第2話 Ⅰ夜の樹
1
木陰から出た瞬間、土曜の午後の日差しが容赦なく肌に突き刺さる。
目の前を一年生男子の集団が走り抜けていく。
「なあ。紀瀬の走りって、やっぱタツキにそっくりだよな。背格好も同じくらいだし」
後ろから部長が話しかけてきた。
いや、元部長か。
今年も我が善雲学園高校陸上競技部は、誰一人インターハイ全国大会に進めずという結果だった。したがって三年生は皆、実質的に引退状態だ。有志のみがこうして後輩たちの練習につき合っている。
「言うほどそっくりってことはないだろ」
低い声で応じたが、確かにそうかもしれないと向井龍樹は改めて思う。
もっとも、現在の自分の走りではない。あくまでも過去の、この身体が故障する前の走りだ。
今一年生が命じられている練習は、百メートル十八秒のペースで三千メートルを走り切れというものだ。全周三百メートルのトラックなので、一周のラップタイムは五十四秒。それより早すぎても遅すぎてもいけない。
とにかく、そのペースを体で覚えろというのが顧問の指示だった。三年生三人が、数周ずつ順番でペースメーカーを引き受けることになり、龍樹は最後の三周を担うことになった。
序盤は楽々と走っているように見えていた一年生たちだが、集団は細長い形にばらけつつあった。
ある程度の練習スケジュールをこなした後に、三千メートルを九分ジャストのペースで走り切れというのは、実のところかなりきつい。
そのなかで当の紀瀬だけは、疲れ知らずのようだ。
身長は百七十センチそこそこ。だが地面を蹴っていくストライドは、驚くほどの伸びがある。それでいて上下動はほとんどなく、流れるようフォームを維持していた。
「ほい、頼むぜ。吉田がそろそろ戻ってくる。バトンタッチな」
元部長がストップウォッチを放ってきた。それを片手にラップタイムを気にしつつ、一年生たちを先導しなければならない。
「オッケイ」
スタート地点に移動する。
やれやれ、吉田のやつ。あんなに苦しそうな顔しやがって。最上級生の威厳、まるでなし。もはや現役ランナーとはいえないにせよ、最近不摂生が過ぎるんじゃないか――。
「やっべえ、吐きそう! あと、よろしく!」
ゴールするなり、思い切りこちらの背中を叩いてきた。
「痛えな! こいつ!」
笑いながら走り出そうとすると、紀瀬と視線が合った。不自然なくらいの無表情だった。
二周目の第一コーナー。
紀瀬の走りが明らかに変化した。
一周目では少し距離を開け、こちらのペースに素直に合わせてくる風だった。それが煽るかのごとく、ぐっと身体を寄せてくる。
龍樹のスピードが落ちているわけではない。百メートル十八秒のラップは継続している。
コーナーを抜け直線に入った。
紀瀬は横に並ぶや否や、一気に龍樹の前へ出た。
もはや決められたペースなど全く意に介さず、これではまるで大会決勝のラストスパートの
ような走りっぷりだ。
スパイクから蹴りだされた土くれが、こちらの身体を打つ。
――この野郎!
しかし、脚がついていかない。
どんどん離されていく。
この条件で一年生に負けるのか。
叫び出したくなった。
あごを引き、思い切り上半身を傾け、必死に大きく腕を振る。
腰の位置は落とさず、膝は思いっきり上に突きだす。
ストライドが伸び、徐々にピッチも上がった。
紀瀬との差が詰まっていく。
ああ、気持ちいいな。
これが、本当の、おれの走りだ。
直線が終わり、第三コーナーへ。アウトから一気に抜き返しに掛かる。
なめた真似も、ここまでだ。
紀瀬の前に出た。背後から聞こえる、荒い呼吸音。
さてはポーカーフェイスを脱ぎ捨てたか。振り返って、その表情を確認したい気もする。
だけど、たいしたもんだ。
思ったほど差が広がらない。
元部長の姿が視界に入る。心配げな様子だ。
笑って小さく手を振り、通過。
と、その瞬間、それがきた。
あまりにおなじみの、この痛み。股関節のあたり。
ちょうど、ラスト一周か。
龍樹は苦笑いしたくなる。
もしかしたら、これが生涯最後の本気の走りになるかもな……。
*
「バテてるのはわかるけど、すぐ地面に座り込むなー」元部長が次々とゴールしてくる一年生たちに呼びかける。「ウォーキング続けて、クールダウンだぞー」
紀瀬はすでに木陰に入り、タオルで汗を拭いている。少し離れて、吉田が少々不穏な目つきをそちらに向けていた。
元部長は、紀瀬にぶらぶら歩み寄ると話しかけた。
「なあ、紀瀬。練習の意図を無視したらあかんよ」
「はあ、すみません」紀瀬はあいまいに頭を下げ、ぼそぼそと続けた。「走ってるうちに、何というか、抑えきれなくなって」
「そっか。まっ、しゃあない。ランナーの本能ってやつだな」
「おい、おい!」吉田が口を開く。「そんなんでまとめちゃっていいのかよ。明らかに悪意を感じたんですけど。こいつ、向井の状態のことを知ってて、よくもあんな――」
龍樹はたまらず割って入る。
「よせって、吉田」
悪意、とは少し違うのだと思う。むしろ周囲がずっと無神経だったのだ。
紀瀬の気持ちは、何となくわかる気がする。
龍樹の走り方と似ていると、三年生たちから何度も聞かされたのだろう。話しかける側としては、あくまで軽い気持ちで。
しかし、龍樹は一年生の秋に故障し、上を目指す競技者としては結局復活できなかったのだ。故障の原因は、そのフォームにあると診断された。なまじストライドが伸び過ぎる故、股関節に負荷が掛かり、どうしても筋肉を傷つけてしまうことになるのだ。
紀瀬からしたら、気分のいいわけがない。
自分は、あんたとは違う。最後に、その目によく焼き付けておけ。そんな思いがあったのかもしれない。
紀瀬。
お前は、おれとは全然違う。
その流れるような美しいフォーム。おれはもっと無骨な走りだったからな。
大丈夫。お前は心配ないさ。
機会を改め、きちんとそう言ってやらねば。
気まずげに歩き去っていく後輩の背中を見送りながら、龍樹は決心した。
と、不快なノイズ音を合図に、校内放送が響いてきた。
『三年二組 ムカイ タツキクン 至急 職員室へ――』
一拍置いて、自分の名が呼ばれていることに気がついた。
クラス担任の石崎の声だ。
『繰り返します。三年二組の向井龍樹君は至急――』
立ちすくむ龍樹を周りの部員たちが見ていた。
「何なんだろうな。部活中に呼び出すなんて」元部長が言った。
龍樹はただ肩をすくめる。
こっちが訊きたいよ。
2
