佐山は床に投げ出されていた毛布を拾い、背中に被せるように身に纏った。

 「すみません。お見苦しい所を。」

 「……その、背中のは?」

 「事故にあったんですよ。」

 聞きなれた返事。いつからか私はこの返事を聞いても傷ついたり落ち込んだりしなくなった。それでも、それが分かっているはずなのに、佐山は今でもこの返事をするたびに傷ついているようだった。だからつまり、何度聞いてもこの返事が返ってくるだけだと分かっても、ことあるごとに問いを重ねてしまう理由は、私も内心佐山をまだ恨んでいるところにあるのかもしれなかった。

 「……首のは?」

 「刺したんです。子供の頃に、自分で。死にたいと思うほど賢い子どもではなかったのですが、生きていくのがもう嫌になったんですね。子供の頃は、母親が男と逃げるたびに親戚の家に預けられていたのですが、そこにいた叔父に当たる人が私の身体をやたらに触るのが心底嫌だったんですよ。生きていくのが嫌だったというよりは、親戚の家に預けられるのが嫌だったんですかね。どちらにしろ今なら到底こんな思い切った方法はとれないですね。」

 はじめて聞く答えだった。今になって、と思った。もう私はここにとどまれないのに、どうしてきっちり最後まで嘘を突き通してくれないのか。それかいっそ背中の傷についても話してくれれば、ここでの四年半にきっちり諦めがついたかもしれないのに。

 「そっか。」

 声が震えた。

 「はい。」

 佐山のそれも震えていた。なにも別に佐山のせいではないと、それだけは言っておきたかったが、適切な言葉がどこにも見つからなかった。

 「出て行くよ。」

 「クレジットカードを持って行って下さい。暗証番号はあなたの誕生日です。」

 「ありがとう。」

 「使ってください。毎月引き落としがされていたら、あなたは無事なんだと分かるから。」

 「私は無事だよ。いつも。」

 「ええ、それはそうでしょうけど。」

 佐山は白い毛布をソファに置くと、床に散らばっていた衣類を拾い集めて身に着けた。 

 私はその動作をじっと見ていた。夫の身体を見るのはこれが最初で最後だ。

 きっちりといつものスーツを着込んだ夫は、私をマンションの外の道路まで見送ってくれた。一面、真っ赤な秋の夕暮だった。

 「愛していました。今更すみません。」

 唐突に佐山が言って、私は思わず笑った。

 「知ってたよ。ありがとう。」

 クレジットカードだけをジーンズのポケットに入れて、私は歩き出した。

 夫であったところの男に愛されていたことは、知っていた。もう、ずっと前から。だから別にもう私は、一人でも大丈夫だった。


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