観測記録の破片2 最高の人生への道中(4)

 何とか薬の服用により公命に対して抱く筈の違和感は、誰にもバレずに時刻は放課後を迎えた。夏と言うには夕日が早く、秋と言うにはまだ少し暖かいそんな気候だからこそ、校舎の中は電気を点灯しなくては暗く、生徒も残る必要のない各学年の教室は真っ暗だった。


 学校内で誰かを待つとなると、必然的に教室は選択肢の外、そして中で行う部活動の邪魔にもならない外となり、隅にある大して使用された形跡もない椅子で立花巴を待つ事になった。


「巴、今日野球部の練習はあるのに出ないんだね、なんか元から用事あったの?」


「さぁ?私は知らないよ。私は、これからスターになる人間の過去の幼馴染でしかないんだから」


 小山伊織は、公命にだからこそ見せる言葉を放つ。立花巴には間違いなく話せず、出雲芽生に話せば発破を掛けられる、何か言う事はあっても行動には起こさない公命が一番、気軽にこの手の話しができるのだろう。


「また、そうやって悲観して。まぁいいけどさ、どうせ卒業までには嫌でも進展するよ、まぁどっちかが考えられる中で最悪な行動をしない限りはかくてーで」


「なんか、そういう考え方少し芽生ちゃんに似てきたね、良い事なのかは分からないけど、芽生ちゃんもどこかって言うのは言語化できないけど、公命に似てきたよ。なんか複雑…」


「まぁ、似てきた所で…っていう話ではあるんだけどさ。俺と出雲さんの関係は巴と小山さんとは違って、間違いなくこの高校3年生の一年間で終わりだからサ」


 澱んだ瞳で公命は野球部の練習ではなく、更に遠い空を眺める。立花巴と小山伊織が逝きつく先を祝う事も出来ないというのは、彼にとっての心残りの一つでもあるのだろう。


「芽生ちゃんがアメリカ行くって話?それは、止めない、着いていこうとしないアンタが悪い。それに芽生ちゃんにその気があれば日本に帰ってきて、公命を探すでしょうよ」


「探した所で意味ないよ、どう考えてもやっぱり…俺じゃ出雲さんの隣には居られないからね。………巴の面談も無事に終わったみたいだ、っさ、一緒に帰ろうか」


「ねぇ、それってさぁ…」


「ん?」


「いや、何でもない…そうだね一緒に帰ろうか…公命の言う通りこうやって3人で帰れるのも今年が最後だ。普通に皆別々の道に行くんだもんね、これからはさ」


 公命のその言葉から感じた違和感を、小山伊織は口に出そうとする事を無かった。だが彼女が口に出そうとしている事はきっと誰でも公命と話せば気づく事であろう、何故そんな悲しそうな顔をして、出雲芽生から離れようとしているのだろう?と、きっと出雲芽生以外の誰もが気づくような事を当事者だけが気づけずにいる。


 小山伊織の自転車を取りに行っている間に、校門の前で立花巴が口をつけていたペットボトルを飲み切り、苦しそうにしていたネクタイを緩める。もうすぐでクールビズの期間の終了と校舎張り紙書かれているが、それはつまりクールビズの服装でいいという事だと私は思うのだが、やはり重要な話がある場合はそういう期間であっても、服装は固定されるのだろうか?ならばなんの為の期間なのだろう?それでも許されるべきなのではないかと、無駄な事を私は考える。


 その理由というのも普段であれば、公命と立花巴は自然と会話が成立するのだが、今日は静かだ。私が見逃しただけで二人の間に何かあったのだろうか?


「なんか静かだな…、こんなに静かだと何を話せばいいのか…、あのサ…お前と出雲って…」


 立花巴の声が公命に届いていない。公命は出雲芽生を追ってか、遠くの空をボーっと眺めている。綺麗な夕焼け、秋を思わせる茜色の空は見えても建物が邪魔で夕日は見えない、この街で、詰まる所大して空が澄んでいるだけのいい景色ではないこの風景で、彼は何を感傷に浸っているのか。


「公命?……おーい?聞こえてるかー?」


「…………………っは!ボーっとしてた、どしたん巴?」


「え…、いや…、改めて聞くとなるとちょっと恥ずかしいんだけども…」


「えーなになに?そんな恥ずかしがることないでしょ、こちとら小学生の頃からの付き合いだぞ?それこそ小学生の頃は、将来の夢から好きな女のタイプまで語り合ったじゃない」