急いで汗を拭き、ジャージを羽織って廊下を進む。
こんな風に呼び出されるなんて、ろくでもないことに決まってる。
家のほうで、何か起こったのか。
もしかして妹の,麻巳子のことで何か――
不安な気持ちを押し殺し、職員室の戸をガラリと開け「三年二組、向井龍樹、入ります!」と声を張り上げた。それが入室のルールだった。
「おう、向井……悪いな。部活中のところ」
担任の石崎があわてた様子でこちらに近づいてきた。自分で呼びつけておきながら、どこかとまどうような顔つきだ。
「えーと、うん、実はなあ」
「ぼくの家のほうで、何かあったんですか?」
龍樹は焦れて問うた。
「違う、違う、違う!」石崎は目を丸くして、顔の前で手のひらを横に振った。「えーと、実は、校長先生がお呼びなんだよ」
「校長が? 一体何の用事でしょう?」
「さあ。わたしも詳しいことは」
石崎は口ごもり、目をそらした。
龍樹は、ここでふと気づく。
職員室にいる教師たちが、皆こちらの様子をうかがっていた。
それらの視線に含まれているのは、ただの好奇心ではない。怒り、あるいは嫌悪といった明らかに負の感情。
龍樹は思わず後ずさりしそうになった。
「まっ、とにかくだ」石崎は口元だけで笑ってみせて言った。「すぐ校長室に行ってみてくれ」
家に関係したことでなかったのは、よかった。
が、校長からの直々の呼び出しに加え、あの職員室の雰囲気。
足取りはどうしても重くなる。
階段を上り終えると目的の部屋が視界に入った。ドアは開いたままだ。
――何かわたしに直接言いたいことがあって、勇気を振り絞り校長室まで来たはいいけど、いざドアをノックする段になり躊躇してしまう生徒もいることでしょう。だから常にドアは開けておきます。わたしのほうから「どうしたの?」と声をかけるために。わたしがちょっと席を外している時でも、ドアは開けておくから、遠慮しないで中に入って待っていればいい……。
折に触れて聞かされる、まことにありがたい校長のお言葉を思い返しながら、部屋の前までゆっくり歩を進める。
こちらに背を向けて立ち、窓の外を眺めている校長の姿が目に入った。その頭上に「仏心円満」と書かれた額が掛かっている。
「どうぞ、入って」躊躇していると、背を向けたままおなじみのバリトンボイスで突然言った。「ドアは閉めてください」
気配で察したのか?
龍樹は恐る恐る部屋の中に足を踏み入れた。
わかった、窓か――龍樹は気づく。
それを鏡代わりに、こちらの様子をじっと観察している。
「そちらへ、座って」
ようやく振り向いた校長が、応接セットのほうに手を振った。
引き締まった長身に浅黒い肌。
普段は若々しく、到底五十歳近い年齢には見えない顔つきだが、いまはどんよりと生気をなくしていた。
先に腰を下ろした龍樹へ、校長はA4サイズ程度の紙を一枚差し出してきた。
「今日、こんなものが、この部屋に置かれてあった」
太字で文章が印字されてある。冒頭の英文が目に入った瞬間、息が止まった。
『 School`s Out !
学校はもうすぐオシマイ
みんな楽しみ夏休み
教師と教科書、放り出せ!
校則全てハイキ済み
ハレて秋まで自由の身
でも、何だかちょっと物足りナイ
これで終わりじゃツマラナイ
今年も起こすぜ、大騒ぎ
Cloud Kidにおまかせあれ!
🌤 🌤 🌤
というわけで、校長先生。今年もひと仕事ヤラかします。
何をやるかは秘密だよ。
ヒント! 先日、生物室の水槽のお魚たちが、み~んな死んでたそうですね。原因は一体、何だったのかなあ……
🌤 🌤 🌤
School`s Out !
学校はもうすぐオシマイ
永遠にオシマイ ? 』
「嘘だろ」
読み終え、止めていた息とともに思わず言葉がもれた。
「向井くん」正面に座った校長が口を開いた。「頼むから正直に答えてくれ。これは一体、どういうことだ?」
「なぜ、ぼくに訊くんですか?」
「それはね」校長は、聞き分けの悪い子どもに言い聞かせるような口調で答えた。「他の誰でもない、きみが〈クラウド・キッド〉だからだよ」
3
「……違います」
龍樹は目を伏せたまま弱々しく抗弁した。
「たしかに、去年我々は、決定的な証拠はつかめなかった」校長がこちらに身を乗り出してきた気配があった。「疑わしきは罰せずだ。何より、理事長の御慈悲のおかげで、きみは何のペナルティも受けずに済んだんだ。しかし、これはまた」一瞬の絶句の後、続ける。「どういうことだ? 恩を仇で返すようなものじゃないか」
「待ってください」龍樹は勇を振るって顔を上げる。「一年前のことはさておき、この紙のことは、本当に何も知りません」
校長はこちらの目をじっと見つめる。
「じゃあ、何か」気まずい沈黙の後、校長がようやく口を開いた。「いわゆる模倣犯ってやつなのか? それをここに置いていったのは」
「とにかく、ぼくじゃありません」
「ふん!」上体を起こすと、校長は背もたれにどしんと身を預けた。「ならば、証明したまえ。きみではないという証明を」
「そんな」
「理不尽な、とでも言いたいのか」校長はまぶたを半ば閉じながら言う。「だが、実際のところ、どうなんだ? たとえその予告文についてはきみじゃないにしても、いうなれば向井くんは、初代クラウド・キッドじゃないか。何らかの情報を耳にしている可能性は十分ある」いったん言葉を切ると、校長は目を見開き続けた。「さあ、知っていることは隠さずにすべて話すんだ」
〈今年はおれがやってやるよ。お前とは違うやり方で、みんなを笑わせてやる。おれを止めることができたなら、向井、お前の勝ちだ。もう、あの女には、手を出さない……〉
あいつはおれを見下ろし、彫の深い顔にいつもの物憂げな表情を浮かべて言ったのだ。
でも、これを書いたのは本当にあいつなのだろうか。どうもしっくりこない。何より、この「ヒント」とやらが示唆するもの――とてもじゃないが笑えない。
あるいは、学園側の目を誤った方向に向けさせることが目的か。ただ、そんな小細工を弄すること自体が全くあいつらしくない。
もし仮に、これがあいつの仕業だとしても、今この場でその名を告げて止めさせることが、果たしておれの「勝ち」になるのか。
校長は腕組みのままこちらを凝視している。
やはり、言えない。
龍樹は腹をくくった。「本当に何も知らないんです」
いらだちを隠そうともせず、校長が威圧的な口調で言う。
「信じられないな。誰かをかばっているのかね?」
「誰もかばっていません」
