鉤爪信仰

とかげ彗

鉤爪信仰


 ――君はスタイルがいい。君は頭がいい。君は強くて、足が速い。君にはたくさんの仲間がいて、皆とうまくやっているという。なんて、羨ましいのだろう。


 紛争の続く故郷を運良く離れ、私と母は日本に逃れることができた。日本は平和だ。細々した事件は日々起きているだろうが、銃声や爆発音に怯える必要のない生活を送ることができるのは、私にとってとても幸せなことであった。銃を持たずとも身の安全を享受できる、目覚めに不安を抱きながら眠らずとも良いこの国は、適度な関心と無関心でできている。故郷が英語圏であったことも幸いし、「コンニチハ」「アリガトウ」「サヨウナラ」――ほんの少しばかりの拙い日本語とともに何とかコミュニケーションを取ることが可能であったことも、私の幸運な点であると言えよう。


 支援団体と政府の厚意もあって学校に通うことができている私は、本をたくさん読むようになった。絵本、子供向けのフィクション、偉人の伝記、そして図鑑。図鑑は私に世界の広さと深さを教えてくれる。世界には色が溢れていることを教えてくれる。動物図鑑、恐竜図鑑、昆虫図鑑……私は貪るように読み漁った。そんな私に、一つの誘いがかけられた。博物館の恐竜展に行かないか、という誘いだ。はるばるアメリカから大きな恐竜の復元模型が、日本・東京の博物館に貸し出されるという。特に新種というわけでもないが、それは私の故郷近くの地域から発掘された化石ということもあり、学校の先生が気を遣って私を誘ってくれたのだ。二つ返事で私は了承した。図鑑で見た恐竜たちに会える。私は日本に来た時以来の興奮と緊張に包まれていた。



 東京都内にありながらも都会の喧騒から離れた広い敷地に佇む、大きな大きな博物館。赤く光る魚の目、足元のガラスの中でさざめく貝殻や珊瑚たち。生きている時分の姿をとどめたような哺乳類の剥製が森の中に息づき、地球型のモニターが来館者に世界を告げる。初めて見るたくさんのものに、頭がくらくらする。人間が思っているよりもずっと、ずっと。きっとこの地球では多くの生命が蠢き巡り、大きな流れの中を泳いでいる。勿論博物館には、たくさんの人間――来館者もいる。人の波の中を私がゆっくりゆっくり歩くのを、先生がゆっくりゆっくり手をひいて、見守ってくれている。家族と何の不安もなさそうに楽し気な会話をしている子供たちが、たくさん博物館には訪れる。私と同じくらいの歳の子供。銃声を知らない子供たち。俯いた私に、先生が優しく声をかけてくる。


「ほら、今日のお目当て、恐竜展の場所に来たよ」


 息を飲む大きさの命の残滓がそこにいた。太く頑丈な骨格、眼窩の闇は底知れず、見る者に恐ろしささえ思い起こさせるその姿。乱立する命の彫像の間で、私という存在は本当にちっぽけなものであることを、否応無しに突きつけられた。いや、私の存在だけではない。きっと、人間の争いだとか営みだとか政治家だとか軍人だとか、そんなものも全て、だ。全てがちっぽけだった。故郷のこと父親のこと母親のこと、未だ故郷に残る友人のこと家のこと、私の失った踵の骨のこと、私にのしかかること全部全部、薄情にもここでは忘れることができた。私はこの場の空気に圧倒される一方で、それを全身で感じ取り込むことに必死になっていた。


 博物館を気に入った私は、それから毎週のようにそこを訪れた。

 そんなある日、君に出会った。君の存在に私が気づいただけと言っていい。けれどそれは私にとって、――大袈裟で陳腐な表現をすれば――運命的な出会いであった。君は白い壁を尻目に薄暗い照明に照らされて立っている。体の中央に棒を刺され、ぐるぐるぐるぐる回転させられる君を見ていると、脳裏には魔女裁判の火炙り、だとか、磔の十字架、だとか、物騒なキーワードばかりが浮かぶ。それを見守る私は、さながらジャンヌ・ダルクを見守る民衆、あるいはマグダラのマリアか。




 デイノニクス・アンティルロプス。名前はきっとない。


 君の種のことは知っていた。私は好んで図鑑を見ていたし、なんといっても図鑑に記された君の仲間の姿。美しく並ぶ鱗、鋭い瞳、長く伸びた尾。何よりその四肢に光る鉤爪が目を惹いた。骨格標本でも尾の長さと鉤爪の美しさは変わることなく、私の目に焼き付いている。


