第3話 Ⅱ幸が薄い
1
三番目に転校した小学校は、東京に隣接していたが、周囲にはのどかな田園風景が広がっていた。そのような環境ゆえなのか、体育の時間に限らず、何かと校外に放り出され、長距離走をやらされた記憶がある。
五年生になって、四度目の転校を余儀なくされた。引越し先は、すぐ隣の市だった。しかしそこの学校は、周囲を交通の激しい道路で囲まれていた。よって校外に出ての長距離走など論外。そのかわり、体育館は大きく立派だった。生徒も教師も、皆が皆バスケットボールに熱中していた。
そんな小学校でも、体育で長距離走をやらされることはある。校庭をだらだらと走る、そのあまりにやる気のないスローなペースに、龍樹は唖然とした。中途までは、出る杭は打たれると思い自制していたのだが、我慢できなかった。一気に集団から飛び出したのだった。
よく、駆けっこの得意な子はヒーローになれるとか言われるが、そんなことはない。そこの小学校では、(つまらぬことにやけにムキになる転校生)というポジションを得ただけだった。
父の転居癖もようやく落ち着きをみせ、そのまま小学校を卒業。市内の公立中学に進学した。部活動に陸上部を選択したのは、そんなわけで必然だった。
龍樹自身は、なるべく長い距離をやりたかった。だが顧問の教師は龍樹の走りを中距離向けと判断し、千五百メートル走を主にやらされた。
練習には真面目に取り組み、色々な大会にも出場した。特に際立った結果は残せなかったが、それなりに充実した二年間が経過し、そろそろ高校受験に頭を切り替えようかという頃、意外なことを告げられる。
善雲学園高校から、特待生で迎え入れたいとの打診が中学側に届いたのだという。陸上競技部のスポーツ特待生として、入学金と三年間の授業料が免除されるという好条件だ。
にわかには信じられなかった。
市内の殿村学園グループが経営悪化に陥り、加持ホールディングスの系列に下ったのが約十年前。それまでは短大と女子高だったのだが、短大は主にビジネス・マネジメントに特化した四年制大学に、高校のほうは共学に生まれ変わる。同時に学園の名称も、「善雲学園」に変更。以降、この少子化の時代に逆行するように、生徒数は右肩上がりで増加。現在に至る。
――勝因は、ポイントを明確に絞ったことでしょうなあ。
経済誌に取材された加持理事長が、スキンヘッドを光らせ得意げに語っている動画が、ホームページで閲覧できる。
――大学のほうは、学生がビジネス関連の資格や技術を取得できるよう最大限サポートする体制にしましたのや。最高の講師陣をそろえ、校舎はグーグルとかの社屋を参考にして、明るい気分で学問できるよう今風にリフォームですわ。たしかにこうも実学重視だと、専門学校と何も変わらへんやないかとか、難癖をつけてくる人もなかにはおります。まっ、言わせておけばよろしい。老舗の大学と違って、うちは変なこだわりはないんです。フットワークが軽いのは強みですわな。一方、高校のほうは、人格形成重視。あくまで、その基礎があってのビジネスだと考えとりますから。そうなると、若いもんに一番有効なのは、やっぱスポーツとか武道のたぐいになるわけで……。
潤沢な予算にものをいわせ、なりふり構わずに見込みのある生徒を推薦入学制度でかき集めた結果、特に武道系では、あっという間に強豪校の位置を獲得することになった。
勉学に関しても、当初こそ入学試験では、名前さえ書けば合格と揶揄されたようだが、今や県下では難関私立のひとつに数えられている。スポーツ分野での知名度が上がるのに比例して、偏差値も瞬く間に上昇していったのだ。
そんな善雲学園高校からの特待生の申し出である。容易には信じ難かったのも無理はない。
ただ、話しをよく聴いてみると、実は陸上部はそれほどのレベルにないという。柔道に剣道、それにラグビー部などの活動が華々しいので、運動部全てが強豪校のレベルにあるという印象だった。しかし陸上競技に関しては、県内に栄進高校という全国トップレベルの伝統校がある。有力選手はみなそちらへ流れ、部員集めにとても苦慮しているという状況だったようだ。
とはいえ、自分より結果を残している中距離ランナーは掃いて捨てるほどいるのに、なぜ? それが率直な感想だった。
実のところ、公式大会で残した記録が評価のポイントではなかったのだという。二年生のときの真冬、善雲大学のグラウンドを借りて行われた、県内の中学四校合同の記録会での走りが注目されたのこと。
たしかに、あの日の千五百メートル走での龍樹は、絶好調だった。
何というか、小学生の頃に戻ったような――体育の時間、集団を抜け出して疾走した、あの特権的な感覚だ。
自分の中の歯車が全て正しい位置に収まり、油も適切に注入されて、力強く円滑に脚が回転していく――
その後、残念ながら、この記録会での走りを再現できることはなかった。
凡庸な才能の持ち主にも、地道に練習していれば、ごくまれにこうして「何か」が降りてくる瞬間があるのだろう。そう考えるよりほかなかった。
そのただ一度の走りが評価されたのだ。高校の陸上部の顧問がたまたま見ていて、龍樹に大化けする可能性を感じたのだという。中学での学業成績、部活での練習態度も調査の結果、良好だったとのこと。もちろん地元在住ということも大きかった。
もっとも、件の顧問には、かなりの焦りがあったらしいと後日知る。実は、目を付けていた選手を、ぎりぎりのタイミングで他校にさらわれてしまったのだという。ただでさえ上の方からは、一向に結果を出せないことを責められている上、特待生枠まで埋められないのはとてもまずい。龍樹を選んだのはほとんどヤケ、もう少しましな言い方をすれば大博打だったようだ。
龍樹にしても、すぐに決断できたわけでない。元々、上位校グループに属す県立校が第一志望であり、模試の結果も常に上々だった。しかし言うまでもなく受験は水物。万が一落ちたら、私立に進学せざるを得ないが、家計の状況からいって、それはほとんど許されないことだった。だからこそ推薦の誘いには、大いに気が惹かれた。
とはいえ、陸上部の特待生として迎えられるのである。その期待に応える結果が、本当に出せるのだろうか。
――不安を感じるのも、無理ないと思うけど。
勧誘のための面会に来た善雲の陸上部の顧問が言った。
――もちろん一生懸命練習して、がんばってはもらいたい。だけど、うちの場合、特待生だからといって、常に大会での上位入賞が義務付けられているということじゃない。思うような結果がでないからといって、資格がはく奪されるわけじゃないんだよ。はく奪されるのは、自己都合で部活を辞めた時だけ。その際は、免除されていた入学金と授業料を支払わなければいけない。もし怪我や病気で選手生活を続けるのが困難になった場合でも、日常生活を送れる程度なら、部活には毎日参加してサポート面での活動を続ければいい。特待生の資格はそのままだ。うちの部は、どうしてだか、おだやかな感じのやつが多くてね。特待生だからといって、いじめられることもないよ。まあ、ぬるま湯体質ともいえるが、だからダメなんだろうな、ハハハ……予定だと、来年の特待生は、男子はきみの他にもうひとりいるんだ。その分、プレッシャーも分散されるんじゃないのかな。幅跳びの選手でね。大黒くんというんだけど。
*
別に、もうひとりの特待生の存在が、決め手になったわけでない。とにかく、いろいろ迷った末、善雲学園への入学を決断した。
ただ、顧問の言う通り、実際に学園での陸上部の練習が始まってみると、大黒の存在は、龍樹にとってたしかにありがたかった。
同じ特待生でも、龍樹は物静かで、一方大黒のほうは常に笑いを取りにいくタイプ。部員たちの注目は、うまいぐあいに分散された。
当初から道化を演じていた大黒だが、期待度は龍樹よりずっと高かったと言っていい。走り幅跳びにおいて、県下でそれなりに名が知られる存在だったのだ。顧問からすれば、うち程度の陸上部によくぞ入ってくれた、というのが正直なところだったのではないか。しかも入部してからは、そんな立場におごる様子もなく、積極的に部員たちの中へ溶け込もうとしている。
――さすが、本当の実力があるやつは違うな。こっちは練習についていくので精一杯。先輩たちにお愛想一つ言う余裕もない。
嫉妬まじりに内心思ったものだ。
だが夏休みが近づくにつれ、大黒の口数がめっきり減っていく。
幅跳びの選手といっても、それだけを常にやっているわけではない。おおむね、短距離の選手たちと同じ練習メニューをこなすことになる。言うまでもなく、助走におけるスピードをより磨くためである。そのメニューについていけず遅れる姿を、よく目にするようになった。
もちろん、本職の幅跳びのほうでそれなりの記録が出ていれば問題はないのだが、肝心のそちらも一向に芳しくないようだった。本人にいちいち聞いたわけでないが、練習用の砂場で、跳び終えるごとに力なく首を振る姿により、それは容易に察せられた。
気にはなっていたが、龍樹も自分のことで精一杯だった。夏休みに入り、噂に違わぬ地獄の合宿も、何とか乗り越えた。ホッとする間もなく、他校へ遠征しての合同練習や競技会。何だかんだで、あっという間に八月は過ぎた。暑さもようやく収まり、木々の葉が色づき始める頃、それまで本気のタイムトライアルでは、主力クラスの先輩にはまるでかなわなかったのが、ときに勝利できるようにまでなっていた。
皆から、タツキの走りは変わったと言われた。自覚はあった。夏合宿の疲労の極限の中でつかみかけたものがあった。
自分には、もう一段上のギアがあったのだ!
基礎体力が増したため、リミッターが外れた――そんなイメージを抱いた。
かといって、調子に乗り、己を失っていたつもりはない。
ただ、怖かっただけなのだ。以前の自分の走りに戻ってしまうことが。せっかく、皆が見直してくれたのに……。
それで己に負荷を掛け過ぎたということは、あったのかもしれない。
痛みは急に来た。
少し練習をセーブすれば、こんな痛みなどすぐ消えると思っていた。
それなのに木々がすっかり葉を落とす頃になっても、状況は一向に変わらなかった。
――いっしょに、「工藤軍団」に入らないか?