「じゃあ、参考に意見だけでも聞かせてくれ」校長は投げやりな口調で、龍樹の手元の紙を指さし、「それを書いたやつは、学校の受水漕に毒でも投げ込むつもりなのだろうか?」
「さあ」
「むろん生徒が、受水槽の点検口をたやすく開けられるはずもない。専用の鍵を使用しなければ不可能だ」
「水回りは安全だとしても」達樹は質問してみる。「学食で出される料理に何かを混入されるとかは?」
「きみも当然知っているだろうが、ここの学食のメニューは、全て外部の調理工場から納入された調理済みのものだ。したがって厨房でやる作業は過熱と盛り付けくらいだね」
「その一連の過程で、部外者が料理に近づける可能性はないと?」
「ああ、これは別に隠していることではないが」校長は渋い顔で、「過去に料理に虫が混入していたということがあってね。あの時は本当にうんざりだったよ。こちらと調理工場との間で延々と責任のなすりつけあいさ……。まあ、そんなことがあったので、厨房で働いている人たちは非常に気を配っている。虫一匹近づくのさえ、神経を尖らせているんだから、不審者なんか言うまでもない。しかも厨房内には監視カメラも設置しているしね」
「なるほど。ところで」質問を重ねる。「生物室の水槽の魚が死んでいたというのは、事実なんでしょうか?」
「生物の小林先生が言うには、たしかに十日ほど前、水槽の魚が全滅していたそうだ。その時点では濾過装置の一時的なトラブルによる水質の悪化だろうと判断し、すぐに水槽はきれいに洗ってしまったらしい。だから今になっては、毒物の混入があったかどうかについては、何とも言えないのだ。普段、生物室の扉には、鍵を掛けていないとのことだが……」
校長は不愉快そうに口元を曲げた。本人に八つ当たりしたに違いない。
どことなくテディベアを連想させる小林教諭の温厚そうな風貌を思い浮かべ、龍樹は内心同情した。
「ということは、そもそも毒物なんか使用されてなくて、たまたま水槽の魚が全滅したことを知ったこの予告文の送り主が、不安を煽るために――」
「なあ、いいか」校長は龍樹の言葉を途中でさえぎった。「わたしがそういった可能性を考えなかったとでも」
「すみません……じゃあ、もしかして、化学室とかから、何か劇薬のたぐいが盗まれているとか」
「もしそうだったら、こんな悠長なことはしていない。躊躇なく警察に捜査を依頼している」いっそ、そうであったらよかったのにと言わんばかりの口ぶりだ。「ただ、そういう事実がないからといって、単なる悪ふざけとも決めつけられんだろう。理事長も、現段階では大ごとにはするなというお考えだが」校長は頭を抱えんばかりの様子で、「ああ、要は目的だよ。こいつの目的……たしか、去年のきみの犯行予告文には、学校に対する不満が具体的に書いてあったよな?」
龍樹はただ困ったような笑みを浮かべて見せた。
「きみと同じように、生徒からの拍手喝さいを浴びてヒーローを気取りたいのなら、その矛先は具体的にどこへ向くのだろう? 今、ちょっと思いつくところでは、カフェテリアをつぶせ、もしくは生徒にも利用させろというような要求が、最近あるようだが……」
半年前に学食の四分の一ほどを壁で区切って、オープンしたカフェテリア。学食の方は昼のみだが、こちらは終日の営業だ。メニューも学食とは差別化されており、少々グレードが高い。だが利用できるのは教職員と来客者のみ。学食の席数が減ったので、当然昼食時の混雑はいっそう激しくなった。生徒たちからしたら、不満がつのるばかりである。
〈せめてカフェテリアの利用を認めろだと。生徒の分際で、ゆっくりくつろぎたいとは百年早いわ! そんな暇があるなら勉強か、部活にせいぜい励め! 水分補給なら、ウォータークーラーで十分だろうが〉
そう言い放ち、ただでさえ怒り心頭の生徒たちの神経を逆なでした体育教官がいた。
「受水槽や厨房には手を出せないにせよ、意趣返しで校内各所のウォータークーラーには何か細工される可能性が……全て使用禁止にしたほうがいいのだろうか」
校長が、独り言のようにつぶやいた。件の体育教官の言動について、耳に入っていたのかもしれない。
「でも、矛盾していませんか?」
龍樹の言葉に校長は片方の眉を上げてみせた。
「ヒーローを気取りたいのなら、生徒に危害が及んでしまうような真似はしないと思うんですが」
「ああ、たしかにな」校長は肩をすくめ、「あるいは、学園生活そのものに鬱屈を抱えていて、何でもいいから騒ぎを起こすことが目的なのかもしれない」
「鬱屈を抱えて――いじめとかですか?」
「はて。まさか、この学園内にいじめが存在しているのかね?」校長が顔を覗き込んでくる。「思い当ることがあるのなら教えてほしい。きみの知る範囲で、現在追い詰められているような生徒とかいるのかな?」
「いえ」
龍樹は首を横に振る。
あいつが鬱屈を抱えているのは間違いない。しかし言うまでもなく、あいつは追い詰める側の人間である。
話題をそらすために口を開く。
「ふと思ったんですが、これから控えている大きな行事といえば、もちろん再来週の期末試験です。そのあとに球技大会もありますけど」
「それらを、中止に追い込むのが狙いだと言いたいのだろうが」校長はつまらなそうに後を引き取った。「だったら、当日の早朝にでも、校内に爆弾を仕掛けたとか電話してくるのが一番有効なことは、馬鹿でもわかる。わざわざ、いまから、こんな」手を伸ばし龍樹から紙片を取り上げる。「くだらない予告文など、危険を冒して置きにこないだろう」紙片を灰皿の上でビリビリに破き始めた。「ふん。これはコピーだよ。現物はもちろん保存してある。犯人が指紋を残しているとも思えないが」
「今日、置いてあったんですか?」
「ああ。だけど朝から色々忙しくてね。何だかんだで、この部屋でろくに腰を落ち着ける暇がなかった。わたしがちょうど不在の時を狙って、おそらく机の上にでも置いたのだろう。が、ペラ一枚だからな。窓を少し開けていたので、風か何かで飛ばされたに違いない。部屋の隅に落ちていたのを気づいて、わたしが拾い上げたのが、今からそうだな、一時間半ほど前だ。だから、いつ頃犯人がやってきたのか、細かい特定は無理なんだ。おおよそ朝の七時半くらいから午後二時の間であるということだけは言えるが。とにかく急遽、先生たちを集め対応を協議したよ。ざっと校内を見て回ったが、不審なチラシのバラまきや張り紙等はなかったようだ。その後、きみが部活中でまだ校内にいるようだという話しになり、何はともあれ尋問してみようということになってね」