 スリムで引き締まった身体。美しい生き物は骨格からして美しい。いや、違うな。図鑑のイラストが後付けで、化石を元にした骨格標本の方が、君が教えてくれる君の姿を先に描いているのだから。美しい骨格からは美しい肉体が再現される、といった方が正しい。化石は私たちに、かつて地球に生きていたものどもの全てを教えてくれるわけではないけれど。私たちが「それ」を知るには、化石は欠かすことのできない重要なパーツである。君たちが生きていたことを表し、君たちが死んでいることを表す。私は今、君が死に絶えていることに安堵する。なぜなら君は危険な肉食恐竜で、私は非力な人間だからだ。


 それからというもの、博物館を訪れる度に君をスケッチした。君が何も言わないのを良いことに、ぐるぐるぐるぐる棒を回転させて君の三百六十度を拝んでは紙に描く。もはや私はマリアなどではなく、もっと図々しい何かである。恐竜と人間では、勿論身体のつくりが違い、骨の数が違い、脳のつくりが違い、しかしこの地球で同じように息をしていた。同じように水を飲み、他者を食らい、排泄をし、眠った。時代は違い、大地の温度も空の光もきっと違っているだろうけれど、私たちはこの星でぐるぐるぐるぐる連綿と回る生命のサイクルに組み込まれている。


 スケッチをするためにずっと君を眺めていると、私はなんだか君に声をかけたくなった。けれど博物館で展示物に向かって話しかけている人間、というものは、いくら子供とはいえ不審に思われるだろう、と考えつくくらいの分別は私にもあったので。


 ――だから、私は君に手紙を書くことにした。


 名も知らぬデイノニクス・アンティルロプスさん、初めまして。


 私は、〇〇〇〇と言います。ホモ・サピエンスという種のひとりの個体です。


 私は半年前日本にやってきました。毎日続く紛争から逃れるためです。君はいつ日本に来たのですか?日本の空気は、君に馴染みますか?
 突然ですが、私は君が羨ましい。とても、羨ましく思うのです。君は、私の憧れです。


 まず、君はスタイルが良いですね。スリムで、無駄のない身体構造、生前はしなやかな筋肉が付いていたのでしょう。長く伸びた尾も格好良く、また特にその鉤爪はひときわ輝いて見えます。肉を切り裂く為でしょうか、身も守ることもあったでしょう。大きく黒く鋭いその鎌のような鉤爪。私には持ち得ない武器です。身体に武器を持っているなんて……生え揃った牙も良いですね。


 次に、君は頭が良いと聞きます。図鑑で読みました。他の肉食恐竜よりも大きな脳を持ち、また君ではないけれど君に近い種は、進化の果てに人間のような脳を持ち得る可能性もあったなんて! トロオドンの進化の先に行き着く可能性を提唱された、ディノサウロイド。与太話のひとつでしょう、けれどそういう可能性を思わせる君たちの賢しさに、私ははっとするのです。


 君は強くて、足が速い。肉食恐竜の中では小柄な体躯ながら、大きな草食恐竜をも果敢に襲い、他の肉食恐竜と争ったこともあるそうですね。その際には鉤爪が大いに役に立ったのでしょう。俊足で有名なガリミムスほどではないにせよ、時速四十キロメートルにも達する速さで走ることができた君は、弱く愚鈍である私の憧れです。君のような足があれば、私は走ることができたでしょう。君のような爪があれば、私は戦うことができたでしょう。君のような……。


 群れを作り集団で生活していたと言われ、ある程度の社会性を持っていた、という点も、集団に馴染めず弾かれ一人で日陰を転々としている私にとって、眩しく映ったものでした。勿論集団の中では、弱く病気がちな個体もいたでしょう。けれどこんなに綺麗な骨格標本が作れるほどの化石が残っていた君は、きっと体も丈夫で集団の中でもリーダーのような存在だったのではないでしょうか。私が集団で馴染めないのは、仕方のないことではあるのです。日本の子供たちにとって私は外国人、しかもおそらくあまり馴染みのない国から来た人間です。日本語を喋ることもできず、書くこともできず、大きな音に怯える私を、彼らがそう簡単に受け入れるはずもありません。積極的に加害されているわけではないのだから、幸いな方でしょう。けれども遠巻きに私を見る目が、空気が、時折私を苦しくさせるのです。どうして、なぜ、私だって何もなければ今頃故郷の学校で、同じ国に生きる子供たちと楽しく暮らしていたはずなのに。とはいえもともと内向的でおおよそ暗いと言われる性格をしている私は、やはり皆と馴染むことできずにひとりポツネンとしているような気もするので、君が羨ましいことに変わりはありません。


