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「出て行きましょうか。」
何気ない口調で佐山が言った。口調こそ何気ないが、本気で言っているのはよく分かっていた。結婚してくれと迫った私に、いいですよ、と請け負ったときと同じ声をしていたから。
だから私は速やかに首を振り、彼の最大限の厚意を拒絶した。
「私が出てくよ。」
「まさか。」
「じゃんけんで決める?」
「負けが出ます? 勝ちが出ます?」
「勝ち。」
そして私と佐山は、子どもがするみたいにグーに握った手を振りながら、最初はグー、じゃんけんポン、と勝負をした。
二人ともパーを出した。私は佐山がじゃんけんの時にパーを出しがちだということを知っていたし、佐山は私にそれを知られていることを知っていたはずだ。
「……あいこはどうする?」
訊けば佐山は肩をすくめ、勝負は持ち越しにしましょう、と提案した。私もそれに頷き、パーで突き出したまま固まっていた手をぎこちなく握りこんだ。同じように手を引っ込めた佐山は、その手を慎重に私の頭に乗せた。二人で暮らし始めた当初なら、気安く触るなと拒絶していた仕草だった。子ども扱いされているようで不快だったのだ。その仕草も私が年を重ね、子ども扱いが事実そぐわない年齢になった頃から不快ではなくなった。
「またドライブをしましょうか。山中湖まで。」
「今度は河口湖がいいな。」
「そのあとイタリアで挙式しましょう。」
「また倒れるまで海で遊んでくれる?」
「もちろん。今度はバタフライを習得しましょう。」
「山にピクニックにも行こうね。」
「あなたと行くとピクニックというよりサバイバルだ、いつも。」
「新種の蝶々かと思ったんだもん。」
「今度はちゃんと崖下までついていきますよ。」
「年くったけど大丈夫? 体力落ちてない?」
「あなたが無駄遣いとおっしゃるジム費用は、この時のためのものですよ。」
軽口ばかりを交わしながら、私は佐山の顎の下を走る傷口に手を伸ばした。背の高い私の夫は軽く膝をかがめて身長差を埋めてくれる。
「事故?」
「ええ。」
「どんな?」
「転んだんですよ。」
「うそつき。」
「ええ。」
私の夫は、今でもこの傷痕についてだけは、私に嘘をつき続ける。いつか話してくれるのだろうか、と思う時もあれば、別に話してくれなくていい、と思うこともある。私だって夫に、あの男との間に起こったことは何一つ話していない。
私と夫はその日は夫の部屋のダブルベットで一緒に眠った。今までも時々あったことだ。たいていはリビングで眠ってしまった私を、私の部屋まで運ぶのは大変だからと夫がこちらのベッドに寝かしつける場合の話なのだけれど。
この四年間で、夫と私は並んで眠る以上の肉体的接触を持ったことが無い。
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