「はあ」
「去年、あんなことをやらかしているのに、先生たちのきみに対する評判は悪くない――いや、というか、かなり良い。だから、みんな、とても驚いている。憤る人や悲しむ人、様々だ」
校長の言葉を聞きながら、何となく窓のほうへ視線を向けた。まだ強い日差しに一瞬雲が掛かり、影が横切った。
龍樹は衝動的に立ち上がっていた。
「……認めます」驚いている校長に頭を下げた。「去年のことは、たしかにぼくがやりました。本当に申し訳ありませんでした。それに対してのいかなる処分も受けます。だけど、これは」頭を上げ、灰皿の中の紙クズを指さした。「ぼくじゃない」
「そうか」校長が静かに言った。「ようやく自白してくれたか。とはいえだ。一年前の事件直後の理事長の言動を鑑みても、今さらきみを犯人だと公表して、何らかの処分を科したところで、学園側に特にメリットはないな。だから、とりあえずはわたしだけの腹に収めておくことにする」
「ありがとうございます」もう一度頭を下げる。「で、今回の件ですが、ぼくじゃないことを証明しろというお話しでしたね。少し時間を頂けませんか?」
「具体的にどう証明する? これを書いた犯人を突き止めるということか?」
「まあ、とにかく」龍樹は明言を避ける。「自分なりに出来る範囲で探ってみます。生徒間で、何か噂が伝わっていないかどうかとか」
「そうか」校長は龍樹を見上げながら言った。「だが、くれぐれも慎重にな。きみの行動によって、かえっておかしな噂が広まってしまうのはまずい。当然、この予告文の具体的な内容は絶対にもらしてはならん」
「自分から余計な情報を明かさないよう、十分に注意します」
校長が満足げにうなずいた。「よろしい。だが、時間の余裕はそうないよ」
「はい。すぐにでも取り掛かるつもりです」
そう言って部屋を出ようとしたが、呼び止められた。「ああ、最後にひとつ、いいかな?」
龍樹が振り返る。
「改めて訊くが、きみはなぜ一年前、あんなことをやったのだろう?」校長が所在なさ気に文鎮をいじりながら言った。
「だからそれは、去年の予告文にあった通り――」
言いかけたが、校長は首を横に振り黙らせた。
「裏に何か別の事情があったはずだ。きみは自分からわざわざ好きこのんで、あんなことをやる人間じゃないだろう」校長は淡々とした口調で続ける。「工藤くんが絡んでいたのでは?」
龍樹は小首を傾げ、「工藤、ですか?」と応じた。
校長はこちらを見透かすような目つきで言う。
「もしかして、今回のこれも彼が関わっているとか?」
龍樹はとまどったような体をしてみせた。
「まあ、いい」校長は、もう行ってよいという風に手を振る。「きみの約束は信じているし、結果も期待しているからな」
あいつ――工藤は、学園側からしたら、いわばモリアティー教授かジョーカーのような存在なのだろう。何か問題が起きれば、真っ先に関与を疑われる。学園側が被害妄想に陥り、勝手なイメージを膨らませているきらいがある。まあ、自業自得と言ってしまえば、それまでなのかもしれないが。
ただ今回に関しては……。
4
陸上部の仲間には、適当な説明をねつ造する。
――親戚に不幸があったみたいでさ。そんなわけで、今日はもう上がらせてもらうよ。
まだ四時前だ。
制服に着替え、こっそりと文芸部の部室に向かう。扉の前に立ち、中の様子をうかがった。男女の会話の断片が漏れ聞こえてくる。立てつけの悪い曇りガラスの窓の隙間に、顔を近づけてみた。肩を寄せ合っているカップルが一組、それと付けまつ毛に苦戦中の女子――計三人。
付けまつ毛の子に気づかれた。
ノックは省略、いきなり扉を開けることにした。
「工藤は?」
機先を制するためにまず言った。
「ああ?」顔をしかめて、男が立ち上がった。たしか同じ三年生である。「なに? なんなの、お前?」
「工藤にちょっと用事があるんだ」
「だから、なんなの、お前?」
男が近づいてくる。後ろ髪を伸ばしたヘアースタイルと相まって、若い頃のロッド・スチュアートに似ていなくもない。なかなかの二枚目だ。そう口にしたところで、当人はポカンとするだけだろうが。
「三年二組の向井だよ。こんなふうに相対するのは、去年の屋上での一件以来かな。覚えてないかい? あの時、おれはあやうく殺されかけたっけ。まあ、それが原因というわけじゃないんだろうが、あの少しあとで、屋上が完全に出入り禁止になって、ここがきみらのたまり場になったんだね。でも、文芸部からしたら、ほんといい迷惑だな。図書室に追いやられて」
「あたしだって、一応文芸部員なんだよ。ちゃんと手続きして入部したんだし」
付けまつ毛の子が可愛らしくにらんでくる。
「こら、てめえ」ロッドが、鼻先が触れ合わんばかりに顔を寄せてくる。こちらは可愛げがまったくない。「調子こいてんじゃねえぞ」
「別に、調子こいてるつもりはないけど」
「もしかして、お前、ノブナガくんとー」工藤の下の名前を言う。「友だちのつもりでいるわけ? その勘違い、マジで受ける」
「友だちだったら、アカウントとかも当然知ってるはずだし、わざわざここに来ないさ」
「ノブくん、あたしらにもそういうの教えてくれないよー」まつ毛の子が一段と高い声を出す。「ここしばらく、学校にも来てないし。何、やってんだろうねー」
「おう! 余計なこと言うんじゃねえって! 黙ってろ、このバカ女!」ロッドが振り向いて言った。
「バカ女って、何?」もう一人の女の子が初めて口を開いた。「そういう言い方ってないんじゃない……ミサコに謝ってよ」
「いや、だから、それは」
「アハ、気にしてないよ――」まつ毛の子が幸せそうな笑顔で言う。「あたし、実際バカだし」
「そんなことないって。あたし、ミサミサに何回も救われてるよ」
「また、また―。それ、ちょい大げさじゃね?」
「ぜんぜん、大げさじゃないって。あたし、ミサミサだけには、ウソつきたくないもん――」
会話が続いていき、女の子二人は自分たちだけの世界に入る。
「なあ」ロッドがげんなりした顔つきでこちらに向き直った。「とにかくノブナガくんはいねえよ。頼むから、とっとと消えてくれ」
「わかった」龍樹は肩をすくめ、「ちなみに大黒は?」
「知るかよ。あんなポチ野郎のことなんか」
扉の外に押し出された。
5
さて、どうしたものか?
