第1章「町にひとつの診療所にて」3


 この診療所は設備があまり整っていない。そのため急患を受け入れたところで出来ることは限られている。それでもこの村の住人は、エレアナ先生を頼って急病人を連れてくることが多かった。

 そのほとんどが手の施しようのない急病人で、そういう患者には軍のネットワークを利用してモリスが、設備の整った別の街に輸送するということを行っていた。軍人でもない村人相手に治癒魔法を施しても、あまり効果が得られない可能性の方が高いためだ。

 村人の様子を見る限り、今回もそうなるだろうと思っていた私だったが、運び込まれてきた人間を見て驚いた。

「っ!?」

「リグ、あんたはちょっと下がってなさい! モリス、あたしが持って良い部位はどこなん!?」

「右肩の魔力反応が異常だな。肩から下もおかしな魔力を感じる。エレアナは触らない方がいいから足を頼む。僕が肩を持つよ。あ、リグちゃんはちょっと診察室に行っててくれるかな?」

 二人掛かりで今正に夫婦の手によって運び込まれようとしているのは、見たところ男性のようだった。兵士らしい装備をしているところを見るに軍人だろうが、この村に駐屯する者とは色合いが違う。おそらく所属が違うのだろう。しっかりと鍛え上げられているとわかる肉体を、焦げ茶色の服が包んでいる。

 今いるこの部屋にあるベッドに寝かせる気なのだろう。それがわかっても私は、この場所から動くことが出来なかった。それは、運び込まれた人間の姿が異常だったから。

 立ちすくむ私の位置から、その男の顔は見えなかった。角度が悪いわけではない。ただ、その男性の右肩が、異常なまでに盛り上がっていたためだ。まるで右腕全体が巨大なカニのハサミにでもなったかのようだ。それか、異常なまでに大袈裟な肩パットを何枚も重ねたような、とでも言えば良いのだろうか。

 膨れ上がった右腕は、腫れているということではなさそうだった。何故ならその色合いが、美しいまでのオレンジ色を帯びていたから。内出血からくるどす黒い色合いとは違い、そのオレンジ色はまるで結晶の中に映える輝きのように見えた。綺麗、という言葉が何故かしっくりきてしまう。

 肩を持ったモリスを先頭に私がいる部屋に男性を運んできて、そこでようやく私の身体が脳からの指令を受け止め動き出した。ただ、視線はその異様な見た目の男性に落としたままだったので、付随する手足の動きはなんとものろのろとしたものになってしまう。

 私は脇に避けてモリス、そして足を持ったエレアナとすれ違う。二人掛かりで運ぶにしても重たそうな体格の男性だ。現にエレアナが支える下半身は下がり気味になっている。しかし、私は手伝うことを許されていない。これは今に限ったことではなく、深刻な症状の患者への医療行為においては専門の知識のまだない私が触れることをエレアナは良しとしなかった。

――これは深刻な……何? 病気? それとも、怪我……?

 兵士の装備は長袖に長ズボンが主流のために、肌の露出は首から上と両手のみ。そこから覗く肌を見るに、まだ若い兵士のように思える。異様な変異は右の手先から肩にかけて全体に広がっていて、まるで内部から爆ぜたかのように袖の部分を引き裂いてしまっている。手先に至っては人間の形を残していない。これでは、まるで――

――剣?

 その男性の右手は、手首から先が軍人が振るう剣のようになっていた。輝かしいオレンジの色合いはそのままに、手首から先がまるっと刃と化しているのだ。

 中央部からの急患と言っていたが、まさか向こうではこんな奇病が蔓延しているというのか? それとも何かの呪いを魔物から受けてしまったのだろうか?

「これから何が聞こえても、この扉は開けないようにね。わかったかい?」

 ベッドに患者を寝かせたモリスが、そう言いながら扉に手を掛ける。私はそれに素直に頷き、扉を自分から閉めた。モリスの言葉の意味は、さすがに私にだってわかっていたから。

 モリスはこれから、魔術による治癒を行うのだ。少し力んだせいで思った以上の音を立てて閉じられた扉の前で、私はせめて祈りを捧げることにする。

 運び込まれた男性は軍人だ。つまり魔術による治癒が効果的な可能性が高い。

 この世界の軍人は、基本的に魔力の素質が高い者がなる職業だ。人によって得意とする属性に違いはあるが、治癒を施される側としての素質は、とにかく高い魔力が備わっていれば問題はない。極まれに魔法が苦手な軍人もいるらしいが、それでも一般人より素質がないということは有り得ないだろう。

 治癒魔法による治療は、何もない場所からエネルギーを生み出すという点で、対象の体に大きな負荷を与えてしまう。

 その負荷には魔力だけでなく肉体的な体力も含まれており、私のような一般人に対してモリスがわかりやすく説明してくれたところによると、『人間の治癒を行う場合は、簡単に言えば寿命を前借りして身体を癒してるんだよ』とのことだった。