思いつめた表情で大黒が話しかけてきたのは、そんなときだった。
2
善雲学園高校の入学式会場、ふと視線を向けた先に体格のいい生徒がいた。どこか尋常でないオーラを放っているように感じた。日本人離れしたその彫の深い顔は、恐ろしいほどに無表情だった。
――ほんとにおれらと同じ新入生かよっていうやつがいたぜ。
数日後の部活中、大黒がそういったとき、誰のことを指しているのか、ピンときた。
――どうしたって、おれらレベルじゃ、敵わねえって感じ? 腕っぷし云々じゃなくて、根本的にオスとしてさ。ありゃもう、酒や煙草はもちろん、女ともガンガンヤリまくってんだろうな。じゃなきゃ、あんなオーラだせねえって……。
その新入生の名は、工藤信長だとすぐに知れた。
名前だけでなく、工藤の来歴および入学後のストーリーは、ほどなく学園中が共有することとなった。
近寄ると、工藤の耳は押しつぶされたように変形しているのがわかる。幼少時からの柔道の稽古の故である。遊ぶ間も惜しみ、近所にある道場へずっと通い続けていた。同年代の子どもではまるで相手にならず、常にかなり年上の者が稽古相手だった。中学生になり身体も大きくなると、出稽古に来た警官たちに対しても結構いい勝負ができるようになっていた……いや、そんなレベルどころではなく、警官たちをも楽々投げ飛ばしていた等々。
とにかく、あの道場には怪物中学生がいると近隣では噂になっていた。ただ、中学の柔道部に所属していたわけでなかったので、公式大会のたぐいには一切出場していなかった。当人はあくまで自己鍛錬のために稽古を続けており、公の場での栄誉や賞賛などには興味がなかったらしい。
卒業が近づいたころ、県内のいくつかの高校から誘いがあったようだが、学校の部活動というものに根本的な疑問を抱いていたので、すげなく断り続けていた。
それをどのようにかき口説いたのか、善雲学園はこの無冠の帝王を特待生として迎え入れることに成功したのだ。
柔道部の練習初日だったという。
他の新入部員たちとともに、基礎練習を淡々と続けていた工藤へ上級生が声を掛けた。
――なんだかつまらなそうだな、特待生。いっちょ、稽古でもつけてやろうか……。かまいませんよね?
そう言って振り返った先に、顧問がいた。公式戦の実績がない工藤に対し、部員たちが疑いの目を向けていたことは十分に推測できる。
工藤自身は、特に意に介していない様子だったが、かえってそれが不遜な態度と受け止められたのだろう。ならばその実力は、実際に如何ほどのものか。早めに他の部員へ知らしめたほうが、得策だと判断したのかもしれない。顧問はうなずき、許可した。
声を掛けてきた上級生を、工藤は一蹴した。
当然、さらなる実力者が次の相手にと名乗りを上げる。
しかし、結果は同じ――
気づけば、無差別級の猛者たちが全滅という状況。
静まり返ったその場で、工藤はため息まじりにつぶやいたのだという。一応、強豪校だって聞いてたんですけどねえ。このままここで練習続けて、何か意味があるのかなあ、と。
自ら入部させておきながら、顧問はパニックに陥った。怪物の実力を甘く見積もりすぎていたのだ。それ自体はいいのだが、部の存在意義まで否定されては、このまま静観しているわけにはいかない。
すぐさま、現在大学生でオリンピック強化候補に選ばれているOBへ連絡を取り、助けを求めた。そのOBは、自分の一番の愛弟子であり、善雲スピリットの忠実なる継承者だった。OBは事情を聞くと、その生意気な新入生の鼻をへし折るために、馳せ参じますと応じてくれた。
そして、その問題の日。
いかに工藤が怪物とはいえ、相手は現オリンピック候補。さすがに実力差は否めなかった。
それでも、きれいな投げ技で一本を取ろうとするOBに対し、工藤も必死に抗戦。OBはとうとう投げ技はあきらめ、抑え込んだうえで工藤の左ひじの関節を決めに入った。
ここに至って工藤は悪あがきなどせず、早々と相手の身体を叩き明確に「参った」の意思表示をした。競技者としての工藤は、素直に相手との実力差を認めたのだ。が、にもかかわらず当のOBは、にやりと笑い気づかぬふりをしたのだという。周囲の者たちも、笑みを返し追随した。
――これで終わらせちゃ、ちょっとツマラナイ。この生意気な新入生には少々お灸をすえる必要がある。
皆、口に出さずとも、そんな思いを共有していたのかもしれない。
と、ほんの一瞬、OBがわずかに力を緩めた。
それを見のがす工藤ではない。ここぞとばかり、体勢を変え逃れようとした。
あわてたOBは、思わず必要以上の負荷をかけてしまったのだ。
工藤の左ひじに――
乾いた音を皆が聞いた。
あわてて身を離すOB。
顧問はもちろんのこと、その場にいた全員が蒼ざめた――。
工藤は左腕を押さえたままゆっくり立ち上がると、皆が声を掛けるのを無視し、稽古場から無言で立ち去った。
翌日から学校に来なくなり、姿を現したのは、一か月以上が過ぎた五月のゴールデンウィークが終わった頃だった。左腕を吊っていたり、ギプスで固めていたりということはなかった。ただ、左ひじは複雑骨折の結果、現状ではある一定の角度までしか曲がらないようになってしまっているという。
学園の決まりでは、特待生はとにかく練習には毎日参加し、怪我等の場合はサポート側に回らなければならない。
しかし、工藤はあの日以来、柔道部の稽古場に近づいてさえいない。それでも、特待生の特権がはく奪されることもなかった。
工藤が負傷した直後、学園側は以下のような申し出をしたのだという。
――あの日、きみの身に起きたことは、あくまで不幸な事故である。きみは「参った」の意思表示をしたのかもしれないが、いささか分かりづらかったようだ。むろん部活動中の出来事であるからして、学園としても責任は感じているし、治療費に加えて慰謝料もそれなりの金額を払うつもりではある。当然、特待生の身分も継続だ。それで、双方和解ということで収めようではないか……。
が、工藤はただ無言の薄笑いをするのみで、まともに相手をしなかったらしい。
以来、工藤は、学園側からすると、アンタッチャブルな存在になってしまったのだ。
そして時を置かずして、取り巻きを引き連れて学内を闊歩するようになる。主だったのは、やはりスポーツ特待生で入学したが、練習についていけなくなり、部活に出るのが億劫になった面々である。このままでは特待生の資格をはく奪するぞと宣言されると、工藤が学園に掛け合ってくれるらしい。
――おれのダチなんですよ。勘弁してやってください……。ふん、だったら、おれの資格もはく奪しろよ。そうじゃないと、不公平だ。まっ、その場合、こっちも出るとこ出て、「あの日」の真実について争うつもりですけどね。
秋を迎える頃、彼らは「工藤軍団」と呼ばれ、その存在が学園中に認知されるようになった。
当然、上級生の中には面白く思わない者もいて、工藤に挑戦状を叩きつける腕自慢もいた。だが例外なく、あっという間に地べたに転がされ、ギブアップと相成った。その程度のバトルなら、左ひじの多少の不自由など、怪物には関係ないらしい。
――ノブナガくんと、サシでやろうなんて、マジ、無謀だってえの! あの三年生、最後、涙目になってたし!
取り巻きどもは、その都度大はしゃぎで、結果を吹聴してまわる。
若干一年生にして、工藤信長は学園の王になったのだ。
*
工藤軍団に入ろうという誘いを断ると、大黒は恥ずかしげにうつむき、龍樹の前から消えた。以来、陸上部の練習にも出なくなった。
道化の才をそこでも発揮したのか、すぐ工藤のお気に入りになったらしい。その分、古株の取り巻きとの軋轢もあるようだ。
まあ、苦労はあるようだが、新しい場所で楽しく過ごしてくれ――直接言えば、皮肉に取られるだろうが、内心ではそうエールを送った。
ただ、その後少しして、気になる話を人づてに聞かされることになる。
龍樹に対し、王がたいそうご立腹だという。
要するに、慈悲深き王の庇護を拒否するとは、一体何様のつもりなのかということらしい。
嘘だろう、と龍樹は思った。
王は、おれのことなど眼中にないはず。気分を害したのは、周囲で尻尾を振っている取り巻きどものほうに違いない。それで、あることないことを、王の耳に吹き込んでいるのだろう。それに大黒が噛んでいるとは思いたくなかった。
まったく、余計な心配ごとがひとつ増えた。
ああ、王よ。わたしはあきらめの悪いポンコツランナーにすぎません。どうかお見逃しを。
いざとなったら、土下座でも何でもしてやるさ――
3
あれは王の立腹を聞かされた直後、街にクリスマスソングが流れ始めた頃だった。部活後、返却期限をかなり超過していた文庫本を手に、校内の図書室へ行った。
カウンターに一人でいた司書が、気だるげに髪をかきあげ文庫本を受け取った。
パソコンのモニターを見つめながら、「スティーブン・キング、好きなの? ということはホラーマニアなんだ」と尋ねてくる。
「別に。キングのファンだってだけで」
返却したのは『キャリー』だった。過去にやはりキング作の『ファイアスターター』と『デッド・ゾーン』も借りていた。これら三作品に関しては、典型的なホラーというより、望まぬのに異能を得てしまった人間にまつわるスリラーという印象が個人的には強い。
「一番好きなのは、何? キングの作品で」
「『霧』」思い浮かんだタイトルを適当に挙げた。こちらはまさに、クトゥルフ神もかくやという異形なものどもが人々を襲う典型的なモダンホラーだ。「じゃあ。返すの遅れてすみませんでした」
出入り口に向かいかけると、司書は急に「『日曜日は埋葬しない』!」と言った。「思い出したわ。きみ、取り寄せリクエストに、そのタイトル書いて提出してくれたわね」
足を止め、改めて司書を見る。
あか抜けないデザインの眼鏡越しのうるんだ瞳。
名前は、薄井幸子という。字面的に、名付けた親の見識を疑ってしまいたくなるが、実は旧姓は違う。つまり結婚してこの氏名になったのだ。ただ、夫とはすぐ死に別れたらしい。その後も姓は戻さずにいるのだ。
メイクをばっちり決めて通学してくるような女子たちからは、なぜかひどく評判が悪い。
――サチウス子のくせに、男子へ媚び売りまくりじゃん。恥を知れよ、あのババア。
本人に直接確認したわけでないが、年齢はまだ二十代だと聞いた。
「ごめんなさい。取り寄せられなくて」司書が言葉を続ける。
「別にいいです」
まず無理だと思って書いたのだ。とうに絶版で、たまに古本屋で見かけると、目の飛び出るような値がついている。
「印象的なタイトルよね。ミステリなんでしょ?」
「ええ。フレッド・カサックというフランス人作家の古い作品です」
「どういう内容なの?」
「さあ、実はよくは知らないんだけど、おそらく、叙述トリック、みたいな? 同じ作者の別の代表作がそうだったから」
「へえー、そうなんだ」後れ毛をくるくると人差し指に巻きつけながら言った。その様子はどこか無防備で幼く見えた。「あっ、ちょっと、待ってて!」
そう言うなり、カウンターから出て書棚のほうに消えた。
その場に立ち尽くしたまま、落ち着かない気分になる。あのくらいの年齢の女性に対しての距離の取り方が、いまひとつよくわからなかった。
ほどなく司書は戻り、龍樹に「はい、どうぞ」とハードカバーの本を一冊手渡してきた。「これもフランスの小説で、叙述トリック、みたいな? 感じよ。ぜひ、読んでみて」
『素粒子』、というタイトルだった。
作者はミシェル・ウエルベック。聞いたこともない。最近の作家だろうか。
「語り手の正体が伏せられたまま、ストーリーが進んでいくの。それで最後に、結構あっと言わせるから」
「でもこれって、純文学ですよね?」
龍樹は、帯の内容紹介をざっと読んで言った。
「あら、エンタメ系ばっかりじゃなく、純文学も読まなきゃ」
「めぼしいのは中学生のうちに読んでます。高校生にもなって、純文学なんか、恥ずかしくて読めませんよ」
司書は白い歯を見せて笑うと、手を伸ばし龍樹の髪をくしゃくしゃと乱した。
「まあ、そう言わずに。『キャリー』の返却が遅れたペナルティーよ。読んで感想を聞かせなさい」
*
興味を惹かれない本を、半ば強引に押し付けられた。
だが自宅の机の隅に置いた『素粒子』は、何となく気にはなった。結局、数日後の日曜日、手に取ったのだった。
一気に読み終え、おおげさでなく、しばし呆然とした。
この地球上で、人であることの孤独を情け容赦なく描き、何の救いもない。
それなのに、この圧倒的な感動は何なんだろう?