ついさっき校長に大口をたたいておきながら、もうあっさりと袋小路である。
真夏の太陽はまだ一向に沈む気配がない。
陸上部の仲間たちに見つからぬよう、こっそり学校を出た。
このまま帰宅する気にはなれない。人目につかぬ場所で今後のことをじっくり検討したかったので、校舎裏手の加々見川のほうに向かう。サイクリングコースになっている土手を越え、川原に降りた。
丈の高い夏草をかき分けていると、三十メートルほど先の中空に浮かぶ物体がいくつか見えた。ドローンではなく、たぶんラジコンだ。リモコンを操作しているのは、我が校の男子生徒たちであるようだ。こちらに背を向け、四人で仲良く肩を並べ嬌声を上げている。
どうやら操作の腕前を競っているようだ。地面に置かれた目標物の缶になるべく近づけ、着陸させようとしている。最近、小中学生を中心に大流行している蝶などの虫をかたどったラジコンだ。従来なかった特許技術が使用されているとかで、虫の飛翔のような儚さを再現できるのが特徴であるらしい。
ただ操作自体がかなり難しく、それが逆に人気を呼ぶ要因になっていた。今は品薄状況で、どうしても手に入れたい子どもがカツアゲ事件を起こしたりして、ちょっとした社会問題にもなっている。
なんとなく気づかれたくなかったので、この場から離れることにした。
慎重に草の間を進んでいると突然、「やっと、手伝ってくれる気になったかい? 全くきみたちときたら、ラジコンなんかで遊んでばかりで――」と声がした。
思わず足が止まる。
右手の川べりのほうからだった。顔を向けると白衣を着た小太りの中年男がいた。網とバケツを手にしている。
草の間から、お互いびっくりした表情を見合わせる。
生物の小林教諭だった。
「えっ? あれ?」と目を白黒させている。
「彼らは、生物部の生徒なんですね?」
龍樹は振り向いた方向を指さす。
「うん? ああ、そうだけど」
「今日の活動は、川魚の採取ですか」口にして気がついた。「生物室の水槽の魚が全滅したから,替わりの魚を――」
たしかあの大きな水槽の上の壁に、『加々見川の住人達』というタイトルで各種小魚を描いた達者なイラストと説明が書いてある紙が貼ってあった。水槽にはそれらの魚たちが生息していたはずだ。
「すでに生物室の水槽には、ほぼ以前通りそろっているんだよ」小林教諭が、どこか気まずげに応じた。「でも、まだ捕獲できてない種類があって」
「そうですか」龍樹は愛想よく言った。ここでこの人物に会えたのは僥倖かもしれない。「ところで、三年二組の向井です。一年の時、先生から教わっていました」
「覚えてるよ。向井くん」小林教諭はうなずき、立ち去ろうとする。「じゃあ、ぼくはこれで」
「何だったら、魚捕まえるの、手伝いますよ」足を止めた小林教諭に急いで言う。「あっ、別に、水槽に毒を入れたから、その罪滅ぼしってわけじゃない。ぼくは無実です。例の犯行予告文のことは、もうご存知なんですよね」
小林教諭は探るような表情をこちらに向けた。
「もしかして、それを言いたくて、わざわざここへ来た?」
「いや、ここに来て、先生に会ったのはただの偶然です。ついさっき、校長から、今回の犯行予告文について尋問を受けて、動揺しちゃって。だから一人になりたかったんです」
「そう」
二人で何となく、生物部員のほうを眺める。飽かずに新しい勝負に入るらしい。手元に各々の飛行物体を呼び戻していた。そのリモート操作に関しては、比較的容易にできるようだ。
「別に向井くんのことは疑っていないよ」小林教諭が口を開いた。「あの予告文は、一見去年のものを踏襲してるけど、何というか、とても陰湿で嫌な感じがする」
「ただのいたずらであることを願いたいですね。ところで」さりげない口調で続ける。「生物室って、普段は施錠してないんですか?」
「してないよ。化学室とは違って、劇薬のたぐいは何も置いてないからね」
「そうですか。だけど、一週間ほど前の放課後に訪ねたとき、誰もいなくて施錠されていましたが」
「ふーん。ちなみに、一体、何の用事があったの?」
「加々見川クリーンフェスタの申し込みですよ。先生、参加希望者の集計をなさってますよね?」
「うん、なさってるよ。じゃあ、了解。今たしかに受け付けました。でも、三年生で参加するなんて、ほんとえらいね」
「妹が一緒に参加したがってるんです。まだ小学生なんですけど。まあ、クリーンフェスタは置いといて、生物室の施錠の件ですが」
「そりゃ、施錠するときもあるさ。彼らが」生物部員のほうへ顎をしゃくる。「貴重品とか置いて、屋外活動する場合とか」
「なるほど。例えば、今みたいな」
「いや。今は特に施錠してない。彼らにとっての貴重品――つまりラジコンそのもので遊んでいるわけだから」
「仮に誰かが水槽へ毒を投げ入れたとして、意外とその機会って限られているのかなと思ったりしたものですから。鍵は、もちろん先生ご自身が管理されてるんですよね?」
「そうだけど」小林教諭は笑みを浮かべながら、「残念だが、向井探偵。そこから犯人を特定していくのは無理だと思う。普段はほんとに鍵なんか閉めてないから、誰でもスルー状態。まあ、今まではね。校長から怒られちゃったから、今後は気を付けないとなあ」
「大事な魚たちを殺されたのに――いや、もしかしたら、設備的なトラブルだったのかもしれないですけど――そのうえ怒られるなんて、ほんと災難ですよね」
「うん。そうね」小林教諭がまた気まずげな表情になる。「まあ、仕方ないよ。じゃあ、魚採りに戻るよ。手伝ってくれなくて、大丈夫だから。その気持ちだけで十分」
教諭が川のほうに歩いていくのを見送っているとポケットの中でスマホが振動した。手に取ってみると、着信あり。送信元を確認して、しばしの間とまどう。「ポチ野郎」こと工藤の腰巾着、大黒からだった。一年生の時、アカウントの交換をしていたのを、すっかり失念していた。
〈今ゲーセンにいるから、話があるんだったらマジ即行で来い〉
ずいぶんと上から目線である。
ロッドくんが、先ほどの訪問の件を伝えてくれたということか。後々何か文句を言われないため、そうしたほうがいいと判断したのだろう。はたして工藤本人が待っているのか――
ともあれ仰せの通り、至急駅に向かうことにする。早歩きなら約十二、三分。指定のゲームセンターは、駅に直結する大型商業施設の中にあった。
6
ゲームセンターの中をひと通り探したが、工藤はおろか大黒の姿も見当たらない。
〈今到着した〉と送信して、このまましばらく待つことにする。からかわれて無駄足を踏まされたのかもしれない。別に、それならそれでいい。
