7
男の死後、佐山は狂った。私にはばれないように細心の注意を払っていたのだろうが、限界がある。狂気は隠し通せるうちは狂気とは呼ばないのだろう。
「お願いだから、病院に行って。」
「頭のですか?」
「バカ。性病だよ。」
「頭なら行ってもいいですが、そちらはお断りします。」
「なんで?」
「私はこのまま死にたい。」
男の死から数か月がたった、花の香りが漂う春の夜だった。佐山は狂っても律儀に夕飯の時間には家に戻ってきた。その身体から血や精液の匂いを漂わせながら。
ぐったりと疲れ切った姿で食卓に着く佐山は、性を貪ってきた男には見えなかった。仕事が立て込んでいるんです、などと言って疲弊しきっているときの様子と変わらなくみえた。けれど、夜な昼なに相手にしているのがまともな男ばかりでないことは、その色の無い首や手首に刻まれた痣や縄目が物語っていた。
「飲むよ。」
「はい?」
「あんたがエイズになったら、あんたの血を飲むよ。」
テーブルを挟んで向かい合った佐山を睨みつけて言うと、佐山は怯えるように私から目をそらした。私に佐山の本気が分かるように、佐山にも私の本気が分かるのだろう。
男が死んだ今、私と佐山には二人で暮らす理由がない。だからなおさら私には、もう1秒たりとも夫と離れるつもりがなかった。
愛ではない。恋でも友情でもない。ただ、私はもう自分に近しいはずの誰かを失いたくない。その際相手が本当に近しい存在かどうかは、ここまで来てしまってはもはや問題ではない。
「今、私を抱ける?」
「……いいえ。」
「じゃあ、病院。」
今もなにも、私は夫に抱かれたことなどない。これから先だってきっとない。それでも夫は観念したように頷いた。
「分かってください。あなたを一人にしたいわけではない。」
「分かってるよ。そんなのずっと、分かってる。」
交わす言葉はすかすかと空しかった。分かってる。分かっているけれど、お互いどうしても孤独だ。
佐山は冷めた料理の並んだ食卓で、静かに頭を抱える。
私はせめて食事をつづけながら、ここを出て行った方が良いのだろうかと考える。
私がいなければ、日々私を妬まず恨まずに済めば、佐山はこうも狂わずに済んだのかもしれない。もともとは、非常に冷静で理知的な男なのだ。
1秒たりとも離れるつもりのない夫だ。離れるならばもう、二度と会うまい。二度と会わず、互いの存在などなかったことにして生きていくしかないだろう。
あの男は、死んでからも私に迷惑をかける。なぜ、私の名前の刺青など入れたのか。女の名前が彫りたければ、母親のそれを刻めばよかったものを。
箸を持つ手が震えた。それを敏感に察した佐山は、テーブル越しに手を伸ばして私の指に重ねた。
「すみません。」
「あんたは悪くないよ。」
悪いのは、私とあの男だ。いつも、必ず。
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