第4話 Ⅲサークル・ゲーム

     1



 季節は巡る――

 学園祭が終わると、秋は急ぎ足で通り過ぎ、街にはジングルベル。新年を迎えて短い三学期が始まり、あっという間に学年末試験。それが終わればすぐに春休み……。

 四月になり、例の容疑に関して特に問われることもなく、龍樹は無事三年生に進級。

 一応、教師からの勧めもあって「文系進学クラス」を選択したが、明確に将来の見通しが立っているわけではなかった。

 相変わらず、父は音信不通だった。口座に最低限の生活費は振り込まれてきてはいるが、進学は現実的には難しいだろう。

 ランナーとしての復活はもうあきらめていた。結局、股関節の状態は一進一退を繰りかえすだけだった。練習では、自ら進んでペースメーカーを引き受けるなど、もっぱら他の部員のサポート役を務めた。結局、何の結果も残せないまま、三度目の春も終わろうとしていた。あとは引退を待つだけの日々。が、その空しさも吹き飛ぶような問題が発生した。

 母が、またいなくなったのだ。

 ゴールデンウィークに入る直前だった。海外に旅立ち、日本にはしばらく戻らないと唐突に宣言された。

 まさに去年のリピート。

 季節は巡り、悪夢も巡る。

 せめて妹の担任の家庭訪問を済ませてからにしてくれという懇願にも、全く耳を貸そうとしない。起業云々などすっかり諦めているものと思っていたが、実は執着を捨てきれていなかったということか。 どんな事情が急に発生したのか知らぬが、小さい鞄一つであわてて出て行った。

 その直後、自宅にめずらしく大人の来客があった。井上という、かって父と共同でプロモーション会社の経営をしていた男だ。六、七年ぶりくらいに会うが、記憶にあるのとほとんど印象が変わらなかった。青白い顔でどこか悲しげな目つきしている。

「相変わらず、お父さんは音信不通?」

 開口一番、そう聞いてきた。

 なんでも、休眠状態の会社を再開できるかもしれないという。出資してくれそうな人物が現れたとのこと。ただ、条件に挙げてきたのが、龍樹の父の名だった。その人物は、父のネームバリューや人脈がまだ有効なものと考えているらしい。

「――債務のことも含めて、相談に乗ってくれる可能性もある。まあ、期待し過ぎちゃいけないんだろうけど。きちんと交渉のテーブルについて、こっちが損するわけじゃないし。それもこれも、きみのお父さんと連絡がつかなきゃ、始まらない話だけどね……。ところで美奈子さん――お母さんはお出かけかな?」

 龍樹は、待ってましたとばかり自分と妹が置かれた窮状を、さして親しくないこの大人に訴えた。このままでは、自分たち兄妹は養護施設行きだ。井上さん、何だったらぼくらの親族の振りを……。

「いやあ、それは、どうかな」井上はおびえた表情で腰を上げた。「まあ、そのなんだ、とにかくお父さんについて何かわかったら、ここに連絡してよ」

 名刺一枚置いて、井上はそそくさと出て行った。

 

 サチウスに、親戚の振りをしてくれるという去年の約束はまだ有効かと打診したところ、まるで取りつく島もない。

 ただ幸いなのは、妹の担任が去年と同じ温厚な男性教師だということだった。すでに両親の「事情」を承知してくれているので、あっさり家庭訪問の延期は承知してくれた。とはいえ、いっそのこと免除してくれないかという龍樹の希望は、さすがに無理なようだった。

 一学期中は無理かもという龍樹の言葉に、担任は断固とした口調で「だったら夏休みに入ってからでもいい。ただ七月いっぱい、それをリミットとします。ご両親が無理なら、面倒を見てくれているという親戚の方に会わせてください――いいですね?」と言った。

 七月三十一日、担任が家に来る。そういう約束になった。

 居留守を使うのも何なので、とりあえず当日は妹と二人で出かけてしまうことにした――加々見川クリーン・フェスタへ。ただの一時しのぎに過ぎないけれど。


              *


 さて、どうしたものか――

 校舎の陰にある水飲み場で、ひとり後頭部から水を被りつつも思考は堂々巡りだ。

 練習中、上の空だったのを、体調が悪いのかと誤解され、強制的に小休止を取らされていた。

 と、突然、髪を捕まれ、そのまま排水口のほうに顔を押しつけられた。

「やめろ」と身体を起こそうとした――部員の誰かか?