時間つぶしに、ゲームをプレイする気は起きなかった。テレビゲームのたぐいには、どうにも興味が持てないのだ。そうはいっても、小中学生の頃はつき合いもあるので興味がある振りはしていた。高校に入ってからは、そういった気遣いも放棄した。
基本的に、自分はひどくずぼらなのだ。寝転がったままページをめくるだけでOKな読書がいい――
とはいえ、この場で文庫本を取り出す気には、さすがになれない。適当なゲームを物色する体で、ぶらぶら歩きまわる。
と、奥のほうの一角にピンボール台が並んでいた。人も全くいない。これなら、いささか自信がないではない。あまり無駄遣いができる身分ではないが一丁やってみるか――
*
最後の球があっさり隙間をすり抜けていく。
これほど、腕が落ちていたとは……。
隣の台でプレイし始めたデンバーナゲッツのキャップを被った同年代の男が、嘲るような一瞥を寄越した。つまらぬ挑発は受け流し、この場から退散することにする。
振り返るとそばに大黒が立っていた。お粗末なプレイ振りを、じっと見物していたのだろうか。
「よお、工藤は?」とまず訊いた。
大黒は、まるで遥か遠くのものを眺めるかのように目を細め、こちらを少しの間観察してから口を開いた。
「いねえよ」
たぶん、自分では渋いと思っているのだろう。わざとらしいしゃがれ声だった。
いらつきはしたが、一方で工藤がいないことには少しほっとしていた。
「で?」大黒が言葉を継いだ。
「工藤、夏休み前に何かやらかす気だろ? おれ、直接宣言されたから知ってるんだ。止めてみろって挑戦された。あいつ、具体的に何をするつもりなんだ?」
大黒は何も言わず、あごを突き出していっそう目を細める。本人は精一杯威圧しているつもりなのだろう。しかし、そうすると目の周囲に細かいしわがたくさん寄り、元々老け顔なので、おじいさんが新聞を読んでいるときのようだ。
こんなやつじゃ、なかったのにな。
出会った頃のことを思う。
「ふーん」大黒がようやく言う。「ノブくん、何かやらかすんだ? そうなんだ。ふーん」
「大黒が、知らないはずないだろ。だって――」どういう反応するがわからないが言ってみる。「工藤の右腕だもんな」
「フッ」
鼻で笑ってみせた。どうやら、悪い気はしていないようだ。相変わらず、目は細めたままである。
ふと、気づく。
こいつ、もしかして工藤の表情を真似ているのか――はたして、意図的か無意識なのかはわからないが。
「知ってたとして、おれがしゃべると思うか?」
「工藤には内緒で、こっそり教えてくれない? かっては一緒に汗を流した陸上部の仲間じゃないか」
あえて冗談めかした口調で言ってみると、細めていた目を大きく見開いた。
「てめえ! なめてんのかよ!」
一歩踏み出してくる。
と、次の瞬間、隣の台でプレイしていたキャップの男が「ポウッ!」といったような奇声を発した。
驚いてそちらを見ると、男は台からぎこちなく後ずさりして離れていく。腕と腰をくねらせながら、時折手のひらで股間の辺りを押さえ、「ポウッ!」と奇声を入れてくる。
もしかして、マイケル・ジャヤクソンのダンスのつもりか?
男はピタリと動作を止めると、龍樹に人差し指を向けた。
「ヘイ、ビービー。こいつ、やっちゃっていい?」
ビービー? ああ、BBか。
大黒が困ったような早口で言った。「いいんだよ、ジェイ。いいんだ」
こっちは、J?
何だか、いきなり下手なコントを見せられてるような気がしてきた。
「二人、知り合いなのか?」
大黒は問いには答えず、顔を伏せたまま小声で「もう、いいだろ。帰れよ」とつぶやいた。
「わかった」龍樹が応じると、Jと呼ばれた男は長い舌を突き出して親指の先を床に向けた。「また、日を改める。なんか変なのがいるし、落ち着いて話しできそうにないしな」
今日は、あちこちで邪魔者扱いされる日のようだ。
何とも中途半端な会見になったが仕方ない。行き当たりばったりの調査など所詮こんなものか――
内心ため息をつきつつ数歩進んだところで、いきなり背後から抱きつかれた。
「なあ、今の何?」Jとかいうやつだ。こちらの首に腕を回し、耳元に口をくっつけてきた。「捨てゼリフ的な? そういうのって、別にいらなくね? 黙って素直に消えりゃいいじゃん」首を絞めつけてくる。「秒殺ですけど? おれがちょっと本気出せば、お前なんか」
「おい! やめろって」大黒の声が言った。
「いいや。やめねえ」
こちらの首を絞めたままJが身体の向きを変える。たまらず龍樹の足元がよろけた。と、革靴の踵が、ゴリッと何か踏みつけた感触。
「いってえ!」
Jが叫び、同時に龍樹は解放された。
振り返るとJがしゃがみ込み、身悶えしている。声も出せないようだ。龍樹の踵が踏んだのは、無防備なサンダルからのぞく左足の小指のあたりか。
「おい、大丈夫か?」
大黒の呼びかけに顔を上げた。まるで泣き出しそうだ。そんな大げさなと思ったが芝居ではなさそうである。
龍樹と目が合う。
心配なので、近づこうとした。
「ちょい、待ち」Jが片手を挙げおびえたように言った。「あとで。とにかく、結着つけんのはあとで。今やんのは卑怯じゃん」
大黒が龍樹の腰の辺りをそっと押す。「いいから、とにかく行け」
気にはなったが、ここは従うことにする。
ゲームセンターから出て、一階へ降りるためエレベーターの前に行った。
ボタンを押したが、なかなか来ない。
焦れてエスカレーターのほうに向かいかけたが、あわてた様子で大黒がこちらに走ってくる。
「悪い、向井」荒く息を吐いてから言葉を継いだ。「ちょっと戻ってくれるか」
「どうした」
「手を貸してほしいんだ」すまなそうに大黒が言う。「あいつ、マジで痛みがどうしようもないみたいで、病院に連れて行こうと思ったんだけど、おれ一人じゃ無理っぽい。お前に踏まれた左足、全然体重が掛けられないみたいなんだ」
「病院って、道渡ったところにある総合病院か?」
大黒はうなずき、「そこまで肩を貸してくれりゃいい。治療費がどうのなんて言わせない。約束する」
「承知した」
7
「……小指の骨にひび入ってたよ」
隣で大黒が言った。
「マジかよ」
「でも、石膏で固めりゃ、松葉杖なしでも、ゆっくりとなら歩けるかも」
「まいったな」
「奴の自業自得だ。気にすんなって」
病院の待合スペースの隅。
肩を並べ、二人で座っている。しばらくの間、ただ周囲のざわめきを聞いていた。
「なあ」大黒が沈黙を破る。「もうほんとに帰れって。待ってる必要なんかなかったんだ」
「仲、いいのか?」
「ああ?」
「Jくんと」
「まあ、つき合いは長いよ」
BB、と龍樹がつぶやくと大黒が顔を赤らめた。
「もう、やめてくれって。それって、そもそも、あいつ――Jが言い始めたんだ」
「そうだったのか」
――大黒健太と言います! BBと呼んでください!