月曜日以降、何度も図書室をのぞいたが、司書と二人きりで話せるような機会はなかった。
書棚の間をうろうろしている龍樹の肩を、司書が後ろから叩いたのは、二週間の返却期限を過ぎた頃だった。
「ねえ、どうだった、あれ?」
「あっ……」用意していたはずの言葉が何も出てこない。すぐ近くに立つ、相手のくちびるの艶や胸のふくらみが妙に気になってしまう。「まあ、よかったです。すみません。いま、すぐ返しますんで」
逃げるようにカウンターのほうに行った。
ただ、このことをきっかけに司書とは話しを交わすようになった。
図書室に行ってその機会がなくても、司書の姿が目に入っただけで胸にさざ波が生じた。
年を越え、冬が本番を迎える頃になっても、龍樹の走りの状況は一進一退だった。痛みが一時的に消えても、少し本気を出せばまたぶり返す。
――結局、おれはもう駄目なのか。
そんな諦念に抗いつつ、練習中思い浮かぶのは「サチウス」のことだったりした。
あの日も、練習後に図書室へ行ったのだ。その時間帯のほうが、ふたりで話せるという計算があってのことである。
出入り口から見る限り、カウンターにも書棚のほうにも人影はなかった。サチウスは奥の事務スペースに引っこんでいるのかもしれない。そちらのほうに視線をやった。
と、ただならぬ気配を感じた。パーテーションで視界が遮られた向こう――人と人がもみ合っている。
だめ、やめて……女の声で確かにそう聞こえた。
反射的に身体が動いた。カウンターを飛び越え、パーテーションの奥へ。
まず、制服の広い背中が見えた。
それがゆっくりと振り向く。
工藤だった。
その向こう、髪を乱し眼鏡も外したサチウスが、あわてて開いた胸元を隠す。
男女のことにまるで疎い龍樹ではあるが、これが「一方的に無理やり」とまではいえない状況なのはすぐに察した。
棒を飲み込んだかのように立ち尽くす龍樹に、からかうような一瞥を投げて工藤は立ち去った。
そのあと帰宅するまでの記憶がない。
気がつけば、自分の机の前でぼんやりと座っていた。
そんな龍樹に、妹がにこにこ笑いながら近づいて来た。
「お兄ちゃん! はい、これ!」
ハートの形をしたチョコレート。今日はヴァレンタインデーだった。
「えっ、なんなの!? それって、龍樹にあげるために買ったの?」母が眉を逆立てた。「そんな無駄ことをして! マミ、あんた、馬鹿じゃないの?」
大人げなくヒステリックにわめきたて、妹はしまいにわんわん泣き出した。
目の前のこの光景が、何だか現実離れして感じた。
こころは、先ほどの図書室に引き戻される。
……あんなこと、まあ、よくある話さ。
そう大人ぶろうとしたが、胸の中のざわめきが一向に収まらない。
4
「お父さんの仕事? 一応、社長じゃない」まだ幼い龍樹に母が言う。「社長の意味がわからない? とにかく、会社で一番偉い人のことよ」
その口調はどこか揶揄まじりであり、真に受けられないと子どもながらに感じた。かといって、父に直接尋ねても、「プロモーター」というわけのわからないことを言う。
プロモーター? 何かのモーターのこと?
よく親子三人で、コンサートに行った。ジャズやあまり有名でない演歌歌手が多かった。父が主催に関わっていたのだ。
すぐに退屈して駄々をこね、客席を抜け出し父に与えられた楽屋で漫画を読み時間をつぶした。楽屋の廊下を歩いていると必ず呼び止められ、知らない大人が差し入れのお菓子をおすそ分けしてくれた。父は大勢の人にペコペコしたり、またはされたりで忙しかった。
コンサート以外でも、父はよくドライブに母と龍樹を連れ出した。車の運転が大好きだったのだ。カーステレオからは常に、外人ががなり立てている音楽が流れていた。あとから思うと、それらはビートルズにローリング・ストーンズ、ジミ・ヘンドリックスやツェッペリン等々……。
父が、かってプロのギタリストだったこと。それもかなりのポジションにいたが、つまらぬ喧嘩に巻き込まれ指を複雑骨折し、その道を絶たれたこと。その時代の人脈を生かし、何とか今の仕事を続けていること……夫婦の会話で、子どもなりに何となく事情は知るようになる。
父は社長に違いなかったが、その会社は実質三人で運営していたらしい。それも綱渡りだったようで、ずっと家で頭を抱えているようなこともあった。
お父さんは社長だけど、うちは実はお金持ちじゃない。なのに、なんでこんな立派な家にぼくらは住んでいるのだろう。
幼いとき、疑問だった。庭も広く、ブランコや滑り台などもあって、ちょっとした公園のようだった。
龍樹が小学校に入学すると、父は現実を直視するようなったのか、引っ越しを繰り返すようになり、その都度家のグレードは下がっていった。そして、あまり帰ってこないようになった。
父の言い方では、誰それに対しての不義理が限界に達し、それがどうにかなるまで姿をくらます必要がどうしてもある云々。そんなことが、何度も繰り返された。長いときでは、半年以上姿を見せず、音信不通になることもあった。こわもて風の人が家に来て、息を潜めて居留守を装うのもたびたびだった。
母はやりきれない思いを呪詛にして、目の前の龍樹へぶつけるようなった。小学三年生になり、一向に状況は改善の兆しを見せず、家の中の陰鬱さに耐えきれない思いでいると、意外なことが明るみになった。母の懐妊である。
母の言い方だと、策略に嵌ったということになる。実は真剣に離婚を考えていたのだけど、それを察したのか急に父が優しくなって云々……いやはや、そんなこと、子どものぼくに言われてもね……。
「若くて、きれいなお母さんでいいね」と母と外出するとお決まりのように言われた。
母が結婚したのは十八の時。父は三十歳だった。そのとき、すでにお腹の中に龍樹がいた。
つまり、妹の懐妊時は、まだ二十六歳。十分人生のやり直しがきく若さである。そのチャンスの芽が摘まれたと考えたのだ。
こんな考えのまま出産し、この先はたしてどうなることかと龍樹は憂慮した。
だが幸い、生まれた赤ん坊を見て、母の気持ちは一変した。本人の弁によれば、自分に目元が瓜二つと感じたそうだ。まさに目の中に入れても痛くないほどの可愛がりようだった。
しかし、詳しい状況はさっぱりわからなかったが、父をめぐる状況は深刻の度合いを増しているようだった。不義理をした人たちに居場所を悟られぬよう、家族から離れあちこちを転々していた。救いの手を差し伸べているのは、女たちらしい。どうやって工面しているのか、最低限の生活を営めるだけの金額は、母の口座へ不定期に振り込まれていた。
数カ月ぶりにひょっこり姿を現したかと思うと、母と言い合いをした挙句すぐに家から飛び出していく――
小学生になって以来、父のイメージはそんな感じだ。ただ、ごくたまにしか会えない父に対し、妹はよく懐いていた。それは、離れていても通じ合う親子の絆というものではなく、単に父が人の心をつかむのが巧みだったからだと思う。
――あんたのお父さんは、人たらしだからなあ。
幼い時、コンサートの楽屋で知らない大人から、そっと言われたことが妙に頭に残っている。
そして去年の四月。
図書室での衝撃から二カ月後、今度は母に驚かされる。
「あたし、友だちと会社を立ち上げることにしたから」いきなりそう宣言された。「その準備で海外に行かなきゃいけないの。しばらく日本には戻ってこれない……マミには、もう話したわ。お兄ちゃんのいうこと聞いて、いい子にしてなさいねって」
妹は小学二年生になったばかりである。
馬鹿な冗談はやめてくれ。子どもふたりきりで生活するなんて無理に決まってると言うと母はなぜか勝ち誇ったような表情になった。
「無理だと思うんなら、お父さんに泣きつきなさいよ……そもそも、龍樹。あんたさ、なんで、あたしだけ責めるの? あの人は、あれだけ好き勝手にやってるじゃない。それなのに、あんたたちは尻尾振っちゃってさ。マミは、まだ小さいから、仕方ないかもしれないけど……とにかく、あたしにだって自由に生きる権利はありますから。今まで、ずっと、ずーと我慢してきたんだから!」
父の人たらしの才に籠絡されてしまっているのは、実は龍樹も例外ではなかった。母が面白く感じないのも、わからないでもない。とはいえ、自由に生きたいとか言い募る三十代半ばの母は、まるで反抗期の少女のようで唖然としてしまう。
男と女のことはわからない。
まるで夫婦の体をなしていない父と母だが、両人とも離婚の意思はないようだった。それぞれの思惑もあるのだろう。子どもの養育や慰謝料について法律できっちり決められてしまうのが怖くて、二人とも結論を先送りにしていただけなのかもしれない。
母は四月末のゴールデンウィーク前に日本を旅立った。ベトナムなど東南アジア各国を回る予定という。アジアン雑貨とやらを取り扱う会社を立ち上げるための下準備とのこと。
「その間、こっちとは連絡も取れなくなるから。何度も言うけど、お父さんに助けてもらいなさいね。お母さんがいないから、何とかしてって」
ところが、以前教えられていた父の携帯電話の番号に掛けてみても、「この番号は現在使われておりません」とのアナウンスが流れるのみ。
両親とも各々の事情で親戚づきあいというものを一切断っており、したがって身近に頼れる大人はだれもいない。
子ども二人だけの生活が始まった。
妹はこのような状況を健気に耐え忍んでいた。良い子にしていれば、早く帰ってくるからと言い含められたらしい。他にも、火は絶対に扱うなとか、衣服の洗濯は怠らずとか命じられていた。
五月になり、妹が学校から家庭訪問についての告知を持ち帰ってきた。
龍樹はその返信欄に、(いつも娘がお世話になっております。家庭訪問の件ですが、あいにく夫は長期の単身赴任中、一方私に関して言えば、実家の父が寝たきりの状態に加えて、その面倒見ていた母に最近認知症の症状がでるようになってしまいました。そんなわけでどうしても実家に行くことが多くなり、ご指定の期間中は時間が取れそうにありません。大変申し訳ありませんが、都合がつきしだいこちらからご連絡いたします)といったようなこと母に成りすまして記入し、妹に持たせた。
――もし、マミが、この件について、先生から何か聞かれたら、どうするかって? そうだな。お母さんが帰ってくるのは、いつも夜遅く。でも、親戚の人が、面倒を見に来てくれているので、食事等は大丈夫って答えておいてくれ……。
この状況は絶対に隠し通さないといけない。
もしばれたら育児放棄と判断され、その手の施設に放り込まれる可能性大である。そんなのは絶対に御免こうむる。もちろん妹だって、耐えられないに違いない。
とにかく家庭訪問の件は、このままうやむやになることを切に願った。
妹の担任からの電話に出てしまったのは、六月に入ってすぐの夜半だった。母がいなくなって一か月以上が経過していた。
――ああ、お兄さんさんですか。やはり、ご両親はご在宅じゃない? いや、実はちょっとクラス内での噂が気になりましてね。最近、麻巳子ちゃんの家に遊びに行っても、お母さんを見たことがないと……いや、いや、それは、ご事情があるようなんで別にいいんです。ですが、それにしても、日中に大人のひとがいるのを見たことがないって言うものですから。親戚の方が面倒を見てくださっている、そうこちらは把握していたものでね……どうなんでしょう、その辺りは?