 君は私の存在など顧みることもなく(そもそも見ることもできないのだから当たり前です)、ただ、そこに在る。それは私にとってとても居心地の良いものでした。君が今生きているとしたら、こんなに近くで君を見ることなど叶わないのだから、私は君が今化石であることに感謝しなくてはなりません。こんなにも美しい姿を後世に残してくれたこと、私は君にも、君を発掘してくれた人にも、この化石を組み立てて表舞台に押し出してくれた研究者にも、感謝しなくてはなりません。ありがとう。


 とりとめのないことばかり、書いてしまいます。これでは手紙というより日記ですね。もし、よければ、速く走るコツを教えてもらえたら嬉しいです。私の足が良くなった時、速く走ってみせて皆を驚かせたいのです。


 それでは、また、会いに来ます。さようなら。


 綺麗とは言い難い文字の羅列。クジラの描かれた薄青の便箋、青いインクのペンで書いた手紙を封筒に入れ、銀色に輝く星のシールで留めて封をした。故郷から持ってきた、お気に入りのレターセット。せっかく君に手紙を出すのだから、大切な、お気に入りのものを使うべきだと思ったのだ。


 書き上げた手紙を一通り眺めて、ふぅ、とため息をついた。宛先はどうしよう。君が住んでいるのは博物館なのだから、博物館に出すべきだろうか。しかし博物館もこんなものを受け取っても困るのではないだろうか。脳裏に君が浮かぶ。ほんの出来心だった、私は手紙に博物館の宛先を書いてしまった。そのままポストに投函することは気が引けて、手を止める。もう夜も遅いだろう。手紙を小さな机の上に放り出してベッドに転がると、瞼の裏には色とりどりの稲妻が瞬いた。


 翌日学校から帰ってくると、机の上に置いたはずの手紙は無くなっていた。母が片づけたのだろう、と、特に気にも留めなかった。元々自分の気持ちを整理するために書いたようなものだ。それが片づけられたのなら、いっそ気分は切り替えられると、思った。


 ◆


 あれから十年。


 世界には変化もあり、変わらないところもある。そう、例えば、私の故郷の情勢とか。
 私の生活には変化もあり、変わらないところもある。そう、例えば、私の失くした踵のこととか。


 博物館へと宛てた手紙は、三年後に返事が来たのであった。勿論君――名も無きデイノニクス・アンティルロプスの骨格標本――からの返事ではなく、とある研究員からの返事ではあったのだが。


 バイオミミクリー。生物を意味する「Bio」と模倣を意味する「Mimicry」を合体させたこの言葉は、自然の形・プロセスそして生態系から学び得た事柄を、技術開発や製品開発に活用するという、ジャニン・ベニュス氏によりその著作で提唱された考え方である。鳥の翼の形状と飛行メカニズムを応用した航空機、蟻塚の構造を模倣した省エネ効果のある建築デザインなど、近年この考え方は世界中で広まり様々な企業がバイオミミクリーに基づく研究を進めている。長い年月をかけて最適化された生物の形態や仕組みを取り入れることは、地球環境へも人間へも負担が少ない持続可能な世界に近づくために有用であると、各企業が考えているのだ。


 私の両足。故郷で負った大怪我が元で、踵の骨は粉砕されてしまった。特殊なブーツを履くことでなんとかふらふらゆっくり歩くことはできても、もう二度と走ることのできない足。街に残された不発弾の暴発に逃げ遅れたあの日のことは、よく覚えていない。物心ついた時には既に私の踵は死んでいた。両足を切断するような羽目にならなかったこと、完全に歩けなくなりはしなかったことを鑑みると、私はとても幸運と言える。けれど、たまに思い知らされる。私は走ることができない、と。


 さて、バイオミミクリーと私の足、一見無関係なふたつを繋ぐものが、君だった。デイノニクス・アンティルロプスの姿や強さに憧れる私の手紙をきっかけの一つとして、恐竜の走り方を研究しそれを取り入れた義足や歩行補助器具の開発が始まったのだという。そしてその研究に協力してもらえないかという誘いが、私の出した手紙への返事であった。あの日博物館へ行く誘いを二つ返事で受けた時のようにすぐに決めることはできなかった。母に相談し、当時まだ故郷で兵士として活動していた父に相談し、私は協力を決めた。