二年前、陸上部入部の際の自己紹介。みんな、キョトンとしていた。
――オオグロ、つまりBig Black。B・Bっしょ!
得意満面で言われ、その場を失笑が覆った。
当人のいないところで揶揄まじりに口にされることはあっても、あいにくその呼び名は定着しなかった。
後日の大黒本人の弁によれば、あえて狙って外しにいったとのことだが。
とにかく、ムードメーカーを引き受けようという気概は感じられた。
「Jくんは、名前が純一郎とか?」
「うん? あいつはサトウフミヤだけど」
「じゃあ、なんでJなんだ?」
大黒は答えない。横目でうかがうと虚脱したようにうつむいている。
「あいつん家、代々銭湯やってんだ」唐突にポツリと言った。
「そうか」
「うちが銭湯とかだと、特にガキの頃なんか、ぜってー(お前、女湯のぞけていいな)とか言われんじゃん」
「あるいは、(おれにものぞかせろ)って話しになるわな」
大黒はうなずき、「とにかく、結構、嫌な思いしてきたんだ。あだ名はまんま風呂屋だし。で、小学校高学年になって、自営業っていう言葉を知ったわけ。それ以来、新しい友だちには(おれん家、自営業)って説明するようになった。それまでのダチにも、風呂屋って呼ばせず、殴りかかってでも(自営だ! 自営だ! 自営だ!)って、訂正させてた」
「なるほど、それでジェイ……」
「ほんと、くっだらねえけどな」大黒はクスリと笑い、「まあ、あいつにとっちゃ、真剣な戦いの毎日さ。ジェイ、ジェイ、ジェイってな」
「大黒は味方だったんだ」
「おれん家、かなり貧乏でさ」大黒は天井を見上げて、「家に風呂なかったから、あいつんとこへ通ってたんだよ。だから馬鹿にする気にはなれなかった。他の家は、銭湯って、温泉気分味わいたいからあえて行くんだろ? おれの生活にとっちゃ、あいつん家の商売は必須だったわけでさ」
「昔からの友だちに悪いことしたな」
「手を出したのは、あいつのほうだ。自業自得だよ」
「だけど」大黒のほうを向いて言った。「そもそもおれが今日、あそこへ会いにいかなけりゃ、こんなことにならなかった」
「ああ、そうだよ!」大黒が目を見開く。「どうしちゃったんだよ、お前? わざわざ文芸部にまで行って、ノブくんに会いたいとか騒いでよ。去年の屋上での一件みたいなことは、もう絶対に勘弁だぜ」
「別に騒いだつもりはないが」さて、どこまで明かしたものか。「ここだけの話しだけど」秘密めかして声を落とす。「学園側に漏れてるっぽい」
「はあ?」
「もっとも、学園側も漠然とした情報しかなくて、夏休み前に何かが起きるかもってことだけは把握してる。一体誰が、どういうことを計画してるのかまではわからない」
大黒は真剣な面持ちで聞いている。
「そうなると、おれはほら、前科があるからね。真っ先に疑われてさ、ついさっき校長から直々に尋問を受けたんだ」
「マジか」
「マジだよ。もちろん、知らぬ存ぜぬで通したけどさ。まあ、もしおれじゃないとなると、次に疑うのは、工藤ってことになるだろ、普通」
大黒は腕組みをすると、貧乏ゆすりを始める。
「一応、工藤の耳には入れておいたほうがいいと思うけどな」
しゃべりながら、はたと気づく。
もしかして、あの予告文を書いたやつは工藤を止めたくて、校長室にあれを置いたとか?
「わかった。ノブくんに言っておくよ」
大黒が言った。
「やつの計画とやらが、中止になる可能性はあるのかな?」
「それはねえ」大黒が鼻で笑う。「ノブくんはやるさ」
「それは何か、例えばの話し、犠牲者とかが大勢出るレベルの話しなのか?」
「ああ、大勢出るかもなあ」
大黒がへらへらした調子で言う。
「おい」思わず、相手の腕をつかむ。「毒とか、使うのか?」
「へっ、毒って?」ポカンとした表情で大黒が訊き返す。「何だよ、それ。訳わかんねえ」
水槽の魚が死んだ云々は、毒を使用するという脅しではないのか。
いや、そもそも、あの犯行予告文に工藤本人は関わっているのか。
まるでわからない。
大黒は龍樹の手を振り払うと、腰を上げた。
「Jのとこ戻るわ」龍樹を見下ろして、「向井。ノブくんから挑戦されたってのは、嘘じゃないんだよな?」
「ああ」
「じゃあ、球技大会は休むなよ」
「球技大会で何かやるってことなのか?」
「おれも実際のとこ、具体的に何をやるかまでは教えられてないんだ」大黒は少し悲しげな表情で言う。「とにかく、球技大会で、みんなを笑わせてやるってだけで」
最後に小さくため息をつき、大黒は歩き去って行った。
龍樹はその背中をぼんやり見送った。
8
大黒と別れ、帰宅の途に就く。色々なことがあった一日だったので、さすがに疲れていた。
電車に乗り、二駅目で降りる。夕暮れの日を浴びる各棟十階建の団地が、ホームから見えた。
なんだかんだで、人生の半分近くか。あそこに住み始めて……。
歩きながら、そんなことを思う。
一階にある我が家の前で鍵を探す。
ドアを開けると、気配に気づいていたのか、妹の麻巳子が待ち構えていた。
なぜか、ひどく真剣な表情でこちらを見上げ、「ごはん、できてるけど?」と言った。
「そうか。わかった」と応じると、妹はすぐに奥へ消えた。
とりあえず顔と手だけを洗い、居間に行く。妹が、飯を山のように盛った茶碗を渡してくれる。
「いっぱい、できてるから!」
とりあえず、米はあと二週間分はあるはずだ。
「いっただきまーす!」
今年で九歳になる妹は、茶碗のごはんの上にぐるぐるとマヨネーズを掛けると、思いっ切り頬張る。むせそうになると、オレンジジュースで流し込む。
何度見ても、慣れることができない。胸が悪くなるような光景だが、人の嗜好に文句は言うまい。
食卓の上に、おかずのたぐいは何もない。
いったん席を立ち、台所でふりかけかインスタントの味噌汁がないか探す。見当たらないので、ほぼ空っぽの冷蔵庫から醤油の小瓶だけ取出して戻る。
炊き立ての飯に醤油だけを垂らす。
うまい。空きっ腹に沁みる。
「おいしい? やったね!」
妹が得意満面の笑みでこちらを見ている。電子ジャーの内釜に米と水を入れ、スイッチを入れただけなのに。無洗米を買っているので、研いでもいない。
「おかわり、する?」
「ああ……いいよ。自分でやるから」
「やだあ! あたしがやるから……そんでね、ヨウイチロウがね……」
ヨウイチロウ――最近、妹の話しによく出てくる気がする。たしかクラスメイトだったか。
「……でね……なんだよ……これって、どう思う?」
「ああ、そうだな」時として、妹のおしゃべりは、異国の街の喧騒のように感じられる。別に不快ではないが、内容の理解は困難だ。「まあ、そういう可能性もあるかな」
「カノーセー?」妹がなぜか目を丸くする。「カノウセー、カノウセー、カノウセイッ!」奇妙な節を付けて繰り返す。
「なあ、マミ」改まった口調で話しかけると妹が黙る。「担任の先生、なんか言ってるか? 家庭訪問のこと」
「うん。今月中にはゼッタイお邪魔したいって、先生言ってたよ。うちだけだもんね。カテイホーモンしてないの」うかがうような目つきでこちらを見る。「大丈夫? マミ、シセツとかに行かされない?」
「ああ、なんとかするから」
食べ終え二人で食器を洗っていると、突然妹がその場でくるくるとコマのように回り始めた。
一向に止める気配がない。
不安のあまりおかしくなったのか?