温厚そうな男性の声が受話器越しに問いかけてきた。
いきなりのことで、頭の中が真っ白になった。
……はい。日中は親戚の人が来てくれています。でも、どうしても毎日というわけには、いかないんで。
何とか、返答した。
――そう。じゃあ、もし差支えなかったら、親戚の方がいらっしゃる時に、いちどそちらへお邪魔したいんだけど、いいかな? まあ、ご両親には会えないにせよ、これはこれで家庭訪問だね。親戚の方のご都合を聞いておいてください。
口調は柔らかいが、どこか有無を言わせない雰囲気があった。
次の日の夕方、再び担任から電話があった。
――親戚の方のご都合だけど、どうだろう?
えーと、来月なら大丈夫だそうですと答えた。なるべく先延ばしにしたかった。なぜ、もっと早くできないかと言われるのを覚悟した。しかし担任は意外とあっさり了承した。
――では来月にね。都合の良い日時がはっきりしたら、教えてください。こちらはなるべく合わせるようにしますので。
*
「……とまあ、大体の事情はこんな感じなんだ」
あえて冗談めかした口調で、龍樹は身の上話しを締めくくった。
「それで、あたしに親戚を演じろと?」
サチウスが眉間にしわを寄せながら言った。
「さすが、察しがいい」
龍樹は微笑みながらアイスコーヒーに口を付けた。お香のような匂いが周囲に漂っている。サチウスが会う場所に指定したのはエスニックな雰囲気のカフェだった。天井からシーツのような布が、各テーブル間に垂れ下がっており客同士が見えない。
昨日四か月ぶりに図書室に出向き、「折り入って頼みがあるが、ここでは話せない」と告げたのだ。
「そんな頼み、受けられないに決まってるでしょ」あきれたようにサチウスが言った。「本当にご両親と連絡取れないの?」
「それができないから、こんな無理なお願いをしてる」
「お母さんのほうは? 帰ってくる気配は全然ないの?」
「そもそも、帰ってくる気がないのかもしれない」
「きみたちは、ネグレクトの被害者よ。すぐにでも養護施設に保護してもらったほうがいい」
「ぼくも妹も気が弱くて、人見知りなんです。そういう場所では生きていけない。父からの入金が途絶えたら考えますけどね。まだとりあえず大丈夫なんで」
サチウスは小首を傾げて言った。「きみ、もしかして、今のその状況、結構楽しんでない?」
「まさか。不安で不安でしょうがないですよ」
「どうだか」サチウスが鼻で笑う。「――従順で可愛い妹と二人だけの甘い生活」
「年齢がせいぜい二、三歳違いで、実は血が繋がってないという設定ならね」そう言って、龍樹は肩をすくめて見せる。
「とにかく、子どもだけの生活なんて、絶対だめよ。コクトーの『恐るべき子どもたち』じゃあるまいし。ろくなことにならないに決まってる」サチウスは龍樹の顔をじっと見つめて続けた。「とにかく、そんなことに、あたしを巻き込まないで」
「では、断ると?」
「当たり前でしょ」
「そうですか」龍樹はわざとらしくため息をついてみせた。「では、いいんですね? あのこと言いふらしますよ」
「あのことって、一体何かしら?」
「察しのいいあなたなら、わかってるはずだ。ぼく、脅迫してるんですよ」
「脅迫ねえ」サチウスはそう言うと脇に立てかけてあるメニューを手に取った。「きみ、お腹、空いてない? どうせ普段、ろくなもの食べてないんでしょ? 好きなの頼んでいいわよ、おごるからさ、それでこの話は終わりってことにしない?」
「そんなんで終わりにはできない」
「いやだ、怖い顔しないでよ」とサチウスはクスリと笑い、「でも、きみさあ、ほんとに、言いふらすとかできるの? そんなことしたら、あいつが」笑顔が一瞬揺らいだ。「当然、黙ってないと思うけど。腕の一本くらいで済んだら、むしろ運がいいんじゃないかな」
「承知の上です」
「ふーん」サチウスは真顔になると続けた。「覚悟はしてるってわけ。じゃあさ」身を乗り出してくる。「いっそ、あいつに直接掛け合ってみてよ」
「掛け合う?」
「そう」ダサい眼鏡の奥の瞳が挑むようにきらめいた。「薄井幸子を解放しろって、工藤信長に直接言ってみてよ。それであいつのOKが取れたら、きみの頼み、受けてもいいけど」
「解放って……あいつとは、無理やりつき合わされてるの?」
「別にそういうわけじゃないけど」サチウスは遠くを見る目つきになり、「男と女の関係はね、簡単には説明できないの」
5
階段を昇る脚が重い。
自分の身体ではないみたいだ。最後の踊り場に到着。屋上に出る鉄のドアを開く。日差しの照り返しが強烈だ。
梅雨が明けた空は快晴。昼休みのざわめきが風に乗って運ばれてきている。
軍団は階段室の裏手、日陰にいた。
王はこちらに背を向け、フェンス越しに遠くのほうを眺めている。六、七人の取り巻きたちは、少し離れた場所で車座になって座っていた。
近づいてくる龍樹に最初に気づいたのは大黒だった。目を丸くしている。それがすぐに好意的な笑みの表情になった。
悪いけど、軍団への入団申し込みじゃないんだよ。
他の取り巻きたちも気づき、会話が止んだ。
王が肩越しにこちらを振り向いた。口の端に煙草をくわえている。
「工藤」大丈夫、声は震えなかった。昨晩、何度も自分に言い聞かせたのだ。腹をくくれ。どんなひどい目に遭おうとも、まさか殺されることはないさと。「ちょっと、いいかな」
「あっ? だれ、お前?」
しわがれた小さな声で工藤が言った。
「二年の向井って者だけど」
工藤はふぅーと煙を吐き出し、「で、何の用かな、向井くん?」
「その、ちょっと、ふたりだけで話したいんだけど」
工藤は能面のような無表情で、龍樹をじっと見つめてから言った。
「何? まさか、おれに告る気か?」
取り巻きたちがどっと笑う。
やっべー、ノブくん、モテモテじゃん。男女、関係なしってか。いや、もしかして、あれ、実は女ってオチ? 結構、かわいい顔してるし、おれ、案外イケるかも。ギャハハハハハ。
工藤は興味を失ったかのように再びこちらに背を向けた。
はやし立てる声が収まったところで龍樹は思い切って言った。
「二月に図書室でばったり会ったの覚えてないかな? それに関連したことなんだ。だから、ふたりだけで――」
工藤が完全に振り向いた。かすかに眉を上げこともなげに言う。
「なんだ。サチウスのことか」
工藤は、興味津々といった様子の取り巻きたちのほうにあごをしゃくる。
「あの女のことなら、こいつら承知だよ。だから、気にせず話せ」
拳を握りしめながら龍樹は口を開いた。「彼女が別れたいと言ってる」
「ふん」工藤は、足元に落とした煙草を踏みにじりながら「で、もうヤッたのか、あいつと?」
「ヤッてない」
「これからヤリたいから、自分に譲れと?」
「いや、そういうわけじゃ――」
「まっ、金額次第ってとこだな」そう言うと工藤は鉄柵に身を預け、空を仰いだ。「おう、エモト」
「えっ?」どことなくロッド・スチュアートに似た男がびくっと反応した。
「サチウスって、いくら位かな?」
「はあ? えーと」口元は笑っているが目元は緊張している。どんな答えが正解なのか、考えあぐねているのだろう。「つーかさ、そもそもの話、あいつにとって」龍樹を指さして、「どんくらいの価値の女なのかって知りたくね?」
「ああ、それもそうだな」工藤は新しい煙草に火をつけると言った。「向井くんだっけ? サチウスのためなら、いくら払う気がある?」
「金を払う気はない」
白けたような沈黙が場を支配した。
工藤が、吐き出した煙の行方をぼんやり追いながら口を開いた。「なあ、ここに何しに来た? 話し合いに来たんじゃないのか? それとも、まさかおれと殴り合いでもして決着つける気か?」
「いや、話し合いだけど」
「話し合いになってねえだろ」工藤はうんざりしたように言い、火をつけたばかりの煙草を指先で弾いた。「なめんてのか、こら」
逃げ出したくなるのをどうにかこらえた。
「お前は女を手に入れて、おれは何も得られない」無理に抑えたような口調で工藤が言う。「そんな話しを呑めってか。おれもとことんなめられたもんだ。そう、思わねえか、お前ら?」
取り巻きたちが一斉に腰を上げた。
みんな、楽しそうだ。ひまつぶしにはちょうどいいくらいに思っているのだろう。
じりじりと取り囲むように龍樹へ近づいてくる。
「まあ、正直言やあ」工藤が声を発した。取り巻きたちが足を止める。「あんな、不感症女、別にただでくれてやってもいいんだが」軍団員は神妙に言葉の続きを待つ。「けどフェラのテクに関しては、さすがに年の功だからなあ」忍び笑いが起きる。「やっぱ、ただじゃ駄目だな」
言い終えると工藤はこちらへ歩いてくる。軍団員たちはうやうやしく道をあけた。
龍樹は根が生えてしまったように立ち尽くす。
目の前に立った工藤が、龍樹を見下ろして言う。
「とりあえず、今持ってる有り金、財布ごと全部置いてけ。その代わり、後日お前のスマホに、サチウスとのハメ撮り動画送ってやるよ。それで、手ぇ打とうか」
さっすが、ノブくん! ある意味、神対応! よかったなあ、それ見てマスかき放題じゃん! ギャハハハハ。
工藤が手のひらを差し出してきた。ごつくてでかい。龍樹の倍くらいありそうだ。そこに財布を置けば、とりあえずこの場は逃れられるが――
「サチウスって、不感症なのか?」視線を落としたままで龍樹は言った。自分の出した声ではないみたいだった。
「ああ?」工藤が訊き返す。
「それって、お前が」龍樹は顔を上げて言った。「下手ってことだろ」
工藤は微笑んだように見えた。
と、次の瞬間、あごに衝撃。
急に膝から下の力が抜け、すとんと尻もちをついてしまった。
キッター! ノブくん必殺、チンへのノーモーションフック! 脳みそ、グラグラ揺れちゃってます状態!