「それはまー、そうなんだけどサ、いやでも気になるじゃんかー、俺達恋人だけはこの歳になっても作れてなかったし、作る気も無かったってのもあるけど、実際どうなのよ?」


 この世界には恋愛におけるABCというのがある…らしい…、今この世界の常識を少し調べた。立花巴はそれを知りたいのだろう、AからBは当然のだろうという推測の下話していると推定。


「実際にどうと言われましても、まぁデートはしてるよ?映画見に行ったり、ショッピングや後は出雲さんの気晴らしだったり、後は俺の家で卒アルとか過去の写真を勝手に見てるかな?」


「あー…そうじゃなくてな?恋のABC的なあれだよ、キスとかはしたのかって聞いてんの!」


「あ、そういう話ね…、キスはしたかなそんなに回数多いわけじゃないけど、まぁ出雲さんがする気が合ったあの時以外で思い出せって言われても思い出せないから…まぁAまで?」


「えー?半年付き合ってそこまでしか言ってないの?男としてどうなんだよそれ…俺なら」


「俺なら?どうしたの巴?紹介してあげた、私の大事な友達を振って、何を求めるの?ねー、教えてくれなーい?そんなに付き合いたいなら、なんであの子を振ったのぉー?」


 完全に怒りに身を任せている状態で、小山伊織は自転車を押しながら現れる。まぁ恋人が欲しいと言っておき、自分はフリーだよというアピールをしておきながら、いざ告白されると逃げるという、男性の恥ともとれる行為を繰り返す立花巴を見かね、小山伊織が自身に寄せられた恋の相談に乗り、この娘であれば大丈夫と立花巴の前に出したが案の定理由を碌に説明せず振るという行為をされた身からすれば、憤慨の感情を出しても足りないくらいであろう。


「いやー、それはぁー、だからさぁ、わかるだろ?お前ならさぁー」


「わかってたまるか!私の友達を泣かせた裁きを巴に喰らわせてやる!」


「はいはい、仲いいのはそれ位にしてとっとと帰路につくよー」


 これが3人の普通だ、立花巴と小山伊織が生み出す騒音を、公命が静止する。十年ちょっと繰り返してきた日常の風景だった。なぜだろうか?卒業までの間であれば、この時間は幾らでも作れた筈なのに、なぜ公命は今になってこの時間を作ったのだろうか?出雲芽生が居ないから?それとも別な理由があるのだろうか?どんな理由があるにせよ、心から3人で笑い合う、この光景だけは私にとっても良き景色だ、だからただ見たいから見たかっただけなのかもしれない。


「そえばさー、結局大学?実業団?の誘いはどうだったの?その為に態々今日ブレザー持ってきたんでしょ?」


「あー、それ私も聞こうと思ってた、巴は馬鹿だから名門大学行ってもなんも勉強でき無さそうとは思うけど、実業団なら仕事としながら野球で選択肢としてはありなんじゃない?」


「あーその話ね、今日来てくれたのは大学の方だけど、やっぱり断ったよ、即プロ行けるなら、プロの世界に行きたいって言った、そしたらさー相手側が…………」


「えー?スカウトとしてそれは…………」


 目の前が暗くなる、貧血による眩暈や吐き気といった症状ではない。公命は物理的に目の前が暗くなった、客観的に言うのであれば人は頭から転べば瞬時に目を瞑るというのは、当たり前の事なのかもしれない。けれどそれにしても少しおかしいという感覚が公命には残った、二人の背が少し離れている。いつから自分は歩いていなかったのだろうかと、そもそも先ほどの会話は現実なのかという恐怖感に襲われていた。


 だからこそその恐怖を終わらせる為に足と手を使って体を立ち上がらせ、二人の傍に戻らないといけない筈なのだが…、それでも公命の足には力が入らない、動きたいのに体が言う事を聞かない、いつもの様に痛みによるモノでは無く、公命は不意に体の力が入らなくなった。


 先ほどまで動けていた筈、だから公命にも分からない。けれど声が出せる事に気づく、ならば声を出せばいいじゃないかと、公命は口を開けようとしたその時だった。


「はれ?……な……か……視界?………」


 目の前に赤い斑点が広がり、公命がとっさに頭を押さえていた左手は赤くなる。視界の半分が赤く、そして生暖かい感触が顔を、首を、肌を伝う。ドジをしたと思いながらも、前に手を伸ばす、すると何者かがその手を取る。誰が?そんな疑問を公命は抱きながらも、体を上向きにし横になる、音が聞こえない、視界も徐々に狭まっている。けれどその僅かな視界の隙間から見る、茜色の景色は確かに綺麗だった。


(あー、アメリカは今何時かなぁー……、なんか急に寂しくなっちゃった…早く帰ってこないかなぁ…芽生………)


 綺麗な景色を見て思った事を口にし、公命の瞳は閉じる。


 大声で、公命の名前を呼ぶ親友の声と、急いで救急車を呼ぶため電話している親友の幼馴染の声などは公命には聞こえない。公命の眼中には出雲芽生しかいないだからという訳ではないが、彼の意識は遠い空の向こう、アメリカで爆睡しているであろう出雲芽生と同じ夢の中へ向かっていく。




 人間の眠りには、浅い眠りのレム睡眠と深い眠りのノンレム睡眠があるという。意識不明がどの状態に当たるのかを知りはしないが、まぁそもそも今回の公命に起きた出来事は別に意識不明の重体という訳ではなく、睡眠不足や食欲不振という事が全て噛み合わさり、そこに逃げる事の出来ない病魔の影が公命の首根っこを掴んだ結果、全て合わさりこの状況に至った。


 今は、立花巴らが呼んだ救急車に運ばれ。公命の両親にも連絡を済ませ、今彼らは公命の母親から、公命がどういう状況なのかを説明を受けている。


 そんな中公命は、浅い眠りから目を覚ます。周りの見慣れた機材を見て、自分がどういう状況に置かれたかをすぐさま把握した、ならば最後に近く居た二人には、自分の状況が二人に知られているかもしれない、だからこそ重い体を引きずりベッドから転げ落ちた。付けられていた医療器具を無理やり引きはがし、力の入らない体の出せる限りの力を使って、這いずり病室の外へ出た。


 公命は二人に知られるのは別に構わない、少しだけ同情されそうで嫌という気持ちはありはするが、それよりも出雲芽生に知られるというのが、今彼にとって一番避けたい事であった。


 この状況を出雲芽生に知られるという事は、公命が何故この1年だけと言う事に拘っているのかが知られる。


 バレたくない、知られるのが怖い、公命の人生に恥じる事は何一つない無い、けれど出雲芽生に対して隠し事をして、その隠し事の所為で出雲芽生の願いを反故にしたという事は、公命の人生における唯一の汚点になる。


 短いと決定づけられていた人生、最後位はいいモノにしたい。そんな中舞い込んだ、出雲芽生からの誘い。その誘いを受け、自らの願いさえ偽り、あまつさえその利用しようとした誘いの中でさえ、出雲芽生への想いを本気にしてしまった。そして大好きなった相手にすら、自らをさらけ出せない人間の末路と言えば、聞こえはいいのかもしれない。


「少しは楽になったけど…、まだ体に力が入らないどうしたんだこれ…」


 病院の廊下へ這い出るが、近くに時計がない。外が暗いという事から夜という事は推察できるが公命は一刻も早く詳しい時間が知りたかった。時間が経てば経つほど出雲芽生に自らの情報が伝達される可能性がある、それだけは防ぎたいという公命なり決意の行動だ。


「何してんの………、公命。病人は大人しく病床に就いていなよ」


「あ、おはよ。小山さんちょっとね、口ふう……、二人に説得したい事があったから…なんとか帰る前に一度面と向き合ってお話を…、あー、持ち上げないでー」


 一般的に男性が女性を持ち上げる事があっても、女性が男性を持ち上げるという事は少ない。余程その男性と対格差があるか、女性側が男性を凌ぐトレーニングを重ねた結果それを成せる筋力を得る事が出来る。けれど公命はその全てに該当しない、何故ならその体重が減り続けた体は、平均を大きく逸脱し、常軌を逸した軽さになっていたのだから、特段意識せず最低限の活動を行い運動行っている健康的な人間であれば、平均を少し下回る男性の身長、中身を構成している要素がほぼ骨と内臓で、脂肪と筋肉が最低限度しかない公命の体は例え普通の少女であったとしても、いとも簡単に持ち上げられる。


「いや、お姫様抱っこは流石に恥ずかしいんだけど、そういう事は巴に取っときなよ」


「う・る・さ・い!こっちがどれだけ心配したと思っているの、言って置くけど私も巴も公命の事は、全部公命のお母さんから聞かせられてるから、もう隠しても無駄だよ」


「そっかー、バレちゃったかー、芽生にも知らせたの?そうしたら結構本気で怒るんだけど」


 助けてもらっている立場でありながら、出雲芽生に知らせたかどうかだけは語気を強め、公命は小山伊織問うた。決して十数年来の友人であってもそれだけは許さないと言わんばかりに、その事に対しYESと唱えるだけでその友情も破綻させると言っている。


「それに関しては、お前の母ちゃんにどうしてもって口留めされて、言ってないぞ」


「あー、巴も居たんだー。まぁそれならありがとう」


「でもちゃんと話してもらうぞ、なんでそこまでしてお前の状況をひた隠しきた理由を」


「えぇ―めんどい、バレたくない、そういう目で見られたくない、死ぬのなら誰にも迷惑かけず、誰にも思われずに死にたいから?俺が誰かを想って死ぬのはいいけど、誰かに想われて引きずられるのは面倒…」


「お前…最低だな。まぁいいや、それが本心じゃない事は長い付き合いだから分かるし、けどそれと同じことを出雲の前でほざいたら俺はお前を本気で殴るぞ?」


「いいのー?プロ注目の逸材が、暴力沙汰は良くないんじゃなーい?」


 ヘラヘラと冗談を言うように公命は軽口を叩く、長い付き合いのある二人には本心ではない事は簡単に気づかれている。けれど全てが嘘という訳ではない、出雲芽生が特別なだけだ。それ以外の人間相手には、それが十年数年来の友人である二人相手でもそれが本心になってしまう程に、彼の瞳は狂い始めていた。


 まだ半年、まだ数か月と思っていた死という結末、納得もしているし、後悔も無い、けれどやはり出雲芽生との関係が、病魔あるいは、死というモノに阻まれるのがただ嫌なのだ。


「ヘラヘラとするのはいいけど、本当に芽生ちゃんにはどう伝えるつもりなの?」


「さぁ?まぁなる様になるよ、どうせ芽生との関係は3月一杯で契約満了なんだから」


「そう…、巴帰るよ、話していても無駄な時間だった」


「あ…、おい」


「そう怒んないでよ、これが俺なんだから、こう生きる事を義務付けられたんだから、こんなゴミみたいな価値観でもしょうがないでしょ?」


「そうね、でもなら芽生ちゃんの事下の名前で呼ぶの止めたら?そんな自分は全部諦めていますっていう態度して、芽生ちゃんの事で頭が一杯になると下の名前で呼ぶの、必死に執着している感じでダサいよ」


「あー………、そう。………それはご忠告どうも、以後気を付けるようにする、じゃあまた明日学校でね」


 パタンと病室のドアが閉められ、ついでに寝ろと言わんばかりに電気も消灯させられた。いつまでも隠して置けないこの気持ちをどうするのか、遠く無い未来で出雲芽生との決別を選択しなければならないという事を、公命も頭では重々承知していた。けれどやはり出雲芽生に対する執着というモノが拭えない。


 『もういい加減にしろ、これからがあるモノにこれまでの人間が足を引っ張るな』という言葉を吐く自分と『最初から夢を見る事を諦めてきたんだから、最後くらい最後の最後まで一緒にいるという夢を見てもいいだろ』という二人の自分が居る。出雲芽生への想いが深刻化した、あの夏祭りの夜まで前者が全てを抑えていた、だから最後の1年を最高のモノにしたいという願いで動けていた。けれどもう出雲芽生という人間に飢えてしまった公命は、その願いで動く事がままならなくなっている。


 自らに課した、諦めと言う名の嘘。けれどその嘘も既に壊れた、だからこそ出雲芽生の呼び方も安定しなくなっている。もっと深い仲にと願ってしまう、だがそれを過去の自分が許さない『自らに課したモノは最後まで守り抜け、両親に自分達の子供のこれからを諦めるという苦渋の選択を強いたのはお前だろ』と囁き続ける。


 だから潔く死ねと心に決めているのに、出雲芽生と会話を続ける度に一瞬、自らの業を忘れてしまう。公命はそんな自分がとことん嫌いになっていた。


 食べる事を放棄した、眠る事を放棄した、痛みに耐え続ける事を選択した。決して楽になんかさせない、そんな甘い願いなど捨ててしまえと心に言い聞かせる。


 あの夏祭り以降、そのような精神状況で過ごした。だから10月下旬、運河公命が取る決断も私には分かりきっていた。


 自分すら保てない公命が取れる選択肢など、皆を、大切な出雲芽生すらを傷つけるモノしか選択できないのだと。




 10月下旬、プロ野球ドラフト会議当日。この学校が生んだ、甲子園そしてアンダー18でも圧倒的な力を見せつけ、プロ入り後の活躍を既に約束されていると言ってもいい、恵まれたルックスも相まって、申し分なくスターへの階段を上り始めた立花巴。


 彼が何球団競合になるのか、そしてどの球団が引き当てるのか、野球というスポーツの人気が極端に高い日本に置いて、彼の行く先を純粋なファンが、彼を余りの実力やルックスを妬むアンチと呼ばれる人間達も、そして大して何も思っていない盛り上がる事が好きなミーハー達、それら全ての人が今日この日に注目していた。


「はー、なんか遠い所に行っちゃった気分だねぇー、皆も立花、立花ってこう言っちゃなんだけど馬鹿みたいじゃない?」


「いや身近な人間が、これからの歴史に名を遺す一人になると考えたら媚びも売っておこうってなるでしょ?そして巴はフリーって事は知れ渡ってるし、それを考えたらあわよくば恋人にー、なんて巴の小学生の頃からの夢を知っていればあり得もしない可能性に縋っている馬鹿達がきっと多いんだよ」


「まー、それは確かに分からなくはないかも、最も楽な人生の勝ち方なんてモノも、私が教えるなら勝ち馬に乗せてもらう事が1番だと言うしね。……それでそのこの小さな学校所か、日本中がたった一人の行く末を気にしているっていうのに、君はどうして私をここに呼び出したの?アメリカ土産買ってこなかった事怒ってる?」


 アメリカまで行って、どこの大学を受けるかを決定し、芽生が帰ってきたその日は、何も異常はなく、いつも通りのメンツが空港に迎えに来てくれていた。


 だから芽生は運河公命に起こった出来事を、そして自分自身以外が知っている事を唯一知らない。故に呼び出された理由も、デートか何かの誘いもしくは恋のABC最終段階とでも考えていた。


「いーや?そんな事はどうでもいいよ、でもはっきりと伝えないといけない事があるから、今日この日、絶対に誰にも聞かれない時間に二人だけで話したかった」


 口を開ける度、言葉を発する度、呼吸をする度、心臓の鼓動をさせる度に、錆びたバネが軋むような音を体の中から運河公命は感じ取る。


 ドクンという心臓の鼓動は、まるでスクラップ工場の様な煩さで、酸素を取り込もうにも何故か血の味がする、減らず口を叩き芽生に察せられない様とするその裏では、既に頭が回らず、自らが何を話しているかも理解出来なくなりかけていた、だけどそれでもただ一つ、たった一つの伝えるべき事を今伝える為に、運河公命は今持てる全ての活力を口を開く事に、声帯から声を発する事に、今を生きる事に集中し言葉を紡ぐ。


「芽生…」


「君が私の事を芽生って呼ぶの、なんか不自然だね、いつから呼んでる?気づいたら偶に下の名前で呼ばれている事に最近気が付いたんだけどもサ……、そういう空気じゃないのね」


 先ほどまで減らず口を叩いてた運河公命とは、少し違うという事を悟り、芽生は彼の口から紡がれる言葉を待つ、自らが運河公命を再現し会話パターンを予測するのではなく、運河公命が今考え、発する言葉こそに意味があると知れたから、芽生は運河公命の瞳をジッと見て、言葉を待つ。


「卒業まで…、それがこの恋人契約だったよね」


「うん、そうだよ。君が言ったんだ、来年以降は付き合う事はしないけど、この1年だけなら付き合ってもいいって」


 芽生と付き合う事を条件に、運河公命の1年が最高なモノにするという契約だった。


「うん、そうだったね…懐かしいや。でもそれは今日ここの日までにしよう。やっぱり芽生と俺は一緒には居られない、芽生は世界に羽ばたくんだから」


 時が一瞬止まったような静寂に芽生は襲われる。そして校舎のどこからかの大歓声が芽生を今、この瞬間へと連れ戻す。大方立花巴の所属先が決まったのだろう、だが今はそんな事はどうでも良かった。


 運河公命の腕を拘束するように壁に押し当て、芽生は質問をする。


「どういう事かな?公命君が決めた事を、君自身が反故にするのかい?私が好きになった君はそんな事をする人間じゃなかったんだけども」


「じゃあ、それは芽生がきっと俺を読み違えていたんだよ、赤の他人の事なんて絶対分かりっこないんだし、ていうか痛いよ」


「いや…、痛いとかどうでもいい…、私が聞きたいのは何故このタイミングで君は私から離れようとする事を決めたの?私が怪物にでも見えた?違うよね、だったらそんな苦しそうな顔しないもの」


「そんな顔してるんだ俺…、やっぱ駄目だなぁ。何をやろうとしても中途半端だ…、自分がした覚悟も、皆にした覚悟も、何もかも…。もういいや放してよ芽生。ちゃんとはな…す…」


「うん…、ちゃ……ん、と?」


 話をしてくれれば、説明してくれれば、運河公命の気持ちを知れば、何故彼がそういう選択肢を取ろうとしたのかが、わかると芽生は思った、だからこそ手の拘束を緩める。


 けれど、運河公命が見せたのは、芽生の盲目を治す為の毒を口から出す。運河公命が芽生の前では見せないと、心に決めた筈のモノが決壊してゆく。


 感情の行き場を無くし、運河公命の目元に涙が潤う、そして咳込みながら、運河公命はまた自らの態勢すらも維持できなくなる。


 芽生は掴み、押し付けていた手を急遽放す。けれどそれは大好きな人間の涙を見た事による、申し訳なさではなく、その尋常ならざる光景を見てだ。


 そして同時に、芽生は自分自身の中にあった恋という逃避から目を覚ます、運河公命の吐血を見て、これ程まで観察してきて、運河公命という人間が再現出来なかったのかを悟ってしまった。


 悟ってしまったという事は、再現出来てしまったという事だ。芽生は再現出来なかったのではなく、したくなかったのだ。


 してしまえば自身が傷つくという防衛本能だったのかもしれない、芽生の初恋の人間はどうしようもない程、虚弱で、たった一年という期間でさえ、満足に生き永らえるという事が不可能なのだと、今までの彼との邂逅を通し目を背けてきた、聞き流してきた言葉が、芽生の中にフィードバックする。


 最初に入った運河公命の部屋に入った時の違和感も、彼が何一つ娯楽らしい娯楽を持っていない事も、夏祭りのあの日こちらの誘いを断った事も、そしてそのあとに顔に浴びた水滴も、アメリカから帰ってきてからの立花巴と小山伊織のぎこちなさも、全て自分が目を逸らしていただけだったことに気づいてしまった。


「気づいちゃった……気づかないでいた事を…気づいちゃった…。でも君はこんな状態でも、私との約束を優先してきただよね?君がした諦めもどれだけ辛い事かも理解した、諦めてしまった後の願いがどれだけ罪深く感じていたかも理解した、でも私達はやっぱり同じだ」


 運河公命を背負い、スマホを手に取り、急ぎ救急車をと芽生は叫ぶ。教師に事情を説明し、理解させ、野次馬という名の報道陣の車を退けさせる、公命は救急車に乗り運ばれる準備が整った。


「私達の初恋は、まだ終わらせない、そうだろう?だってこれじゃ君は絶対満足して逝けないんだから」


 救急車の中で、意識の無い運河公命の手を握り芽生は語り掛ける。これは芽生のエゴで、運河公命への余計なお世話かもしれない、けれどそれでも最後は望む結末ではなくとも、満足いく結末を迎えたいのは、普通の事だろう。


 せめてより良い方へと、それでも芽生は進み続ける覚悟を決めた。


 脈拍も血圧も何一つ安心できる要素が無い事を見て感じながら、スターの第一歩が決まったこの日。そのスターはプロへの第一歩を歩めた日とは思えない絶望の表情をする、それはこれからプロへと進むこれからの人間と、これまでの人間を決定づけた瞬間でもあった。


 立花巴とは違い、名前が出るような事をしていないプロ野球選手の親友Aは、その瞬間、同級生の中で誰よりも早く、学校生活に区切りという名の終わりを告げた。

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