 それから七年。


 私は今、踵を地に付けずに、いや付けないことでハイスピードで走り回ることができた恐竜たちの筋肉の使い方・バランスの取り方・神経への刺激の仕方、そういった特徴や生体のしくみを取り入れて完成した歩行補助器具によって、走ることができるようになったのだ。


 私は走ることができる。蹴ることもできる。


 恐竜を、君の仲間を、君を糧として、私は再度足を取り戻したのだ。


 器具が完成した日から、私はひとつ、君の鉤爪の化石に良く似た黒曜石の小さなナイフを、鞄の中に入れている。これは御守りだ。君の足で私は走り、君の鉤爪で私は勇気を得る。低レベルな依存であり、身勝手で甘美な融合であった。だがあの日君に手紙を書いた少女は、君の力を借りてなんとか地に足付けて立っている。


 研究に協力している間、恐竜、とりわけ君のこともたくさん教えていただいた。十年で、恐竜の研究も進み、かつてと異なる見解が発表されることも日常茶飯事だ。


 今では、君の体は鱗というより羽毛で覆われていたこと、社会性を持ち集団生活を送っていたわけではなく、共食いも辞さぬ孤立し荒んだ一生を送っていたこと、脳のサイズは大きくても実際他の恐竜に比べて知能が高かったかは疑問なこと、そういった事実を私はちゃんと知っている。けれど私は君が今でも眩しく見える。


 あの日始まった私の幼い思い、十年で変わらないことのひとつだ。


 けれど君が危険な肉食恐竜であることを、眩んだ私の目は頭で思っているほどには理解できていなかったのだろう。バイオミミクリーは本来人間にもこの世界にも地球にもやさしい理念であったはずなのに。恐竜たちの研究結果がもたらしたものは、足の代わりだけではなかった。


 世界には変化もあり、変わらないところもある。そう、例えば、私の故郷の情勢とか。
 私の故郷で撒き散らされ続けている紛争は、じっとりとした激しさを増しているようだった。そう、恐竜を模倣した力を与えられ、凶暴さを増した兵器によって。アンキロサウルスの装甲を模した戦車、ティラノサウルスの歯の腐敗性細菌を模した感染症を引き起こす生物兵器、獲物へ深い裂傷を引き起こすデイノニクスのシックル・クローを模した近接用武器。君たちの危険な暴力を、非力な人間たちは利用している。激化する戦火。けれど私は君の、君たちの、鎧を、牙を、鉤爪を憎みきれずにいる。あの日覚えた美しさをまだ憶えている。私は私の足に愛おしさを感じずにはいられないのだ。たとえ私の足と私の故郷を蹂躙する兵器の本質が、同じであるとしても。


 博物館に訪れる。あの日から見続けている命の残滓は変わらずそこに聳え、人間などには目もくれずただそこに在る。君たちはただ力でありただ生命であり、それに意味を求め意義を見出すのはいつだって人間の仕業であった。


 君たちによって走れるようになった私。君の鉤爪を模した御守りを持つようになった私。結局君のように強くは在れない私。薄暗い博物館の隅の椅子にうずくまる。顔を覆って嗚咽する。


 私が君であったなら。ただ生きることができただろうか。ただ世界に在る強さを、手に入れることができただろうか。


 けれど私は人間で、けれど私は生き延びていて。今日もこの地球で息をし思考する。


 顔を上げれば君の姿が目に映る。ぐるぐるぐるぐる、知らない子供が君を回している。魔女裁判の火炙り、磔の十字架。いつだって罪深いのは人間で、傍観者の民衆である私も例外ではない。


 君は私に声をかけない。君は私に目をくれない。君は私を慰めない。君は私を励さない。それでよかった。それが、よかった。それでも君が力を貸してくれたと、私がそう思っていればそれでいい。


 涙を拭い、立ち上がる。踵はなくとも立ち上がれる。私は走ることができる。
 故郷から逃げ日本で平和をのうのうと貪る私を、卑怯者だと罵る人はいるだろう。けれど私は人間で、けれど私は生き延びていて。今日もこの地球で息をし思考する。


 君のようにただ力として生命として在れない私は思考する。


 呼吸と思考の果ての果て、いつか君に誇れる私になれますように。


 名も知らぬデイノニクス・アンティルロプスさん、それでは、また、会いに来ます。さようなら。

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