「よし、PK決めるぜ」工藤の声が言う。
目の前に蹴りが――
反射的に頭を下げ、額で受けた。
身体ごと吹っ飛んで、背中からコンクリに叩きつけられた。
……気が遠くなりかける。
ああ、どこまでも青い空。
「いってー」工藤の声。「あのサッカーボール、くそかてーわ。つかえねー」
あれれ、ノブくん、もしかして、ゴール外しちゃったんすか? いや、ノブくん、悪くないっしょ、悪いのはくそボールのほう! もうワンチャン、有りってことで。それいけ、ニッポン! 次こそ、決めてくれ!
「うるせーよ」氷のような声。場が静まり返る。「もう、飽きたわ。お前ら、あれ、下のグラウンドへ放り投げろ。目障りだから」
とまどったような空気が漂う。
「早くやれ。おれは冗談で言ってねえぞ」
「いや、さすがにそれは」
「ふん。かばうのか、あいつを。まあ、それでもいい。だったら、お前らのうち誰か一人が、代わりに飛び降りろ」
龍樹は、どうにか頭だけ少し持ち上げた。軍団の面々がうつむき、もじもじしているのがわかった。
「早くしろ。誰だ? あいつの代わりに飛び降りるのは……しょうがねえな。おれが指名する」工藤は一拍おいて言った。「大黒、お前だ」
「かっ、勘弁してよ、ノブナガくん!」すかさず大黒が言った。声が完全に裏返っていた。「冗談キッついなあ、もう」
「嫌なのか?」工藤は落ち着き払った口調で言う。「なら、お前ひとりで、向井を下に落とせ。そのどちらかしか、お前に選択肢はない。以上」
大黒は呼吸困難に陥ったかのように口をパクパクさせる。軍団の他の面々を見回すが、皆その視線を避けて押し黙っていた。
大黒が蒼ざめた顔をこちらに向けた。そしておぼつかない足取りで近づいてくる。
横たわる龍樹のすぐそばに膝を突いた。両脇に腕を入れて、龍樹の上体を起こそうとする。
――おれを突き飛ばして、逃げろ。
耳元で早口にそう囁かれた。
さて、そんなことができるかな?
体勢が変わったせいか、急に強い吐き気に襲われる。
でも、やるしかない。それしか、チャンスがなさそうだ。
大黒の肩を借りて、何とか立ち上がった。よろめいて二人三脚と、見せかけ、言われた通り大黒を突き飛ばした。
先ほど出てきた階段室のドアへ――
そのかなり手前で、後ろから襟をつかまれた。
視界がくるりと反転。
見下ろしてくる工藤と目が合う。
倒され、がっちり押さえこまれていた。
「なあ、つまらねえよ」工藤が無表情に言う。「すっごく、つまらねえ。全然、笑えねえ」
「おれが飛び降りれば、面白いのか? それで笑えるのか?」
龍樹は身動きできない状態のまま口を開いた。諦め故か、不思議と落ち着いていた。
「そうだな」工藤は顔を上げ、遠くを眺めるような目つきになった。「たしかに、大して面白くはないわな」龍樹に視線を戻して続ける。「なあ、向井。おれを腹の底から、笑わせることができるか? それができたら、サチウス、譲ってもいいぜ」
「工藤の笑いのストライクゾーンが、よくわからない」
「そうだな」再び、遠くを眺める目つき。押さえつけている力が若干緩んだ。「例えばの話だが――理事長、あのエロ坊主が全校生徒の前で、大恥をかいたりしたら、おれは間違いなく笑うけどな」
6
「お月さんには、ウサギがおりますわな。今朝はその理由をお話ししましょう」
体育館の檀上、まるで幼児たちを相手にしているかのように、加持理事長が全校生徒へ語りかける。毎週月曜日の朝の苦行。みなひたすら我慢強く、時が過ぎるのを待っている。扉は全て開放しているが、蒸し暑い。理事長のスキンヘッドからも汗が流れ落ちているのがわかる。
「昔、むかーし、ある国の山奥でウサギと猿と狐が、仙人からありがたい説法を聞いて過ごしておりました。ところが、仙人がもっと食べ物のある土地に移動してしまうことになった。さて、そいつは困ったぞ。動物たちは仙人を引き留めるため、各々が、食べ物を持ち寄ることになった。ところがウサギだけ、食べ物を探してこれなかった。思い余ったウサギは、自らの身体を捧げようとして、たき火の中に飛び込んだ……。仙人の正体は、実は帝釈天でしてな、ウサギの自己犠牲の精神に大いに感じ入り、永遠の命をお与えになって月に住まわせることにした……。わたしもこう見えて、そのウサギに負けんほどの自己犠牲の精神は持っております。それこそ、生徒のみなさんのためなら火の中に飛び込むくらいの覚悟は常にございます……。まあ、こないな不細工なウサギですけどな」
理事長はそう言うと、おどけたように両腕を上げてみせた。自分でデザインしたという真っ白な袈裟のような服の裾がひるがえる。
一年生には初耳だろうが、龍樹がこの話を聴くのは二度目だ。理事長にとって特にお気に入りのようで、毎年一回は生徒たちの前で披露するらしい。
高校生くらいの若者にとって、大人の見え透いた偽善など、もっとも我慢ならないことのひとつのはずだが、失笑ひとつ起こらない。
学園の最高権力者ににらまれたら面倒なことになるという、常識的な判断が働いているには違いない。
だが、それにしても、この体育館内に充満するどんよりとした空気は何だろう?
おそらく、生徒たちの多くは自覚しているのだ。この善雲学園高校自体が、檀上で満足げにしゃべり続ける俗物の、それこそ「偽善」の結実であるということを。つまり、それを笑えば、他ならぬ善雲の生徒である自分自身が、空しい気持ちになるだけなのだ。
理事長は学園にいるときは常に僧のような恰好をしているが、正式な得度をしているわけではない。
――皆さんもよう知ってはる、空海はんも正式な得度はしておらんのですよ。要は、仏の道はね、己の心がけ、生き様次第なんですわ。そもそも釈尊、つまり仏陀はんだって、自分一人で悟られたわけですから……。
若い頃から、日本人の心情に一番よりそう宗教は仏教だと感じてはいたが、既成の権威や組織などに頭を垂れる気は毛頭はなかったという。だから自分なりにひとりで研究や修行をしてきたと主張している。
不動産ディベロッパーを足がかりにして、大きな経済的成功を収めてきたわけだが、胸には常に仏の教えを抱いていたそうだ。
――この、加持武雄、これまでいろんなことを言われてまいりました。曰く、強欲まみれの生臭坊主、みたいな言い方をする人もおります。まっ、いちいち反論しとったら、きりがないわ。でも、これだけは言わせてや。あんたらの単純な善悪の基準で判断するなってことですわ。開き直ってるわけじゃおまへんで。求める人がおるから、こっちも商いするんでね。別に金の亡者なわけやない。わたしの商売で幸せになってる人が、仰山おるんですよ。時には、あえて黙って、泥をかぶることだってありますよ、そりゃ。
不動産に加えて介護、警備業などの企業を傘下に収める加持ホールディングスの、現在は会長の地位にある。経営の実務は、十年以上前に娘婿へ引き継いでいた。
CEOの地位から身を引く契機になったのは、社員の過労死についての訴えを相次いで起こされたからだ。加持ホールディングスに属する企業において出世するということは、つまり「加持武雄教」の盲目的な信者になること。利益を上げるためには、それこそ自ら火の中に飛び込むくらいの自己犠牲が求められると噂されていた。
会社が長時間の残業を強制したわけではない。あくまで社員が自らの意志によっておこなったことである。一種のマインドコントロールが行われた? 全くもって、言いがかり。笑止千万である。加持ホールディングス側はそう主張し、裁判所の判決もおおむねそれを支持した。しかし、勝訴を重ねることによって逆に、世間からの風当たりも非常に強くなってしまったのだった。
これにより、加持武雄は大勢の者へ説法できる場と機会を失ってしまった。会長の地位に留まってはいるが、会社内で説法など頻繁に行えば、係争中の裁判に悪い影響を与えかねない。
自身のことを徳の高い私度僧と信じて疑わない加持武雄にとり、これは耐え難い事態だった。
そんな時、目を付けたのが、経営の傾いたある私学グループだったのである。
――この少子化の時代、まず儲かる当てがない学校経営に加持が手を出した……。わたしのことを、強欲と批判しとった人らは、そらあ驚いたでしょうなあ。まあ、それまでは、善行はあえて隠れたところでやっておったわけで。だけど、これからは遠慮は致しません。若者たちのために、堂々と人生の道しるべを示すことにしますわ。
特待生の話しを受け入れる前、インターネットで善雲学園のことはよく調べた。
その過程で、加持理事長の過去のインタビュー等を目にすることになった。当然、気持ちは萎えた。でも、落ち着け――その時龍樹は思ったのだ。例えば、プロ野球のドラフト指名において、オーナーが気に食わないという理由で入団拒否した選手が今まででいたか? 少なくとも自分は聞いたことがない。ここは切り離して考えるべきだ。
その判断は、間違っていなかったとは思う。実務を取り仕切っている校長のほうは、理事長の腹違いの弟ということだが、まるで宗教じみたことは言わない。どことなく、理事長とは距離を置いているようにさえ見えた。
とはいえ、学内を真っ白な袈裟姿で闊歩する理事長を目にしない日はないといってよく、その異様な迫力にはいまだ慣れることができない。なおうんざりすることに、各クラスのホームルームの時間にも抜き打ちで現れ、説法をしていったりする。
檀上の理事長の説法は続いている。
「まあ、月に行ったウサギは、仏様になったということでしょうなあ。ところで仏とは、何ぞや? 一言でいえば、悟りを得た存在が仏です。 いかに立派な行動したかて、ウサギごときが仏になれるんかいなと疑問に思う人もおるでしょう……。なれます。ウサギどころか、草木だって仏になれます。一切衆生、この世のすべてのものに仏性がございます。もちろん、みなさんにもございます。つまりね、みなさんだって仏になれるんです……。ああ、わたし、言い方間違ったな。仏はなるものではありません。ある日ふいに、自分は仏であると気づくものなんです」
エロ坊主が偉そうに――
ついに耐えきれなくなったのか、誰かが小声で言った。
まあ、そう言いたくなるのも無理もない。
最近の報道によれば、かっての秘書からセクハラ容疑で訴えられているそうだから。
7
実行に関しての、大まかなイメージはすぐに浮かんだ。
龍樹は、自分の部屋で寝転がりながら思いを巡らしている。
数か月前に読んだスティーブン・キングの『キャリー』のクライマックス場面。
高校の卒業パーティー。いじめられっ子の少女キャリーが、参加者たちからの投票の結果、意外にもクイーンの座を射止めることになった。夢見心地で壇上に登り、拍手喝采を浴びるキャリー。が、それは陰湿ないじめの総仕上げだった。直後、頭上から大量の豚の血が降ってきて……。
実はキャリーは念動力を持ったエスパーで、怒りゆえその直後から強大なパワーを制御できなくなり、町を壊滅状態に追い込んでしまうのだ(デ・パルマが監督した映画のほうは中学生の頃にDVDで鑑賞済み。でも予算の関係だろうか、惨劇はおおむねパーティー会場内で収まっていた)。
まさか、あのエロ坊主に人智を超えた法力のたぐいはあるまい。
報復の惨劇を心配する必要なし。
頭上から黒ペンキでも浴びせるか。
その光景を思い描いても、正直龍樹自身は笑えないが。
しかし、養護施設に行きたくなければ、やるしかない。
別の手段を探す時間の余裕もない。
つまり、選択肢は他にないってこと。
さて、具体的に細部を詰めていくか――
やるとしたら、もちろん朝礼のあの長々しい説法の時だ。理事長の前には演台があり、その立ち位置は常に決まっている。
『キャリー』で実行された方法は、梁の上に登って豚の血で満たされたバケツを置いておき、繋いだロープをタイミングを見計らい引っ張るというシンプルなものだった。
入学して間もない頃、インターハイに出場する選手のための壮行会の準備を手伝ったことがある。その際、壇上に立つ選手の背後に祝福の幕を垂らすため、照明の吊りバトンの操作もやった。電動式で、上げ下げはボタンを押すだけだった。
つまり、危険を冒して自ら高い場所に登る必要はないということ。ただバケツは現実的ではない。
風船、それも丈夫なパンチングボールのたぐいがいいだろう。その中に黒い液体を満たしておき、バンッと破裂させるのだ。ペンキはやり過ぎの気がする。水性絵具を溶いたもので十分。あのご自慢の純白の袈裟は黒く染まるに違いない。
風船は直に吊るさないほうがいい。粗い網目の籠を用意するか作成して、その中に入れたうえで照明バトンから吊るすのだ。それで籠から取っ手をバトンに伸ばすようにして固定すれば、位置の調整もできる。そして風船の直上には、文鎮などの重りに結びつけたカッターの刃を紐で吊るしておくのだ。その紐が説法の最中に切れ、刃が風船に落下し破裂するという段取りにしよう。
電源のON-OFFが可能な、コンセントに取り付ける形式のタイマーがある。それに、例えばプラモデルに使用する回転モーターのコードをつないでおく。モーターの羽根の部分には、やはりカッターの刃を取り付けておく。セットした時刻に回り出すモーター。羽根の刃が、紐をプツリと切断。その紐の先にはむろん、風船を破裂させる重りが結びつけてある――
まるで詩心が感じられない機械的トリックではあるが、この際背に腹は代えられぬ。
問題は、下準備には早速取り掛かれるとして、現地にいつ仕掛けるかだ。仮に深夜体育館に忍び込めたとしても、常駐している警備員に気づかれず作業するのは無理だろう。
では、照明は不要で多少の物音をさせても大丈夫な昼間か? とはいえ、平日はもちろん論外。休日も常に部活で使用されている。その場は生徒相手なら適当に誤魔化せても、後々問題にされることは間違いない。
いや、そもそもの話し、これが無事に実行できたとしても、結局のところ自分は犯人と断定されてしまうのでは?
工藤は言い触らさないとは思う。しかし、軍団員たちはどうか。いくらボスが箝口令を敷いたとしても、完全な遵守は無理な気がする。〈絶対にここだけの話しだぞ……〉というのが、ここだけの話しになることは絶対にない。噂は広がっていき、しまいには教師たちの耳にも入る。
覚悟はしておこう。退学も大いにありうるのだ。その段階に至っては、さすがに両親の不在を隠蔽できないだろう。
今回のことが成功したにしても、それは多少時間を稼げたということに過ぎないのかもしれない。
空しい気分に囚われ思考が停止しそうになるが、何とか自分を奮い立たせた。ツーストライクで弱気になって、自分からバッターボックスを逃げだそうとするのは余りに情けない。とにかく悔いの残らぬよう、せめてバットは振ろう。
それで、一体いつ仕掛けるかだ。深夜は駄目、昼間は論外――じゃあ、早朝?
思わず、立ち上がっていた。
今週末、一年生は林間学校の予定だ。バスを連ねて丹沢方面に出発。集合場所は学園グラウンド、土曜日の早朝……。
出発は七時頃のはず。自分の時はたしかそうだった。学園の門は、一時間前には開くだろう。一年生の振りをして、学内に入るのだ。体育館の扉は、前日にどれか一つを未施錠にしておこう(部員の誰かが最終施錠しているときに、忘れ物を取りに来たとか適当な言い訳をして中に入り、隙を見て行えばいい)。バスケもしくはバレー部が休日練習を開始するのはおそらく九時頃。下級生が準備のため早目に来ることを、考慮したとしても二時間以上は作業できる!
運命の女神は、おれに微笑んでいるのかもしれない。龍樹は高揚を抑えきれず、狭い部屋の中を何度も行ったり来たりした。
あるいは、悪魔に手招きされているのかもしれないが――
頭の隅ではそんなことも思いつつ、検討を続ける。
一年生は日曜の夜に帰ってきて、月曜は代休になる。その関係で来週に関しては、朝礼は火曜に行われる。
一連の流れをまとめてみると、金曜の帰り際、体育館の扉のどれか一つを未施錠のまましておくようにする→土曜の早朝に仕掛けのセッティングをする→月曜の夕方以降タイマーの時刻セット→火曜の朝礼に仕掛けが作動、ということになるか。
ところで、肝心の工藤は朝礼などに出るのだろうか。その姿を見かけた覚えがない。
――例の件。約束通り、今度の朝礼に実行するんで、見届けてほしいんだけど。
そんな風にお願いするのも何だかためらわれる。
まあ、仮に、工藤自身がそれを目撃しなくても、エロ坊主が全校生徒の前で大恥をかいたという事実は、あとで当然知ることになるから、それでOKということにならないか。
いや、ちょっと待て。実際にイメージしてみよう。説法の最中、突然理事長の頭上から黒い水が降ってきたとして……。
生徒たちは、まずどう反応する?
おそらくその場を支配するのは、とまどいの空気だろう。人為的ないたずらなのか、それとも設備的なトラブル――もしかして何かの配管が破裂したとか――どちらともすぐには判断しがたいに違いない。
笑う者もいるにいるだろうが、爆笑がわき起こるというようなことまでは期待できない。
はたして、それで大恥をかかせたといえるのか。
気づくと龍樹は、頭を抱えて座り込んでいた。
いっそ、犯行予告するか? むろん、何をやるかを具体的に明かしては駄目だが、ことが起きた際「ああ、これがそうなのか!」と皆が腑に落ちてくれるように……。
ここに至って、怖気づく気持ちが急に強くなってきた。
――やはり、こんなこと、実行できるわけがない。
何となく、スマホを手に取っていた。
繋がるはずもないとわかっているのに、また父親の番号を表示させる。
この番号を教えてくれたのは去年、善雲学園に入学して一か月くらい経った頃だった。
休日の夕方、突然父が帰宅したのだ。
――おう、ひとりか? あいつとマミはいないのか?
母と妹は連れだって、五分ほど前に近所へ買い物に出かけていた。あとから思うと、父は実は近くで見張っていて、そのタイミングを狙って顔を出したという気がした。
――夕飯まだだろ? なんか食いに行こうぜ。
少し離れた路上に、山形ナンバーの軽自動車が停めてあった。助手席に乗ると、車内の様子で本来の持ち主が女性だということが察せられた。しばらく走り、焼肉屋に到着した。
とりあえずビール、と注文する父に対し、たぶん龍樹は渋い顔をしてしまったのだろう。
――ほんの一本だけだよ。お前も飲むだろ? コップ一杯くらい付き合えって。
仕方ないので、乾杯して一口だけ飲んだ。煙草も差し出してきたので、それはきっぱり断った。
――ほんと、お前って真面目だなあ。コツコツと勉強して、黙々と走って、そんで高校生にもなって、酒も煙草もやらず……で、こっちのほうはどうなんだ?
そう言って小指を立ててみせる。龍樹は苦笑いして、首を横に振った。
――なあ、それで、人生一体何が楽しいんだ?
父は、不思議なものでも見るような顔を龍樹に向けた。
食事を終えて家に戻る車中、父がカーステレオのラジオのヴォリュームを急に上げた。
――いいねえ! アリス・クーパーじゃん。スクールズ・アウト! 知ってるか……、学校も先公たちもぶっとばせって曲だぜ。
キャッチーなリフが印象的だった。父の影響でひと昔前の洋楽ロックをよく聞いていたが、この曲は知らなかった。ただアリス・クーパーのヴィジュアルに関しては、たしかティム・バートンの映画に、短いシーンながら本人役で出演していたので、印象に残っていた。
龍樹が、KISS風なメークのおっさんだよねと言うと父はうなずいた。
――KISSのほうがパクったのさ。悪魔っぽいコスプレなのに、曲調自体はとことんキャッチーでポップっていう路線をな。まっ、それは置いといて、こりゃ龍樹の入学を祝うのにふさわしい曲だな! ハッハッハッハッハ!
ここでようやく、今夜の食事が父なりの祝福だったことに龍樹は気づく。
自宅の団地前で龍樹を降ろすと、父は車を走らせて、またいずこともなく消え去った
玄関で靴を脱ごうとしていると、帰ってきていた母がいきなり言った。
――あの人と一緒だったんでしょう?