少し怖くなり、小さな体を抱いて抑えた。
「へへへ」妹は苦しげに笑いながら、「あたし、もう少し大きくなったら、フィギアスケートやるから」
「氷上のヒロインを目指すのはいいが、食事のすぐあとはやめとけ。気持ち悪くなるだろ?」
「うん。そだね」ぐったりした様子だったが、急にパッと顔つきが明るくなり、「ネコ! ネコ! ネコ!」
「猫?」
「うん。これから、猫の森に行こうよ、お兄ちゃん。前に約束したでしょう?」
すぐ裏手の雑木林で、野良猫どもにこっそり餌をやっている一団がいるらしい。妹はその人たちと知り合いになっているようだ。
「餌も買ってあるしー」
「猫に食わせる余裕なんて、うちにはないんだぜ」
「いいじゃん。すげー、安いんだよ。猫の餌なんて」
「すげー、とか言うな。今日は、疲れてるんだ。また別の日にしないか」
「えー、やだ、やだ、やだ! いま、いきたい!」妹は叫ぶと四つん這いになり、足元に絡みついてくる。「ニャア! ニャア! ニャア!」
小学三年生の女の子として、こういうテンションははたして普通なのかどうか、龍樹にはよくわからない。
「わかったよ。行くから」
妹はピョンと上体を起こし、滅茶苦茶なステップで即興のダンスを舞い始める。ここは一階なので、騒音や振動もおかまいなしだ。
――床下に住んでる小人さんたちが、びっくりしちゃうからやめようね。
そう言い聞かすと、少しの間は神妙にしていたのが、ついこの前のことのように思える。
9
雑木林の周囲は、ほんの形ばかりに針金がめぐらしてあった。身を屈めてくぐり抜け、妹の後をついていく。時刻は七時半を過ぎていた。やせた月が木々の間からのぞく。
いつの間に、白い猫が一匹足元に近寄ってきていた。コテッと転がり腹をさらす。こちらが立ち止らないとわかるや、あわてて体勢を直してついてくる。
「まだだよ、タロー」妹が言う。「いつもの場所。みんなが集まってから」
他を圧し、ひときわ高くそびえている樹の根元に到着した。
広がる枝々が、天井のように夜空をさえぎっていた。少し離れた場所にある踏切を照らす灯りが、薄らとここまで届いている。
猫たちは、急に湧いて出たように、妹の周囲に集まってきていた。十匹以上はいるが、正確には把握できない。みな、尾をピンと立て、控えめに鳴き声を発している。
「お兄ちゃん、きてよ」妹がどこか大人びた声音で言う。「みんなを紹介するから……これが、ジロウで、これがモモ。あとね、これがクロ。こっちがマリ。この子たちはトミーとロミー。それと――」
「ちょっと、待て。とてもじゃないが、いっぺんに全部は覚えられないよ……だれが名前を付けているんだ?」
「シムラのおばあちゃん」
「団地の人?」
「違う。近くに住んでる人。今日はまだ来てないみたい。あっ! 見て!」
妹の指差すほうに顔を向けると、とても貫禄のある虎縞が一匹、のそりのそりと近づいてくる。
「よかったあー。生きてたんだ。しばらく姿見なかったから」
龍樹の方にひと睨みくれてから、虎縞は妹の足元にいく。
「そいつの名は、もしかしてボスか?」
「トラコだよ。トミーとロミーのお母さん。他にもいっぱい産んでて、ちゃんと一人前になるまで育ててるんだって。えらいってシムラさんが褒めてた」
野良猫でさえ、そうなのだ。
父さん、母さん。あんたたちは野良猫にさえ劣るかも。
腹が満たされた猫たちは妹にすり寄り、身体をなでてもらっていた。大樹にもたれその光景を眺めていると、あぶれた一匹が近寄ってくる。
「あっ、タロー。お兄ちゃんにかまってもらいたいみたい」
腰を落とし手を伸ばすと、地面に転がって、無防備に腹をさらしてくる。
「こいつ、野良のくせにプライドないのかよ」滑らかな手触りを楽しみつつ言った。
「ぷらいどない?」
「ダメな猫って、こと」
満足げに喉を鳴らしていたタローが、急にくるりと身を起こした。
と、こちらの腕から肩へ飛び移るや否や、背後の樹を駆け登っていった。
思わず、「うわっ!」と尻もちをつく。
けなされたことがわかったのか?
「お兄ちゃんカッコわるっ!」
妹のそばにいた猫たちが、こちらへ顔を向けた。次の瞬間、スタートの合図でもあったかのように、一斉に駆けてくる。そして呆然としている龍樹を遠慮なく踏み台にして、タローに続けとばかり大樹へ登っていった。
振り返ると、猫たちがまるでフクロウのように枝々で身を丸めていた。
「一体、何なんだ、これ」
「みんなね、なぜか、急に高いとこへ登るときがあるの」
「マジか」
猫たちは何も言わず、瞳をきらめかせ龍樹をじっと見下ろしている。と、ガタゴト電車が近づいてくる音が聞こえてきた。皆そちらのほうに関心を移し、鼻先を向ける。
妹が鼻歌まじりに両手を広げ、くるくると回転を始めた。
氷上のヒロインになったつもりなのか、とても楽しそうだ。
だが、実のところどうなんだ、マミ?
寂しくないはずがない。
不安でないわけがない。
もしかして、実はおれを気遣って演技しているのか?
薄い薄い氷の上で。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます