりにとろんと目を閉じようとした私の頭が、ぽかりと軽く叩かれた。そこまでの痛みはなかったが、私と“彼女”の関係性的に、ここは多少大袈裟に騒ぎ立てるくらいが丁度良いのでそう声に出す。

 まるで学校での講師と生徒のような一コマだが、ここは学校ではなく町にひとつしかない小さな診療所の一室であり、講師のように講義をしていたのは、この診療所の主『エレアナ先生』である。

 そして生徒、ではなく見習いの私――リグは、この大陸においての『医療術』についての講義をエレアナ先生に診療所の空き時間を利用して教えてもらっていて……って、あれ? やっぱり講師で合ってるかも……?

 んんー? と自身の中での問いに首を傾げた私に、エレアナは「ちょっと、あたしの講義ちゃんと聞いてたん?」とむくれている。

 腰まである美しい黒髪を揺らして笑うエレアナは、私より七歳年上で二十五歳になる女医である。

 砂漠地帯に隣接する辺境と言って差し支えない位置にあるこの町で、たったひとつだけの医療施設を任されているエレアナは人気者だ。スレンダーな見た目に白衣が良く映える美人さん。

 『エレアナ先生』とは村の住人達が尊敬を込めて呼ぶ愛称で、本人曰く『中央部では勝負出来ない弱小ドクターやから、先生呼びなんて恥ずかしい』とのことだった。だが、その手腕が決して中央部の医師達に劣るとは、私には到底思えなかった。

 中央部というのはこの大陸の文字通り中央に位置する都市の通称で、栄えている分野も大陸一で、その技術も最先端だ。それには医療技術も含んでおり、中央部にはそれだけ優れた医者も集まるのだった。そんな中でエレアナは育ったのだが、救われない患者が地方にはたくさんいると知り、単身この街まで出て来たというのだ。

 小さな町にひとつだけの診療所には、当然医療器具も少ない。高性能で大型なものもなければ、そもそもベッドすらもふたつしかない。二階の存在しないこの診療所は、診察室と今いる教室と化した病室、そしてエレアナ“夫婦”の寝室が続くだけの簡素な造りである。

 前方の壁に掛けられた黒板に長机と椅子が並ぶだけのこの部屋は、診療所の心臓部とも言える診察スペースに隣接している。広さも診察室と大差なく、お世辞にも広いとは言えない。ちなみに今、ふたつあるベッドは部屋の隅に追いやられている。入院患者なんてものは、この街では稀であった。

 そんな部屋の扉を開けて、穏やかそうな男が顔を出した。エレアナと同じく白衣を羽織っているが、その下の服装は白を基調とした品の良さを感じさせるものだった。

「エレアナ。ご自慢の講義も二時間続けば立派な拷問だろう。リグちゃん、そろそろ休憩も兼ねてお茶の時間にしようか?」

 優しい言葉と同じく微笑みを湛えた彼は、エレアナの夫であるモリスだ。エレアナよりも三歳上のモリスも、彼女と同じく中央部からやってきた人間だ。彼の職業は医師よりも更にエリートである魔術師。育ちの良さを体現したようなスマートな体格に美しい金髪は、蒼白に近い肌の色にとても合っている。彼の美白っぷりには私もエレアナも敵わない。

 辺境に対して使命に燃える妻を持つモリスは、そんな彼女を支えるために中央部での編成から移動を申し出た程の愛妻家だ。魔術師は軍属の括りになるのだが、この街の駐屯軍は辺境故に数が少なく、その編成の中に魔術師がいなかったことも手伝い、例外的に宿舎には入らずこの診療所に寝泊まりすることが許されているらしい。

「もう、モリスってば、リグには甘いんやから。まあ、時間も時間やから、お茶しながら復習の時間にしよっか」

 産まれは夫婦揃って中央部ながら、エレアナはこの村独自の方言にしっかり染まってしまっている。だが、それこそが彼女の深い愛情の表れのような気がして、その少しイントネーションが怪しい言葉遣いを聞くことが私にとっては喜びのひとつでもあった。