こちらの不実を詰るかのような口調だった。それにしても、時折見せる母の勘の鋭さには脱帽せざるを得ない。
これ、お父さんが今持ってるケータイの番号みたいだよと言って、メモを渡そうとしたらにらまれた。
――龍樹に知っておいてほしいってことなんでしょ。あんたが持ってればいいじゃない。
そう言って、母は背を向けた。
龍樹は部屋に戻り、何とはなしにスクールズ・アウトと口ずさんだ。
その後すぐ、同名のアルバムをダウンロードしてプレイリストに加えた。
(おれたちに選択の自由なんかないのさ。だったら、大騒ぎしてやろうぜ、boys& girls。学校はもうすぐ夏休み。永遠にお終い。学校はバラバラに吹っ飛んだ)
そんな風な歌詞だった。ティーン・エージャーに向けた陽気なアジテーション……。
過去への逃避を止め、龍樹は思考を現在に引き戻す――犯行予告文を書くとしたら、ひとつこの「スクールズ・アウト」風にやってみるか。
夏休み前に何かやらかすぜ。教師どもは覚悟しな――ひとりでつぶやいてみても赤面もの。開き直って、アリス・クーパー的なキャラを演じると思えばいい。
キャラを演じるなら、何かそれらしいネームを名乗ったほうがいいな。
少し考えて、ふと「クラウド・キッド」というのが頭に浮かぶ。クラウド、つまり日本語では雲。言うまでもなく、「善雲」の「雲」からの連想である。おそらく雲には仏教的なありがたい意味があるのだろう。あまり詳しくないけど、最近ではIT関係で拡張的なニュアンスでよく使われる単語かもしれない。が、何より「雲を霞と」なんて言い方もある。すたこらさっさっと逃げ出すことの例えだ。
ふむ、まさにピッタリじゃないか。
ところで、学園は今、少なくとも表面上は平穏ムードである。そこにいきなり、「クラウド・キッド」などという輩が現れ、羽目を外した悪ふざけをするのは、さすがに唐突に過ぎる。工藤軍団の関与が疑われるかもしれないが、彼らがこんな七面倒な仕掛けをあえて弄するはずがないという意見が、最終的に大勢を占めるだろう。
例えば、単なる憂さ晴らしの悪ふざけではなく、学園側に具体的な不満をぶつけるため、今回行動を起すとしたほうが、まだ不自然さがない気がする。
つまり、表向きの目的を用意したほうがよいのだ。
――本当の動機を詮索されないためにも。
とはいえ、授業料の値下げ要求とかいったシリアスなものではバランスがとれない。こちらが最終的に欲しいのは、あくまで笑いなのだから。
生徒たちの多くが今、学園側に対しイラついていることは何だ? 体育館のエアコンの件はどうか。
元々は、エアコン設備自体もない、老朽化が目立つ体育館だったのだ。それが、春休み期間中大幅なリフォーム工事が行われ、ようやく空調の稼働が可能になった。理事長は学園のホームページで〈今後は、ご希望があれば近隣の皆様にも開放します。ぜひ発表会等、様々な用途でご使用ください〉と述べていた。
生徒たちは、これでようやく理事長の説法中、汗まみれにならないですむと大歓迎。ところが学園側より、朝礼時にはエアコンを作動させない旨が宣言されたのだった。別に生徒を甘やかすためのリフォームではないというのが本音か。電気代ももったいないことであるし……。
よし、表向きの目的は決定。
実際にことを起こす現場は体育館だし、好都合。
以上の点を踏まえ犯行予告文を完成させ、学園内にばら撒くのだ。そうすれば、実際に理事長が黒い水を浴びた際、その意味を皆理解してくれるだろう。
まあ、それでも爆笑がわき起こる保証はないが、いきなりやって困惑させるよりはずっといい……。
二日後、風の強い夕暮れ。誰もいない四階の教室の窓から紙の束をばらまいた。
その場からすぐ立ち去りながら、もう後戻りはできないと思った。
校庭に舞い落ちたその一枚を拾った者は、一読し首を傾げるに違いない――
School`s Out !
学校はもうすぐオシマイ
みんな楽しみ夏休み
教師と教科書、放り出せ!
校則全てハイキ済み
ハレて秋まで自由の身
でも、何だかちょっと物足りナイ
これで終わりじゃツマラナイ
エアコン代さえケチるよな
そんなせこい学園は
キツイお仕置き必要だ
School`s Out !
学校はもうすぐオシマイ
永遠にオシマイ?
By Cloud Kid
8
「……イワシっちゅう魚は、昔はほんまにぎょうさん獲れて、わしみたいな年代のもんには、えらいなじみ深い食材なんだけど、最近はあんまり獲れんようになったみたいですな」
檀上で理事長がしゃべっている。
これも前に聞いたことがある話だなと龍樹は頭の片隅で思う。
火曜日、朝八時。
予定では、およそ十分後。
仕掛けがうまく作動すれば、エロ坊主は黒く染まる。
理事長がいま頭上を見上げれば、スーパーマーケットで使用されている買い物籠のようなものに気づくかもしれない。住んでいる団地のゴミ置き場で調達したものだ。
時間が来れば、その中に納まったパンチングボールが破裂するはず――吊るされた重り付きの刃が落ちることによって――重りに結んである凧糸は、吊りバトンを巻きながら舞台上手袖のほうへ――糸は緞帳に隠れた壁に沿ってピンと張ってある――元々、薄暗い場所だし、目立たない。
そして、糸の向かう先だが――土曜日の密かなセッティング中、壁の色が一部分真新しいところを発見したのだ。幅が百センチ、高さ百七十センチくらいの長方形で扉のようだった。つまみらしき部分を手前に引き開けてみる。内部を確認すると、何本かの配管が通っている六十センチほどの奥行きのパイプスペースであることがわかった。配管にある印字から推測するに、暖房時の空調のための加湿の水を供給するもののようだった。給水弁の開閉をすると思しきハンドルには「夏季期間 閉」という表示のタグがあった。つまり、特に今の時期は、点検等の理由でこの扉が開けられてしまう可能性は、ほとんどないということ。
糸を、扉と壁の三ミリほどの隙間からそのスペースへ引き込み、パイプの適当な場所に結ぶ。都合の良いことに、内部にはコンセントもあった。タイマーを差し込み、プラモデル用のモーターの電源コードを繋ぐ。予定の時間になったら、モーターの羽根に取り付けられた刃が、引き入れた糸を切断するように位置の調整――さあ、これで、あとは野となれ山となれ。
予告文のバラまきの反応だが、教師たちが怒り心頭なのは当然として、生徒たちのほうは極めて微妙。
――なんかイタいやつが出てきたな。まあ、ここは基本、スルーで。
こんな感じが大勢。下手に反応すれば大やけど必至、という判断。
まあ、自分が第三者の立場でも、そうするな。
あと、五分弱か。
鼓動が激しくなるのを押さえられない。
目を閉じて、自分に深呼吸を強いた。
「……昔は、それこそ、あんた、獲れすぎて猫の餌にしてもまだ余るよって、ほとんど屑みたいな扱いだったのが、それが今じゃ、下手すりゃ高級魚ですがな。えらい出世したもんや。それはいいんだけど、このイワシ、生きたままの運搬が難しいそうです。生簀みたいなもんに入れといても、生命力が弱くて、すぐ死んでしまうみたいなんです。そうはいっても、漁港から市場まで、なるべく生きのいい状態で運びたい。では、どうするか――ナマズを一匹ね、生簀のなかに放り込んでおくといいらしいんですわ。それは、なぜか――ナマズっちゅうのは、雑食性です。まあ、あの面構え見たらわかりますわな。腹が減ったら、イワシだってパクリと一口でしょう。イワシたちもわかるんやろうね。当然、やつら緊張します。でも、それがいいんですわ。要は、(ああ、捕まっちまった。もうあかんわー)ってシュンとなっとったイワシのやつらが、気ぃ張った状態になって、市場まで生き延びるようになるっちゅうことですわな――うん? なんや」
龍樹はまぶたを開けた。
下手の舞台袖に、銀髪をオールバックにした男が立っていて、身振りで理事長にしきりに何かを伝えようしていた。
教師ではない。たしか理事長の統括秘書の立場にある人物である。
ああ、やはり、ばれたか――龍樹は一瞬で悟った(結局、それは勘違いだったのだが)。
「……ほんま、すんまへんな。ちょっと、中断」
秘書をにらみつけていた理事長は、こちらに向き直ってそう言うと舞台袖のほうに消えた。
生徒たちに特に反応はなく、いつもの弛緩した空気が覆っている。
緊張で固まっているのは龍樹のみ――仕掛けが見つかったのだろうか。仮にそうだとしても、自分の仕業だとすぐには特定できないはず……。
校長が舞台上に出てきて、困惑した様子で演台の後ろに立った。
「えー、理事長は、何か、急なご用事のようなので」
かすかな破裂音を、龍樹はたしかに聞いた。
校長がピクリと反応。
次の瞬間、土砂降りの黒い雨が頭上から――
9
問題の火曜日当日。
朝礼が終わってから、理事長は加持ホールディングスの本社社屋での取締役会へ向かう予定だった。実はそこで、抜き打ちで緊急動議が提出されるはずだったのである。動議は有り体にいえば「加持会長の追放について」。
娘婿であるCEOが周到な根回しと裏工作を行い、そこまでこぎつけたのだ。これ以上グループを会長に私物化されてはかなわない。立場を考えない、品位に欠けた行動も目に余る(一言でいえば女関係。ごく最近も、嫉妬に狂った愛人の一人から硫酸を浴びせられそうになったという噂)。ここは何より、従業員たちの今後を考え、断腸の思いで決断したとのこと。
この娘婿だが、学生時代はラガーマンとして日本代表候補に名を連ねたこともある。同じ大学に通っていた理事長の娘からの、一方的なアプローチで交際が始まった。結婚してもう十五年以上経つというのに、いまだに夫にぞっこんであるらしい。そんなわけで、パパへの裏切り行為も迷いに迷った末容認。
パパも、もうそれなりの年齢だし、高血圧も心配。これを機会に完全に第一線からは退いて、のんびりしてもらうのが結局はパパのためになるのかも――
そんな風に自らを納得させた。
娘婿からしたら、この妻からの同意が勝利を決定づけるトライのはずだった。これで妻名義の株を自分の意のままに出来るのだ。
しかし、やはり勝負はノーサイドの笛を聞くまでわからない。
実はこの元ラガーマン、ここ数年来、胸の大きな秘書のひとりと、割り切った大人の関係を続けており、完全にこちらサイドの人間だと心を許していたのだ。
軽率なことに、クーデター計画もピロートークで隠さず明かしていたらしい。
その秘書から、まさにぎりぎりのタイミングで理事長側に情報が漏れたのだ。
女心の機微は本当に難しい。
このクーデターが成功すれば、もう完全にCEO夫妻の離婚はなく、自分との結婚という選択肢は消失してしまうとでも考えたのか……。
以上のことは、言うまでもなく各メディアを通じて後日知ったのであり、あのときの龍樹は、ずぶ濡れになった校長をただ見つめるばかりだった。
あちこちで上がる女生徒の悲鳴。
校長が両手で顔を覆いながら、よろよろと演台から離れた。
他の教師たちが舞台に姿を現し、恐る恐る天井を見上げている。
――なあ、これって、まさか例の?