 モリスの言葉は真実で、とてもわかりやすいものだと私は思った。その人間の残りの寿命、つまり生命エネルギーを前借りすることによって、何もないところ――病に侵された細胞なり、傷つけられた部位なり――から、命の再生を図る。本当に、どんなところからも治癒が可能。まさに、言葉通り魔法なのだ。

「ぐぁああぁぁっ!!」

 閉じた扉の向こうから、くぐもった悲鳴が聞こえて来た。モリスによる治療が始まったのだろう。

 言葉でこそ『治癒』と書くが、その魔術は生命の前借りだ。治療行為自体が、乱暴に人体を傷付ける。私はまだ治癒魔法を受けた経験も、それを施されている場面に立ち会ったこともないのだが、まるで傷口にそのまま手を突っ込まれて掻き回されるような激痛が続くのだと、以前モリスが上品に笑いながら言っていたのを思い出した。

 生まれて初めて聞く男性の悲鳴は、低く暗く、そして痛々しい。その姿は閉じた扉に妨げられて見えない。それでもその惨状を想像させるだけの響きが、私の耳を犯し続ける。

 悲鳴の隙間に差し込まれるように聞こえる鋭い破裂音は、おそらくモリスの魔術の音だろう。不吉な水音もそれに混ざる。ぱきん。ぐちり。心に、脳に、こびりつく不穏なる音色。

 思わず私は耳を塞いで蹲った。扉に背を預けるようにして、鍵の掛からない簡素な扉が間違っても開くことがないように、己の身体を押し付ける。

 ぎゅっと目を瞑り恐怖に耐える。しかし、視界を闇で覆っても、その不協和音が途切れることはない。薄く頼りない私の掌を嘲笑うように、その悲鳴はすり抜け頭に直接響くのだ。

 そして私は、その声の中に――どこか懐かしいものを感じた。

――あれ? この声、どこかで? 私、聞いたことある。

 目を閉じていたからであろうか。怯えながらもやはりこんな状況故に集中する形となってしまった聴覚のせいか、兵士の声がクリアに脳に届けられる。そして私はその声の中に、数年前に掛けられた声の名残を見つけた。

――う、嘘……? この声って、まさか……

 それは思い出したくもない惨めな記憶。本心から愛していたにも関わらず、幼なじみという立場に甘え、奢り、そしてさっさとどこの誰だかわからない――都の令嬢様に搔っ攫われた初恋の相手。

 自ら閉めた扉を振り返る。

 あの兵士の顔は、膨れ上がった腕で見えなかった。ならば髪の色はどうだっただろう? 輪郭ぐらいは見えなかったか? それとも、何か……何かないのか。あの兵士が、“彼”だという根拠が。どこかに、どこかに……

 身体的特徴じゃなくても良い。着ているものは? 兵士の装備なんて私は知らない。ならば装飾品ならどうだ? 彼は、何か変わらず身に着けているものはなかったか? 何か、何か……

――あ、あの指輪……

 惨めな記憶の、それよりも前。幼なじみと言われる所以の年頃に、私は彼から指輪を貰った。

 なんのことはないガラスの模造品のような色合いだ。そこに貴金属の輝きはなかった。断言出来る。だって私は未練がましいにも程があるが、その指輪を大事に持っているだけでなく、今もこの指に嵌めているのだから。

 この指輪には宝石としての価値はない。それでも私は嬉しかった。幼い頃の私も、今の私だってずっとずっと。ガラスのような石がひとつついているだけのシンプルなそれ。石の中の仄かな黄色い光が、いつも私の心を慰めてくれる。

 彼はこれとお揃いの指輪を、自分も嵌めてくれていた。お揃いの指輪。その意味を幼稚な頭で『婚約』だと勝手に理解した愚かな私は、それから幾年もの歳月を『無駄』に過ごし、そして彼は都へと旅立った。婚約者の元へと。

 今から考えれば至極当然の結末だった。彼から指輪を貰った私。その事実に喜び、そして――愚かな私はその事実が、未来永劫有効だと信じていた。やったやったと喜びながら、幼い約束に浮かれ、そして胡坐をかいていた。

 彼がくれたのは指輪だけであって、想いではなかったと気付いた時には遅かった。それもそうだ。幼い頃の感情に恋愛を持ち出す方が間違っている。友好の証だからと、女の子が相手だから指輪が良いだろうと、そんな簡単な理由だったに違いない。愚かな私は何の疑いもなく未来永劫彼の横にいれるとばかり思っていた。自分の想いすら口にせずに。

 失恋というのも憚られるような思い出だ。全ては自分の愚かさが招いた後悔の記憶。

 そう、私は未だに後悔している。彼が去ってからもう二年以上が経過しているというのに、未だに――彼の声を聞き分けることが出来る自分の未練がましさに思わず……口元を引き締めた。

――もし彼が、ほんまに……彼だったとしたら……“クレイ”だったとしたら、私は……

 涙なんて、流している場合ではなかった。自分にはいったい、何が出来るのだろうか。強く塞いだ目と耳はそのままに、私はずっと頭の中でそればかり考えていた。

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