第2話 訪れた奇妙

事務所に近づいてくる靴の音に、思わず心臓が高鳴る。


ただの靴音ではない。

このコツコツと小気味いい音は本革の靴だ。


金持ちの匂いがする、耳が幸せになるほどの福音。

千載一遇のチャンスだ。


「ミラ、掃除は後にしよう」


飛び跳ねるように起きて事務所の入り口まで進んでいく。

掃除は生きていく上で欠かせない大切な行為だが、今は例外だ。


「金の出迎えを優先する。ったく進みにくいな。何で普段から掃除していないんだ?」


「ディアナ、依頼人のことを金って呼ばないで。……ねぇ、掃除。今すぐ」


「分かってる。後で。絶対に後でやるから」


ミラの刺すような冷たい視線を無視し、本の海をかき分けて部屋を出る。


当然、こんな汚い部屋に客を招くわけにはいかない。

話はどこかの店で、飯でも食いながら聞かせてもらおう。


まずは丁寧な出迎えだ。


依頼人を驚かせないよう、ノックを待って、こちらから扉を開ける。

金が逃げないよう、慌てずゆっくり……。


「あの、すいませ〜ん」


何の前触れもなくギィギィと音を立てながら扉が開く。


どうやらノックをしない客のようだ。


まぁ、それ自体は別にいい。

ノックなしに入ってくる客なんて大勢いるし、むしろ俺の事務所の客層は、ノックなんて言葉を知らない奴も多い。


だがこれまでの経験から言って、金払いのいい奴はノックをする。

金持ちには教育が行き届いているからだ。


靴の音は期待できたのだが、靴だけ綺麗な貧乏人の可能性がでてきてしまった。


思わずため息をつきそうになったが、ここは我慢。

上客の可能性を考え、全力の営業スマイルだ。


「いらっしゃいませお客様。本日はどのような……」


「あ、あの……ボディガードの依頼をしたくて。史上最高のボディガード『黒猫』さんがいらっしゃる事務所はこちらでしょうか⁉︎」


現れたのは予想を上回る珍客だった。


まず目を引かれたのは清潔感漂うメイド服。

黒いワンピースの上に白いエプロンという、余計な装飾が一切ない正装。


見てわかるほどの滑らかな質感がある高級品だ。


成金のメイドではないだろう。

こういった正装を重んじるのは歴史ある家。

貴族でも格調高い家の特徴だ。


だが当のメイドは……なんというか、服に着られてる感が強い。

肩のあたりで切り揃えられた黒髪に、幼さが残る16〜17歳の顔立ち。


硬い表情からガチガチに緊張しているのが伝わってくる。

雇われて初めての仕事なのかもしれない。


そして最高なことに、とても都合のいい勘違いをしてくれている。


「史上最高?『黒猫』が?」


「は、はい……そう聞いて来たんですけど」


確かに俺は『黒猫』という不名誉な呼び名がある。


どこの誰だか知らないが、俺の真っ黒な手足と不幸を呼ぶ体質をからかって名付けたらしい。


だから俺は史上最高などではない。

それは勘違いだと、正直に伝えなくては。


初対面の無垢な依頼人を騙すなんて、善人の俺は絶対にしない。

良心が張り裂けてしまうからな。


「あぁ。俺が史上最高のボディガード『黒猫』だ。依頼料は高いけど、最高の仕事を約束するぞ」


おかしいな。こんなことを言うつもりはなかったのに。

この悪い口め。後でお仕置きだ。

このメイドからの依頼料で、ステーキを食べさせてやろう。


「あぁッ‼︎よかったです。やっとお会いできました」


俺の言葉を間に受けたメイドが、パァッと表情を晴れ渡らせる。


夢にまで見たヒーローに出会ったかのような目の輝き。

心が躍っているのが雰囲気で伝わってきた。


……なんか胸の奥がチクチクする。


違う。良心が痛んでいるんじゃない。


俺は純粋な心を持つメイドを騙してなどいない。

バレなければ、嘘は素敵な真実のままなのだ。


このまま依頼を受けて、そして問題なく達成すれば良いだけだ。


「それではお話を伺いましょう。あいにく事務所が立て込んでおりまして……よろしければどこかお店に入りましょうか。あ、できればおごっていただいて……」


「ウィンド・アッパー」


「ヴィェッ‼︎」


突然体が浮き上がり、天井と熱烈なキスを強要される。

その後は床とのキスだ。


キスって血の味がするんだなぁ。

ホント容赦ねぇよコイツ。


床に平伏す俺を踏んで、何事もなかったようにミラが進んでいく。

そしてメイドに対して、中に入るように手招きした。


「珍しいお客さん……入って。お茶を入れる」


言ってることは普通なのだが、ミラの声は冷たい。

これは機嫌が悪いのではなくミラの素の声なのだが、そんなことをメイドが知っているはずもないわけで……。


思いっきり怖がってしまっている。


目をパチクリさせつつ、有無を言う余裕もなくミラを追うように中に入っていった。


……まずい。


俺に一切の責任は無いが、応接室は散らかってるんだ。


あんな部屋を見られたら確実に逃げられる。

来客用のソファが本に埋もれてる事務所に依頼するやつなんていない。


「おいミラッ‼︎ちょっと待って……って、あれ?」


メイドの後に続いて部屋に入った俺の目に、異世界が飛び込んでくる。


そこは本が全て本棚に収まった部屋。

向かい合うソファの間に置かれたテーブルの上では、3つのティーカップが湯気をたてていた。


何の文句もない綺麗な応接室だ。


「……魔法を使って片付けたな」


俺の魔法と違って使い勝手がいい。

正直、羨ましい思いでいっぱいだ。


そうだよ。こんなすぐに掃除できるなら、今度からミラに掃除を全部任せればいいじゃないか。

もう俺は二度と掃除なんてしなくていいな。


ミラが殺し屋みたいな目でこっちを睨んでくるのが気になるが、まぁ何か嫌なことでもあったんだろう。


可哀想なことだ。


それよりも今は依頼人が優先。

ソファに座ってくれと案内しようと思っていたのだが、それは無用な心配だった。


「おっと」


特に何も言っていないのに、メイドは奥のソファまで歩いて行き、そして勝手に座る。


従者であるメイドは無意識に下座に向かってしまうことが多いのに。

もちろん今はお客さんという立場だから、上座に座るのは正しい行動ではあるのだが。


なぜだろう。どこか上座へ行き慣れているような雰囲気がある。

ひょっとしたら、俺を騙しに来た詐欺師かもしれない。

ここは慎重に話を進めなくては。


そんな考えを巡らせていると、メイドが小さな袋を出してくる。

そこから聞こえてくる、金属が擦れる音。


これは……。


「あの、一応ここに依頼料は用意しています」


「依頼を引き受けましょう。さぁ、その金貨を俺にください」


またも俺の意思に反して、口が勝手に開く。


やってしまった。


何度も経験しているのだから、いい加減気がつくべきなのに。

不幸への入り口は、いつも甘い顔をしているのだと。

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