「実はもう、用意も出来てるよ。さあ、久しぶりに僕も、エレアナ先生の授業を受けるとするかな」

「嫌味ー! あ、そのジャスミンティーあたし好きー」

 モリスの言い方に腹を立てたような顔をしたエレアナだったが、その直後、手に持っていたティーセットの内容に気付き子供のように歓声を上げた。まったく本当にこの素敵な夫は、妻の扱いにおいては天才の域であろう。

 ふふっと私とモリスが笑っていることも気にせずに、エレアナはさっさと机の上に三人分のティータイムの用意を始めた。それを軽く手伝いながらモリスも、私の対面に椅子を引っ張って来て腰掛ける。そしてその隣にエレアナも椅子を持って来て座り、注がれたお茶に口をつけた。

「さて、今日の講義の内容は? リグちゃんはいったい何を先生から習っていたんだい?」

 優しい笑みを浮かべながらそう言うモリスに、隣の先生は「やっぱり嫌味ー」と抗議の声を上げた。しかしその顔からは、他人の私から見ても嬉しそうなのが伝わってくる。きっと旦那様には筒抜けだろう。

「今日は医術についての講義で、この世界においての『医療術』と『治癒魔法』の違いを習った」

 私達が住むこの世界には、何十階建てもの天高く聳える建築物や、地上だけでなく海や空すらも行動可能にする乗り物を造り上げる『科学』に基づく『医療術』と、何もない場所から炎や雷等を魔力によって生み出す『魔術』に基づく『治癒魔法』という、二種類の『医術』がある。

 その二つから更に細かく派生はしていくものの、大きく分けて、というだけあり、この二つの医術には明確なる違いが存在する。

 まず前提として、科学に基づく医療術は比較的ポピュラーなものと一般人には認識されている。それはなんといっても手軽さで、必要な知識と道具があれば誰でも行えるものだからだ。軍学校にて教わる基礎的な医術も、まずはこちらになるらしい。

 また、大きな機材が必要な大病や大量出血を伴う大怪我ともなると話は別だが、軽い怪我や病気に対しては、魔力を消費する治癒魔法より科学技術により造り出された薬を使用した方が、人体への負担が少ないという理由もあるようだ。

 魔力による治療には、治癒魔法を発動する術者だけでなく、治療を施される対象者の魔術の素養も大きく影響し、安定して高い効果を得られない可能性があることと、既に失われた血液等の補給等は出来ないこと、そしてそもそも治癒魔法を習得している魔術師の数が少ないという、今の魔法技術では解決が困難な問題を抱えているという点もある。

 そのため、今日の講義の後半――夕方の診療時間を終えてからの勉強時間には、エレアナ先生から科学に基づく医療術の手ほどきを受ける予定だったのだ。今日の予定は、実践的な手当てのやり方の復習……だったか。

 ノートに記載している文章に目を落としながらなんとか説明する私に、師であるエレアナはふんぞり返らんばかりに誇らしそうにしている。その隣でモリスはうんうんと優しく相槌をうって、私の説明が終わってからその品の良い口を開いた。

「しっかり勉強出来ているね。エレアナの教えとはとても思えないよ。さーて、この世界の医術について学んだリグちゃんに僕から質問だ。ずばり、二つの医術において、どちらがより優れていると考える?」

 目を合わせればうっとりしてしまいそうなまでの良い笑顔で、そうモリスは『爆弾』を投下。これってもしかして色仕掛けってやつ? だってほら、隣の奥さんの目が怖いのなんのって。

 この世界の医術は大きく分けて二種類。科学に基づく『医療術』によって患者を助ける医者をしているエレアナと、彼女とは逆に魔術に基づく『治癒魔法』による後方支援を軍内で担当しているモリスは、『この話題』に関しては意見が真っ二つに割れる、なかなかに珍しい『医術マニア夫婦』なのだ。

「え、えーと……」

 これは難題だ。彼の口からなんとも軽く、まるで日常での雑談にしか思えない程度に飛び出たこの質問だが、私の返答ひとつで今夜の夫婦喧嘩勃発ばかりか、下手をすれば明日の診療が行われるかまで左右される大問題に発展する恐れのある難題である。

「もちろん、誰でも治せる可能性のある、医療術やんねー?」

 代々医者の家系であるエレアナ先生はもちろんそう言うし、そもそも講義の内容もそっち方面に偏っているように思える。そして――

「いやいや、確かに治癒魔法では魔力の適正がないような一般人は治せる可能性が低いかもしれない。だが、その代わりに、数多の戦場で戦う軍人や軍用生物といった対象にはとても有効だ。時には吹き飛ばされた兵士の腕をその場で繋ぎ、先月の魔道具の暴走事故では瀕死の重傷人すらも回復させたんだ。どちらが“有用”かは、はっきりしているだろう?」

 代々魔術の才能に秀でている家系のモリスは、治癒魔法だけでは救える対象が限定的だということを理解しながらも、それでも自身の習得している治癒魔法には絶大なる信頼をおいているのだった。

――ほんま、いつも思うけどこの二人、よく家で喧嘩せんよなー。

 呆れ半分、お腹いっぱいな気持ち半分の声は心の中だけで。普段のラブラブなタイミングならともかく、今の二人にはこんな言葉は火に油を注ぐだけだということを私はちゃんと理解している。これもこの二人との付き合いの長さからくる、一種の慣れであろうか。

「私は……」

 二人と私が知り合ったのは、夫婦がこの街に来て診療所を開いてすぐの頃。季節は今と同じく冬の気配を感じさせる頃で、急に寒くなったためか風邪を引いた私が、出来たてほやほやのこの診療所を訪れたことがきっかけだった。

 その当時から仲睦まじい夫婦だった二人だが、子宝にはなかなか恵まれないようで、おまけに妹もいなかったこともあったからか、私のことをそれからまるで本当の妹のように大事にしてくれたのだ。

 あれからもう、七年の月日が経った。昔は私と一緒に、何人か同じような年頃の友達も診療所に遊びに来ていたが、学業が忙しくなる頃には訪れるのは私だけになっていた。

 医術の授業は難しいからと、習いだしたのは最近だ。そのためほとんどマンツーマン指導のような形になっている。そしてそのエレアナ先生によるマンツーマン指導のせいで、私が極端な医療術信者にならないかがモリスは心配でたまらないらしい。私から言わせれば彼の治癒魔法至上主義も、異常な域には充分達していると思うのだけど。

「ふたつともどちらも凄い。せやから、ふたつとも、力を合わせたら良いと思う」

 この世界は科学と魔法が共存している世界なのだ。どちらかが突然欠けても、今のこの世は回らない。天高く伸びる高層ビルも、科学の結晶である建築様式に建材を使用しつつ、その基礎を強化するために地唱術という魔術を使用していたりするし、金属の塊である車も動力源は魔力である。

 高度に発展した技術を比べることは、その分野の発展には必要なことだろう。だが、そこで勝手につけた優劣にだけ目を向けて、劣ったもの全てを捨て去るというのは本当にもったいないことだと思う。ふたつがそこまで異なるのなら、手を取り合えば良いのである。そうすればきっと、今よりもっとたくさんの命を救うことが出来るだろう。

 私の言葉に目を丸くした二人は、しばらくそのまま固まっていた。そして、大きくなった目をお互いに向け合い、口を開――こうとした時だった。

「エレアナ先生! すんません! 中央部からの急患みたいで、診てもらえます?」

 閉まっていた扉を叩く音。次いで聞こえた村の人間の声には、いつもこの村に流れている穏やかな空気は一切感じられなかった。

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