白い毛布と金魚の水槽
私と夫が別れたのは、それから数か月がたった秋の初めだった。
別れたと言ってもそもそも籍が入っていたわけでもないので、ただ、私が家を出ただけだけれど。
どうして夫と別れたのかと訊かれると、あれから五年近くたった今になっても返答に困る。一緒に暮らし始めたばかりの私がまだ幼かった頃には、佐山は完璧な父であり兄であったし、それなりに時がたち歳を取ってからは、常に完璧な夫だった。不満はどこにもなかったのだ。
それでも、佐山が雨の火葬場でコートを着せ掛けてくれたあの男と寝ていることを知って、私は家を出た。
別に、火葬場の男を好きだったわけではない。容姿だってなんとなく覚えていたくらいのものだ。それでも私は、たった今家を出なくてはならないと思った。
今思えば、佐山が寝ていた男があの火葬場の男であったのかどうか、確信は持てない気がする。佐山に確かめたわけではないし、泊りの予定で遊びに行っていたなつみさんの家から、意味もなく早く帰ってきた私が玄関を開けると、見覚えがある男が家の中にいたという、それだけの話だ。
だから、私は本当のところは佐山が誰と寝ていようが関係なく、もう耐えられなくなっていたのかもしれない。
セックスをすればするほど、佐山は病的に白い肌からさらに血の気を削っているように見えた。
そのうち、この人は文字通り性欲で身を滅ぼす。そしてその無尽蔵みたいな欲の源には私の父親であったのかもしれない男がおり、その男が死んだ後に佐山が欲に狂ってしまったのは、明らかに私の存在が原因だった。あの男が刻んで死んだのが私の名前でなくて佐山の名前だったら、佐山はこんなに狂っていない。
火葬場で会った男に似ている佐山の愛人は、私の顔を見るなり焦ったように服を着て、深々と頭を下げると部屋を出て行った。
佐山は一瞬たりとも男を引き留めるそぶりを見せなかったが、男は部屋を出る前に縋るように佐山を振りかえった。訓練された忠犬みたいな目をしていた。
佐山はそれさえも無視した。犬の数匹従えるのも当然というくらい、私の夫は冷え冷えと美しかった。
私は男と選手交代するみたいに、ソファの上に取り残された佐山に歩み寄った。
初めて見た夫の背中から腰にかけての肌には、喉元の傷と同じくらい古い火傷の跡が広がっていた。傷痕というよりは、もう皮膚になじんで生まれつきそういう模様の肌をしていたみたいに見える、明るい桃色。
「ベッドですればいいのに。」
現実逃避みたいに、半ば無意識で出た言葉だった。
背中を隠すように身を捻った夫は、疲れたように微笑んだ。性にやつれた様子というには、私の夫には色気がない。こんなに決定的な場面でさえも、もっと切実に、もっと核心的なところが疲れてしまっているようにしか見えない。それ妙に悲しかった。
「さすがに申し訳ないと思ったんですよ。」
「夫婦の寝室ってわけでもあるまいし。」
「それもそうですね。」
芯の無い会話だった。お互い踏み込みたいのに踏み込めない場所があって、じりじりとそこに攻め込む攻防に、もう疲労しきっていた。
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