 が、身動きできない。

 違う。この腕力――

 正体を悟った瞬間、固まった。

「なあ、走るだけって、何が面白いんだ?」

 しわがれた声が言った。

 龍樹は腕を伸ばし蛇口を思いっきり回した。水が、あたりかまわずほとばしる。

「てっめえ!」

 工藤が髪から手を放した。龍樹は蛇口を捻り水を止める。

「……奥が深いんだよ」

 龍樹が言うと、工藤はシャツの裾を絞りながら不興気に「ああ?」と応じた。

「走るだけって、簡単に言うけどな。理想の走りってやつは、簡単に見つからないんだ」

 工藤は鼻で笑いながら「偉そうに。カッコつけんなよ」とつぶやいた。そして無表情になると続けた。「向井。お前のこと、見損なったぜ」

「見損なった?」

「お前はどうしようもない腰抜けだ。もっと骨のあるやつだと思ったんだが、とんだ見込み違いだったぜ」

「何のことだ?」

「サチウスのことだよ」

「サチウス?」

 工藤が目を細める。身体が触れる寸前まで近づいてくると、龍樹を見下ろして言った。「あいつのほうから、何かアクション起こしてくれるかもって期待してたのか」

「はあ?」

 工藤は龍樹の髪をつかみ、低い声で言った。

「一年前、屋上で、お前は身体を張って、あいつにマジで惚れてるってことを示した。なのに、あれから全く放ったらかしだったのか」

「いや、だから、それは、こっちの事情が解決したんで――」

 ごっそり抜けんばかりに強く髪を引っ張られ、龍樹はたまらずに口をつぐむ。

「知ってるよ。なんか頼みごとがあったんだろ。たしかに、それがきっかけだったのかもしれねえさ。だけど、あの日、お前が引かなかった最大の理由は何だったんだ? 惚れた女が侮辱されたからだろうが――違うか?」

 龍樹は顔をそむけようとしたが、工藤がそれを許してくれない。

「お互いの立場とか年齢差とか考えてビビったのか? そもそも、男であるお前のほうから一歩踏み出す覚悟がねえんだったらよ、女に向けて〈おれ、惚れてます〉アピールなんかすんじゃねえ。この腰抜けが!」

 最後にそう言い捨てて、工藤はようやく髪を離す。龍樹は思わず数歩よろけた。

「一週間くらい前、久しぶりにあいつのほうから連絡があって、ちょっと話した」工藤は声を落として続ける。「そのときにお前のことも聞いた。また、頼みごとをしたいそうだな。〈どう思う?〉って訊かれたよ。どうって言われてもなあ」工藤は薄く笑い、「まあ、とにかく、そのときにおれが自覚したのは、こころのどこかでは、まだサチウスをあきらめてないってことだ」

 工藤は笑顔を消し、龍樹をじっとうかがうように見つめた。

「……だが、いったんは、お前に譲ると言ったんだ」眉間にしわを寄せながら工藤が言う。「改めて、ケジメをつける必要がある。じゃなきゃ、おれ自身気分が悪い。まあ、シンプルに、今この場で、お前と殴り合うってのもありだが」龍樹から視線をそらさず、いったん言葉を切る。「それもつまらねえ。全然、笑えない」工藤はふと遠い目つきになると続けた。「去年、お前がやったアレな、大いに笑えたぜ……今年はおれがやってやる。もっとも、お前とは全然違うやり方になると思うけどな。みんなを笑わせてやるよ。おれを止めることができたら、向井、お前の勝ちだ。もう、あの女には手を出さない。今度こそ、押し倒すなり何なり、お前の好きにすりゃあいい」

 


     2

 

 はたして、今年の「クラウド・キッド」を工藤と断定してしまって、いいのだろうか?

 どこか釈然としないが、球技大会で何かをやらかすことは確からしい。

 迷ったが、校長に報告することにした。ただ、工藤の関与については触れないようにした。

「球技大会で何か起こるかもしれないという情報は」校長は龍樹の話を聞くと言った。「実は、すでにわたしの耳にも届いている」

「そうですか」

 龍樹は驚いて言った。

「一部の生徒の間で噂になってるようだね。きみは、どこでそれを聞いた?」

「ぼくも同じです。噂になっているのを実際に耳にしました。その出どころまでは結局わかりませんでしたが」

「なあ」校長が身を乗り出してきた。「フェイクってことはないかな?」

「フェイク?」

「球技大会のほうに注意を引きつけておいて、実はその前にある期末試験のときに、何かを実行するとか」

「その可能性もゼロではないでしょうが」龍樹は考えを整理しながらゆっくりと言った。「犯人がそうしたいなら、初めから予告文のほうに嘘の決行日時や場所を書いておけばよいのでは」

「たしかに、そうかもしれん」校長がため息まじりに言った。「となると、心配なのは、やっぱり、あれだな。スポーツドリンクの供給タンク……」

 球技大会中には、熱中症予防のため、グランドや体育館の各所に臨時設置されるのだ。

「今年は、設置やめるんですか?」

「これから、検討する」

 龍樹の問いに、校長は仏頂面で答えた。


               *


 校長の心配をよそに、期末試験は何事もなく過ぎ、恒例の二日間に渡る球技大会が始まった。

 一日目は、一年生がグラウンドでサッカーを、二年生が体育館でバレーボールを行った。ここでも、特に変わったことは起こらなかった。

 スポーツドリンクの供給タンクも例年通り数か所に設置されていたが、特に問題は発生していない。学園側の職員が、各々について監視の目を光らせていたようだ。

 そして球技大会の二日目。

三年生男女のバスケット・ボールの試合が、現在体育館で行われていた。テクニックの上手下手に関係なく、コート上のプレイヤーたちはボールの奪い合いに懸命である。例年、この球技大会に賭ける三年生の意気込みは、一、二年生とは比較にならない。

 それには理由があって、三年生の優勝チームだけには、秋に実施される恒例の強歩大会の参加免除という特権が与えられるからだ。

 具体的に言えば、加々見川沿いの土手およそ三十キロを、走るか歩くかしてゴールに到達しなければならないという、大半の生徒にとってまさに苦役でしかない行事が、自由参加になるということだ。

そういった条件に加え、これから長くつらく不安に満ちた受験生活が本格化する三年生たちにとって、ひとつの区切りをつけるための大騒ぎといった意味合いもあった。一、二年生の多くも、自分の部の先輩たちを応援するなどの理由で集結し、盛り上がりに拍車をかけるのだった。

工藤は、何かを起こすのは球技大会だと言っているらしいが、やるとしたらこの二日目に違いない。

 工藤関与の情報は把握していないにせよ、学園側の今日に対する警戒は相当なもののようだ。館内各所に配置されている体育教官たちの様子から、それは推察できた。内心の緊張の裏返しなのか、普段よりなおいっそう横柄な態度で目つきが悪い。

 龍樹自身もそれとなく目を配っているが、工藤の姿は見かけない。

 ――おれを止められるか、向井。

 もう、無理だ。

 一体、どういうことを企てているのか知らないが、当然もう何らかの「仕込み」は済ませてあるに違いない。あの予告文が示唆するように、まさか本当に毒物のたぐいを使うつもりなのか。   あるいは単なるブラフか……

 いや、そもそも、工藤とクラウド・キッド(の模倣犯)は同一人物?

 結局、その疑問に戻ってしまう。

 いかんせん、推理の材料が少なすぎるのだ。

 それにくわえ、幸か不幸か、龍樹のクラスは現在、下馬評に反し勝ち残っている。一プレイヤーとしては、どうしても試合そのものに集中せざるを得ない。

 大会は、全八クラスによるトーナメント形式で行われていた。龍樹のクラスは一回戦を突破していた。いま目の前で行われているゲームの勝者が、次の相手となる。周りの級友たちはフロアーに腰を落とし、まさに食い入るように見つめている。

「……流れはおれたちのほうにあるな」誰かが言った。「疲労を考えれば、先にゲームを済ませているおれたちのアドバンテージは、決して小さくはない」

 何人かがうなずいた。

「だが」別の誰かが冷静に言う。「それもゲームの内容によるな。これがこのままの展開で、あっさりワンサイドで終わってしまうようなら――いっぽうおれたちは、まさに先の戦いにおいて死力を振り絞ったわけだし、より消耗が激しいことは否定できない」

 ゲームは、一クォーター六分を計四クォーター行う形式である。基本的に各クォーター終了ごとに五人のプレイヤーは全て交代し、クラスのメンバーは一人残らず使い切らなければならない。もちろん成員が二十人に届かないクラスもあるので、クォーターをまたいでプレイする選手がいてもかまわない(ただし、バスケ部所属の生徒は不可)。

 たった六分間かもしれないが、運動部に所属していない生徒にとって、このような極度のプレッシャーの中で身体を動かすことなど、そう経験がないことだろう。心身の疲労はかなりあるに違いない。

 龍樹自身にしてから、腿やふくらはぎの辺りに、普段の陸上部の練習では感じないような張りを自覚していた。

 脚の筋肉をほぐすために少し歩き回ろうと、床から腰を上げる。何気なく出入り口のひとつに目をやった。

そこに工藤が立っていた。

 いつからいたのだろう。他の生徒たちとは違って制服姿だ。

 通常、工藤がこういった学校行事に参加することはまずない。体育教官たちも気がついたようで、皆あからさまに警戒の視線を向けている。軍団員の一人がうやうやしく近づき、何か話しかけた。一応、耳を傾けているようだが、工藤の視線は館内をさまよい、一瞬龍樹に留まった。

彫の深い顔に、笑みが横切ったように見えた。

 ――これから、やらかすのか。

 龍樹のそんな緊張をよそに、工藤は軍団員をその場に残してまた外に出て行った。




     3



 高く弧を描いたボールが、リングに向かって落ちていく。

 龍樹は、届くわけがないと知りながら、必死に手を伸ばす。

 終了間際、敵チームが放った三ポイントシュート。

 ゴンッという音とともに、リングがボールを外に弾く。

「リバウンドー!」

 絶望に満ちた叫びの直後、ホイッスルが鳴った。

 気がつくと、龍樹は両手を握りしめ、その場でジャンプを繰り返していた。

「よくぞ、しのいだ!」

 応援に回っていたクラスメイトが、一斉に乱入。お互い体をぶつけ合い、喜びを爆発させた。

まさかの決勝進出――

「泣いても笑っても、あと一試合! ここまできたら、やってやろうぜ!」

 とはいえ、当然ではあるけれど、次の相手はかなりの強敵だ。

 序盤でエースがシュートを連発して相手を突き放し、後半からはディフェンスを固め得点差を守りきるという、まさに王道スタイルを貫いていて隙がない。

 一方、龍樹のクラスに絶対的なエースはいなかった。それでも、ここまで勝ち抜けたのは、月並みだが「チームワークが良い」の一言に尽きる。

 他クラスの試合を見ていると、それの重要性を改めて痛感する。コートサイドで応援している者が、プレイしている仲間に対して盛んに声を掛けている。それ自体は別によいのだが、熱くなりすぎて声援というより、むしろ罵倒に近くなることが多い。

 ――もっと、走れ! ぼさっとすんな、馬鹿! 戻れって、ディフェンス! 

 ――おい、そこ! 今なんで、パスした? シュートできただろうが! ビビってんなよ!

 これでは、文化部や帰宅部の生徒は、ますます萎縮するばかりである。

 龍樹のクラスは地味目な生徒ばかりが集まり、悪く言えば覇気がないとも評されてきた。だから、共通の目標に向かって、こんなにも強く団結できるとは自分たちでも驚きである。学園内カースト上位の一部の生徒たちが、我が物顔で牛耳っているようなクラスでは、それが難しいのだろう。

「次のゲーム・プランは?」仲間の誰かが言う。

 別の誰かが「とにかく、一生懸命体を動かすこと」とぼそりと応じて、一斉に笑い声が起きる。

 おれたちはいいチームだ。

 龍樹は笑いながら思った。いや、いいクラスというべきか。

 次のゲームの結果がどうであろうと、改めてそれがわかったということが一番の収穫だ……いや、ちょっと待て。

 そういえば、工藤はどうした?

 すっかり、意識から消えていた。

 体育館を見回してみたが、その姿は捉えられなかった。



     4



 ゴール下、左に行くと見せかけて逆方向にステップ。

 執拗なマークを外す。

 そこに、ジャストのタイミングで、仲間からのパス。

 一瞬、身体を沈め、思い切り跳ぶ。

 シュート――が、敵の強引なチャージ。

 龍樹は転倒し、ボールは床を転々。

 すかさず審判がホイッスルを吹き、宣言した。

「フリースロー! ツーショット!」

「大丈夫か」立ち上がろうとする龍樹にチームメイトが手を差し出す。「敵さんも、ずいぶんとえげつないファウルをしやがる」

「フッ」龍樹は笑って見せた。「相手も必死さ。ここまでくりゃ、退場なんか気にしてられねえってか……」


 決勝戦、最終クォーター。

 一分が経過。

 両チーム、ここまで譲らず同点――

 第一クォーターの展開は、予想通り。龍樹の仲間たちに敵のエースを止めるすべはなかった。  しかし終了間際、破れかぶれのスリーポイントが一本決まり、点差は何とか一桁台の九点でおさまった。折れそうになった気持ちが、それで何とか持ちこたえた。

 第二クォーターから、相手の動きがあきらかに硬くなる。エースが稼いだ点差を守り切ろうとする意識が強くなりすぎたのかもしれない。一方、龍樹の仲間たちは、コート上を伸び伸びと走り回った。

 一番怖い敵のエースはもう出てこないし、勝つには点を取りに行くしかない。

要は、 シュートを、打って、打って、打ちまくれ――

 もちろん、その分カウンターで逆襲を喰らうリスクも大きくなるが、相手は何かに魅入られたかのように、絶好のチャンスでも、ことごとく外し続けてくれた。

 徐々に点差はつまり、ついに第三クォーターで同点にまでこぎつけたのだった。


 フリースロー一本目はあっさり失敗。

 体育館内の多くの人間が、まさに固唾を飲んで龍樹に注目していた。正直、これほどの緊張は、陸上の公式大会でも経験したことがないかもしれない。

 さあ、二本目だ――

「リバウンド、よろしく!」龍樹は声を張り上げた。

 ――それってつまり、外します宣言?

 ――よろしくされませーん。

 仲間が笑顔で応じる。

 肩の力が抜けた。

 息を止め、ボールを構える。

 迷わずすぐに放った。

 指先からリングの中央まで、透明な弧が繋がったような感覚があった。

 絶対に入る、そう確信した。

 と、コートのすぐ脇に、工藤が立っているのが目に入った。

 そちらに気を取られ、ボールがリングの中を通過した瞬間を、龍樹自身は見逃した。

「……選手交代だ。おれが出る」工藤が、審判を務めているバスケ部の二年生に言った。そして、手近にいた自軍のプレイヤーに「おい、お前のビブス寄越せ」と交代を命じた。

 たしかに工藤は、相手クラスに所属している。出場すること自体特に問題はない。

 とはいえ、先ほどまでの喧騒がまるで嘘のように、館内は静寂に包まれた。当然、体育教官たちも工藤へとまどいの視線を向けている。

 学園の王工藤、あるいはアンタッチャブル工藤……。

 陰でそんな風に言われてきた男が、突然気持ちのいい汗をかく気になったとはとても信じられなかった。誰もがそう思っているに違いない。

 真の意図は、一体何だ?

 龍樹は途方に暮れて、その場に立ち尽くした。もしかして、このコートに注目を集めておき、他の場所で何かを――

 疑心暗鬼をよそに、工藤はゴール下まで歩いていき、ボールを受け取った。

 スローインするつもりなのか?

「みんな、戻れ! とりあえず、ここはしっかり守っていこう!」

 龍樹のチームメイトが言った。

 ゲーム再開――

 龍樹はハーフラインまで下がる。

 工藤はまだ投げようとしない。ゴール下で、ボールを小脇に抱えたままだ。

 審判が時計に視線を落とすと、ようやく工藤が足を踏み出した。

が、ドリブルもせず、パスも出そうとしない。

 ただ、すたすたとそのままコートの中を真っ直ぐ歩き続ける。

 皆呆気に取られ、審判も笛を吹くのを忘れている。

 龍樹の横を通り過ぎるとき、かすかに笑みを浮かべたように見えた。

 そしてフリースローレーンまで来たとき、工藤は急に走りだした。

 ボールを掲げ、そのままゴールめがけて高くジャンプ――見事なダンクシュートを決めてみせた。

 リングが振動し、ボールが転がっていく……。

「これで、またこっちの逆転だな」工藤が審判に言った。「得点ボード、さっさと二点追加しろや」

「いや、でも、いまのは、その」しどろもどろに審判が応じる。

「なあ、ルール変えてやろうぜ」工藤がコートのプレイヤーたちを見回して言う。「ボール持ったまま好きなだけドリブルなしで動いていい。タックルもOK。そのほうが絶対面白いって――文句はねえな」

 プレイヤーたちは、ただポカンとした顔つきになった。

「よし。了承だな」と工藤。「そういうことなんで、審判、よろしく」

 二年生の審判は賢明だった。「一時、中断します!」とすぐにその場から離れ、体育教官の元に走った。

 話しかけられた新人の教官は、明らかに及び腰で別の先輩教官に助けを求める。その教官もまた困った様子でヴェテラン教官に――ついに統括の立場にある教官の元に皆が集まった。

 体育教官統括――

 工藤とは因縁浅からぬ、柔道部の顧問である。

 顧問は意を決した様子で、ライン際まで近づいて来た。

「なあ、工藤」強張った笑みで話しかけてくる。「邪魔はやめてくれんか。これは、みんなにとって、大事な行事なんだ」

「大事な行事、ね」工藤がセンターサークルから無表情に応じた。「だから、生徒全員が参加する義務ある……おれも、一応生徒の一人なんですけどね」

「だったら、ルール変えるとかはなしだろ」

「別にかまわんでしょ。当事者同士で了承の上なら、何の問題があります?」

「これはバスケの大会なんだよ」顧問の顔から笑みが消える。「お前の言う通りにルールを変えたら、それはバスケでも何でもない」

「今やってるこれって」工藤がにやりと笑った。「バスケだったんですか?」

「バスケじゃなきゃ、何に見えた?」

「今、ルール変えたらバスケじゃないって言ったのは、そっちですよ。バスケの基本的なルールって、たしかベンチ入りできる選手は十二人だけ。試合時間だって一クォーター十分間の計四十分のはずでしょ」

「つまらん屁理屈を言うな」顧問の顔が赤みを帯びてくる。「とにかくお前の言うルール変更など許可できるわけがない」

「だから、それはなぜ? もっと、具体的に説明してくださいよ」

「お前はそんな」顧問は工藤の足下のほうを指差しながら、「固い床の上で、ラグビーもどきでも始めるつもりなのか? そんなもん、危険だからに決まってるだろうが」

「危険だから」工藤は笑みを浮かべたまま言った。「つまり、生徒が怪我するかもしれない。それが心配ってことですか」

「まあ、そういうことだ」

 顧問は急に落ち着きをなくした様子で言った。

「まあ、そういうことだ、か」

 工藤はオウム返しに言うと、ゆっくりと顧問に歩み寄っていく。

 皆が息を飲み、成り行きを見つめていた。

 ライン際で立ち止った工藤は、無言で顧問を見下ろした。

 にらみ合いの末、根負けした感じで顧問が口を開いた。

「工藤。おれに対して何かあるのだとしても」押し殺したような声だった。「関係のない生徒たちを巻き込むような真似はするな」

「先生に対して何かある?」工藤が肩をすくめた。「このおれが? へえ、そうなんだ」

「とぼけるんじゃない」

「そっすねえ」工藤は再び笑みを浮かべると言った。「たしかに過去には、二人の間で色々あった。それは否定しません。でも、過ぎたことだ。いっそ、ここで握手して、全てチャラってことにしませんかね」

 顧問は口を開きかけたが、結局何も言わない。差し出された工藤の左手を、ただじっと見つめている。

 ――もし、ここで握手したら、本当に顧問を許すのかな。

 龍樹は相対する二人を眺めながら、ぼんやりと考えた。工藤のことだから、武士に二言はないだろう。

 ただ顧問側に立つと、工藤から与えられた謝罪のチャンスを、自分が受け入れるという構図にもなる。

 つまり、自身が過去に過ちを犯したということを、公の場で認めるということと同義。

 顧問は、まるで固まってしまったかのようだ。うつむいたあご先を伝う幾筋もの汗が、床に滴り落ちている。

 おそらく、工藤が大怪我した一件では、顧問なりに苦しんではきたのだろう……。

 不意に、工藤が沈黙を破った。

「ただし、ひとつだけ――」笑みを消すと続けた。「交換条件があります。過去をチャラにする代わりに、このルール変更の方は認めてくださいよ。ぶっちゃけ、たかが学内行事だ。たいしたことじゃないでしょ」

 顧問は顔を上げ、「ちょっと待て。それは駄目だ」

「それはなぜ?」

「だから、何度も言わせるな。危険だからに決まってるだろうが!」

「なるほど、あくまで生徒の安全面に配慮したいってわけね。いやあ、頭が下がりますよ」工藤は差し出していた左手を引っ込めて、「でもねえ――スポーツというのものは、どうしたって怪我のリスクはつきもの。ある程度のことは自己責任として、その結果を受け入れてもうらうしかない――先生はかって、おれに向かってそうおっしゃいましたよね」

「いやっ、それと今回のこれとは全く別――」

「別、だっていうんですか」工藤は顧問にみなまで言わせず、「それは、何だかしっくりこねえな。なあ、先生。この際はっきり決めてくださいよ。教師の立場からして、生徒がスポーツやる際に怪我のリスクはある程度仕方ない、なのか。それとも、怪我なんて絶対させてはならない、なのか。先生は一体どっちのスタンスなんですかね? そのスタンスを場面ごとに変えてるようじゃ、やっぱマズいんじゃないですか」

 顧問は顔を真っ赤にして、口を開く。

「何を言うか! そもそも二年前のあれだって、お前のそういう傲慢な態度から――」

 そう言ったきり、絶句してしまった。

 工藤も無言のままだ。

 二度目のにらみ合い――今回も根負けしたのは顧問の方だった。

「お前とは、やはり話にならんな」口調に力がなかった。「もう勝手にしろ」

 そう吐き捨てるように言うと顧問は踵を返し、コートから離れて行った。他の体育教官たちが話しかけようとするが、一度も立ち止ろうとしない。そのまま足早に出入口から姿を消した。

「はい、はい、じゃあ、お言葉通り、勝手にさせていただきますよ……。おう、早くこっち来いって、審判!」工藤が声を張り上げる。「てめえのせいで、大会、ここで中止になってもいいのかよ。タイム計って、点を数えりゃいいだけの話だ。あんま難しく、考えんな」



     5

 


 審判が、いかにも気が進まぬといった様子で歩いてくる。

 助け舟を求めるように体育教官たちのほうを見るが、誰も目も合わせようとしない。自分たちのリーダーがいなくなってしまい、彼らも途方にくれているのがうかがえた。他の、社会や国語の教師に至っては、すっかり傍観者を決め込んで、むしろ成り行きを楽しんでいるようにさえ見える。(我らも生徒と同じく、体育教官の指示に従うだけ)というのが、競技大会における彼らのスタンスのようだ。

 何とかしろよ。龍樹は内心で毒づいた。

 コート上のおれたちを病院送りにして、学園側の責任にする――それが工藤の狙いなのか?

 何かをやらかすとは、このことだったのか。

 と、いきなり、目の前にボールが飛んできた。

 腹で受けて、一瞬息が詰まる。

「おれが最後にダンク決めたんだから、お前らのボールからだろ」工藤が言った。「おい、おい、何だ、その面は? ゲームを続ける気がないっていうんなら、別にいいんだぜ。お前らの試合放棄で、おれたちの優勝だ。じゃあ、審判。そういうことなんでゲーム終了、おれらのクラスの勝利を宣言しろ」

「待てよ!」審判が口を開く前にあわてて言った。「試合放棄するなんて、こっちは一言も言ってない」

「そうこなくちゃだ」

 工藤がにっこり笑う。まるで小さな子どものように邪気のない笑顔だった。

 

 龍樹はボールを持ったままエンドラインまで移動した。

 とりあえず、ゲーム再開――

 が、プレイヤーたちは、敵も味方も皆、センターサークルで腕組みし仁王立ちしている工藤のほうを気にしている。

 右手にいるチームメイトに向けてスローイン。爆弾でも放られたように、すぐにまた別のプレイヤーにパスが渡る。そのプレイヤーもあわてて次のパスを出そうとするが、近くにいる誰もが知らん振りだ。

 龍樹は仕方なく、ボールを受け取るために走り出したが、チームメイトはドリブルを始めた。

 やはり、工藤の宣言があったとはいえ、ルールを無視することは心理的な抵抗が大きいか――

 と、工藤が、豹のような身のこなしで、ドリブルをしているプレイヤーに近づく。あっという間もなくプレイヤーはボールを奪われ、反動で尻もちをついてしまった。

 ボールを持った工藤は、悠々とした足取りで龍樹の脇を通り過ぎていく。

 今度は三ポイントシュートを狙うつもりなのか、エリアの外で立ち止まり、完全にリラックスした様子でボールを構えた。

 そのとき、龍樹のなかで、何かが切れた。

 ダッシュして、肩から工藤の背中にぶつかっていった。

 今まさにシュートしようとしていた工藤は、さすがにバランスを崩し、手から離れたボールが床で跳ねた。

「ボール、こっちに寄越せ!」

 龍樹の声で我に返ったように、味方がボールを拾う。

 ドリブルなんかしない――

 パスをもらった龍樹は、相手ゴールへ走り出そうとした。

 よし、決めたぞ、工藤。お前の決めた土俵で勝負してやる。

 が、ほんの数歩進んだだけで、後ろから腕をつかまれた。

 次の瞬間、ふわりと足元がコートから浮いて、視界が反転。

 龍樹は身体ごと、工藤の肩に軽々と担がれていた――まるで力士に担がれた米俵のごとく。

「離せ! この――」

 手に持ったボールで工藤の背中を叩いた。

「坊や、おとなしくしてな」

 工藤はそう言うと、龍樹の尻をパンパンと手のひらではたいた。

 観客のあちこちから笑い声が上がる。

 何という屈辱――。

 工藤が、龍樹を担いだままゴールのほうに歩き出した。

 一体、どうするつもりなのか。

 恐慌にかられた龍樹は「おい!」と声を発し、担がれたままの状態から味方にパスを出した。

「ドリブルなんかしないでいい! ゴール、決めちまえ!」

 つかの間、躊躇を見せるも、ボールを持ったままチームメイトは走り出した。

 敵のプレイヤーたちは、まだ態度を決めかねているのか、でくの棒のようにただ立ち尽くしている。

 その間を走り抜けたチームメイトは、レイアップシュートを狙うも勢いがありすぎた。あえなく、ボールはボードに跳ね返され、敵のひとりの足元に。そのプレイヤーは、何となくといった感じで、ボールを拾い上げた。シュートを外したチームメイトがすかさず駆け寄り、ボールを奪い返そうとする。さすがに簡単に渡すのはまずいと思ったのか、敵もしっかり抱え込み、もみ合う形になる。

 工藤が方向転換。再び歩き出す。依然、龍樹を担いだままだ。

 ボールの取り合いをしている二人に近づくと、いきなり彼らの頭上に龍樹を、その身体ごと放り投げた。

「わっ!」

 三人折り重なって、コートに倒れる。ボールが力なく転がた。工藤が何事もなかったかのように、ヒョイとそれを拾い上げる。

 まさに鼻歌まじりといった風情で、龍樹たちのゴールに向かう広い背中――

 身体のあちこちが痛い気もするが、関係ない。

 龍樹はすぐさま起き上がり、後ろから工藤の腰にむしゃぶりついた。

 工藤はまるで意に介さず、そのまま前に進む。龍樹はズルズルと引きずられていく。

 と、味方の一人が加勢に来てくれた。大柄なそのチームメイトは、正面から工藤の腰を抱え込む。

 さすがの怪物も,その足が止まる。

 さあ、どうする。得意の柔道技で邪魔ものを床に叩きつけるのか――

「工藤クン、パス!」

 そのとき、敵の一人が言った。

 あとから思えば、この瞬間が、真のゲーム再開だったのかもしれない。

 言われた通り、工藤が素直にパスを出した。

 残り、約四分。

 死闘が始まった。


                *

 

 そして、ゲーム終了――

 敵クラスは、工藤の周囲に集まり皆はじけるような笑顔だ。得点王のエースだけが、少し離れた場所で渋い顔をしていた。

 工藤がその中心から離れ、こちらへ歩いてきた。クラスメートたちが、感謝の意味なのか、工藤の身体を結構手荒く叩いている。

 あのアンタッチャブル工藤に。今までならあり得ない光景だ。

「おれの勝ちだな」工藤が、座り込んでいる龍樹のそばを通り過ぎざま言った。「約束通り、サチウスはおれのもんだ」

 龍樹は顔を上げなかった。様々な思いが渦巻いていた。

 このゲームの勝敗自体について――冷静に判断すれば、こんなこと納得できるわけがない。だが、今さらそれを言っても負け惜しみにしかならない。

 いや、そんなことより――これがお前の計画していたことなら、その意図は何だったのか? 

 ゲームが終わり、みんな膝小僧や肘を擦りむいていたが、大きな怪我を負った者などいない。たしかに滅茶苦茶なルールに違いなかったが、暗黙の了解で、危険な一線を越えないプレイを心がけていた。

 そしてそれは、工藤自身も例外でなかった。


 ……あくまで推測である。

 おそらく工藤は、自分を取り巻く状況に深く倦んでいたのではないか。

 「王」と崇め奉られ、頭を垂れてくる者に対しては、学園側を脅しつけて特待生の資格の維持という便宜を図ってやる。一方で、少しでも突っかかってくる者は情け容赦なく返り討ちにする。

 だが、よくよく思い起こせば、他に何をしてきただろう?

 軍団員たちはたしかに肩で風を切ってはいるが、工藤はその中心でむしろ常に静かなたたずまいだった。

 勝手なイメージや噂が先行しているだけで、己から傍若無人な振る舞いをしたということも、おそらくなかったのではないか。

 要は、己に近づいてきた者へ、その都度工藤なりの適切な対応をしていただけなのだ。

 それなのに、ただ廊下を歩けば、皆が畏怖の表情を浮かべ道をあける。

 そういう状況を、心地よく感じる種類の人間もいるだろうが……。

 ――ならば一度くらい、お前たちが、おれに対して勝手に抱いているイメージ通りの行動をしてやろうじゃないか。その行きつく先が、どうなるか見てやろう。

 そんな風にでも思ったのかもしれない。

 だがその思いは、実際にことを起こしている最中で、微妙に変わったのではないかという気がする。

 当初の予定では、自分の一人の行動で、とにかく大きな混乱を巻き起こし、その結果球技大会がどうなろうと知ったことじゃないというスタンスだったに違いない。

 それが変わる契機となったのが、もしかしたら「工藤クン、パス!」のひと言だったのか……。

 まあ、結局のところ、工藤自身に直接訊かなければわからないことだが。

 そもそも、お前は今年の「クラウド・キッド」なのか?


 ――工藤クン、お疲れ!

 ――お疲れ!

 ――お疲れ!

 龍樹は顔を上げ、体育館を出て行く広い背中を見つめた。

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