――うん? クラウド・キッドとかいったけ。
――あーあ、なんだかなあ……ヤッちまった的な……。
そんな会話の切れ端が、いやでも耳に入ってくる。
明らかな失敗――
仕掛け自体は計画通り作動したので、大成功。
なのに、間違った相手へ矢が命中してしまった。
校長は、中高年向けファッション雑誌のモデルといっても通るような見栄えゆえ、女子生徒でファンを公言する者も多い。
男子生徒たちからも、そう敵意は持たれてはいない。
視線を周囲に向けてみた。
笑顔もあるが、それはみなシニカルな色を帯びている。
体育館内は、何とも言いようのない雰囲気に包まれていった。
朝礼はもちろん中止され、一時限目は自習せよとの御達しがその場でなされた。教師たちは、緊急の職員会議である。
そして、一時限目が終わろうかという頃、校内放送で校長が直々にものものしく宣言した――曰く、犯人は潔く自首せよ。また、今回の件に関し、どんなことでもよいので、情報を知る者は学園に申し出てほしい。このようなことが起きたのは、ただただ悲しく、残念なことである……。。
二時限目以降から通常通り授業は行われたが、放課後の部活は全て中止ということになった。ホームルームで改めて担任から、今回の件について情報提供の要請がなされ、生徒たちは強制的に帰宅の途につかされた。教室から出ても、まっすぐ下足置き場に向かわず廊下でたむろしている生徒も多くいた。見回りをしている体育教官が「油売ってないで、とっとと帰れ!」と声を荒げている。
龍樹は目を伏せたまま、苛立つ体育教官の脇を通り過ぎた。「お前は残れ」と肩に手を置かれるのではと内心びくついていた。
事件発生からある程度時間が経ち、生徒たちには、はしゃいだような空気もあった。しかし、練習計画等の変更を余儀なくされたので、真面目に部活を行っている者たちは怒り心頭だろう。
全てなかったことに出来たらいいのに。
校門を出て歩きながら、心底そう思った。馬鹿げたことに違いないけど、結果的に自分と妹のためになる――
なんでそんな風に考えてしまったのかな。
前方の信号が赤だったので、足を止めた。
と、すぐ隣に大柄な人影が立った。
「大いに笑えたぜ」工藤だった。しわがれた小さな声。「まあ、色んな意味でな」龍樹が見上げたその横顔は、前を見つめたまま。表情がうかがえない。「おれの負けでいいぜ。サチウスはお前のもんだ」
信号が青に変わった。大通りのスクランブル交差点。立ち尽くす龍樹を置き去りにし、広い背中が人ごみにまぎれていった。
*
次の放課後、生徒指導室に呼び出された。
校長以下、学年主任、生活指導担当それに担任の計四人が待ち構えていた。
皆そろって、殺気立った顔つきだった。
「きみかね? やったのは」単刀直入、そう口火を切ったのは校長だ。
リークしたのは工藤本人ではないという確信があった。昨日の工藤の言動から悪意は感じられなかった。
軍団の誰かから洩れたに違いない。「ここだけの話し」というやつが、まさにあっとう間に伝わったのだ。ただ、工藤の怒りは買いたくないから、詳しい事情までは口にしていないはず。現場に残っていた買い物籠等の仕掛けと龍樹を直接結び付けることはできまい。もしかしてこの先、学園側が警察に捜査を依頼するとかの判断をしたら、また話しは別だが。
徹底否認。龍樹は部屋に行く前から腹を決めていた。
「なんで、ぼくが? 何の根拠があって、そんなことを言うんですか?」
「とにかく、そういう情報を、我々は入手しているんだ」
「情報? ただの噂じゃないんですか?」
「火のないところに、煙は立たずというだろう。なんで、そんな噂が立つんだと思う?」
「ぼくを嫌ってるやつがいるんでしょう」
「思い当ることがあるのかね?」
「さあ」龍樹は肩をすくめた。「もしかして、知らぬ間に、誰かを傷つけていたのかもしれない。生きていくって、ほんと難しいです」
「おい!」生活指導が口を挟んできた。「なんだ、その態度は。大体お前、特待生のくせに、いままで全く学園に貢献できてないだろ。そういう自分の立場ってものを、少しは――」
校長は手を挙げ生活指導を制すと、淡々とした口調で話し始めた。「向井くん。きみが真摯に部活の練習に取り組んでいることは承知している。脚の――股関節だったかな――状況が好転することを祈っているよ。学業のほうは、常に上位をキープしているね。きみは、間違いなく善雲の自慢すべき生徒の一人だよ……だから意外なんだ。きみみたいな生徒の名前が噂されているということがね。そこに、かえって信憑性を感じてしまうんだな」いったん言葉を切ると、首をひねる仕草をした。「あの予告文には、学園にお仕置きとか何だかと書いてあったが、裏には別の事情が隠されているのかもしれない」
校長はそう言ってじっと龍樹の目を見た。
もう何も自分から余計なことは口にすまい――龍樹は己に言い聞かせた。
ほどなく、龍樹は解放された。校長たちも結局、決め手がないのでどうしようもないようだった。
「もちろん、我々は今後も調査を続ける。すぐに決定的な証拠も見つかるだろう。だが、犯人には自ら名乗り出てほしいと思っている。そうすれば、こちらの対応も違ってくる」
しめくくりに校長が言った。龍樹は、ただ「そうですか」と応じて部屋を出た。
そしてこの翌日、龍樹個人にとって、大きな出来事があった。
前触れもなしに、母が帰ってきたのだ。詳しくは語らなかったが、友人との会社設立という話は頓挫したらしい。
家庭訪問の問題が片付き、当然サチウスに親戚の振りをしてもらう必要もなくなった。
これはこれでよかったのだが、「おれは一体何のためにあんなことを?」と思わざるを得ない。
虚脱状態に陥っている間に日々は過ぎゆき、次の朝礼を迎えていた。
演台の前に立つ理事長は、いつもに増して機嫌がよさそうだった。
先週の朝礼時、クーデターの情報を入手した理事長は、娘を翻意させ間一髪でそれを食い止めていた。元ラガーマンは、理事長の御慈悲により、子会社に出向という大甘の処分で済んだという。
「おはようございます! 今日もまた、朝から蒸しますなあ――ところで、先生方ちょっとよろしいか? 今開いている扉、全部閉めてほしいんですわ」
報復だ――
誰もがそう思ったに違いない。これで体育館内はサウナのような状態になる。
「――そんで、クーラーの電源もすぐに入れてな。ガンガン最大出力やで。まっ、冷えるまで、ちょい時間掛かるやろうけど、我慢やな」
生徒も教師も、皆とまどった顔を見合わせた。
「誰かさんの言う通り、ケチケチせんとね。あるもんは使わんと。誰だって、暑いのは閉口やから……でも、何とかキッドさんやら、あんまり、おイタが過ぎるのはあきまへんで。ハッハッハッハッ!」
理事長の高笑いに合わせるように、控えめながら歓声や拍手も起きた。
これでは、すでにことは終わっているというのに、テロリストの要求をあっさり呑むようなもの――。
理事長の狙いは、一体何だ?
自分は、こんなにも度量があるんだよということをアピールしたいのだろうか。
あるいは、目的を果たして得意になった犯人が、馬脚を現すとでも考えているのか。
その真意が何であれ、これでは「クラウド・キッド」が生徒の間でヒーロー扱いされかねない。
模倣犯が出現する可能性だってある。
教師たちもおそらく同じようなことを考えているのだろう。舞台のほうへあからさまに怒りの視線を向けている者さえいる。
理事長の腹の内は、教師たちも知らないようだ……。
その真意を疑う者もいたが、大方の生徒が理事長の言葉を素直に受け取った。クーラーの使用が明言された朝礼以降、「イタいやつ」扱いだったクラウド・キッドに対する評価も変わっていた。厄介なことに、その正体についての興味も生徒間で盛り上がってしまった。
――お前、もしかしてクラウド・キッドなの? そんな噂あるみたいだけど。
何度かそう聞かれた。龍樹としては、その都度困惑の体を装うしかない。
ただ、幸いなことに、すぐ目の前に期末試験が迫っている。その後は、全校球技大会に終業式。
そして、みんな楽しみ夏休み……。
二学期を迎えた時点で、「クラウド・キッド」は、少なくとも生徒の間では完全に過去のことになっていた。
結局、学園側から尋問されたのは、夏休み前のあの一度きりだった。
十月の学園祭を終える頃には、当の龍樹にとってもあれは風化しつつあった。
だから突然、校長から呼び止められたときは、動揺を隠すことができなかった。
場所は、校舎裏手の廃材の一時置場。クラスで出した模擬店の後片付けをしているときだった。日はすっかり落ちて、辺りに他に人はいなかった。近くに駐車してある車の一台でクラクションが鳴った。視線を向けると、校長がリアウインドウから手招きしていた。
「やあ、向井くん、元気かい。学園祭は楽しんだ?」
龍樹は、「はあ」と口ごもりながらうなずいた。
「ところで、話しは全く変わるが」校長は無理に笑ったような表情で続けた。「きみの龍樹という名なんだが、その由来とかをご両親から聞いたことは?」
「由来、ですか?」龍樹はいぶかしく思いながら言った「親父がこの名に決めたらしいんですが、結構しょうもない理由ですよ。ルージュっていうロックバンドが好きだったんで、それで漢字を決めて、読みのほうはそれじゃあんまりだっていうんで、タツキにしたんです」
実は「ルージュ」というのは、父がかって所属していたバンドの名前である。一応、メジャーデビューをしているが、鳴かず飛ばずで結局自然消滅――でも父にとっては、それなりの思い入れがあったのであろう。目の前の相手に、そこまで説明する気にはならなかった。
「そうか」校長は笑顔を消し、ひどく疲れた様子で続けた。「では、お父さんに感謝するんだな……。その名前だから、今回きみは、命拾いできたといってもいい」
言い終えると、校長は顔をそむけてリアウインドウを上げた。すぐにエンジン音が響き、車は滑るように発進していった。
まさに狐につままれた思いで、龍樹はその場に立ち尽くしていた。
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