男のいやに澄んだ両目が私を見つめる。

 この目が嫌いだった。この目を向けられるとこの男に逆らえなくなる、なつみさんと佐山が心底嫌いだった。

 私はなつみさんに掴まれている方の手をそっと動かし、ジーンズのポケットから携帯電話を抜き出した。二人分の視線に突き刺されたまま、着信履歴に残る見覚えのない番号に電話を掛ける。

 「結婚して。どっか遠くに連れてって。」

 一度目のコールで電話に出た誰かは、間髪入れず吐き出した私の要求にあっさり応えた。

 「いいですよ。」

 「いつ?」

 「今すぐ。」

 あくまでもさらりとした男の答えに、私は苛立つ。本気だと、焼けつくように本気なのだと伝わっていない気がして、絶望的に気が焦る。

 「いつよ!?」

 「今、どちらに?」

 「中央病院の玄関。」

 「5分後。」

 電話を切った私は、そのまま携帯電話をアスファルトに叩きつけた。なつみさんも男も、突如現れた異邦人を恐れる古代人の目で私を見ていた。理屈の分からない生き物を怖れるように濁って暗い、四つの目。

 「結婚するの! 出て行くのよ!!」

 枯れかけた老木の洞を思わせる視線に負けまいと喚いた私は、帰って、と二人の背中を押した。男の手もなつみさんの手も、持ち主が死んでしまったみたいにあっさり私から離れた。

 出て行くの!! 再度私を喚かせたのは恐怖だった。結婚する、出て行く、本当に? この身体とこの心のままで、どこに行けると思っているの? まさか誰かとせめてもの情を交わせると思ってでもいるの?

 「千草。」

 「千草。」

 「千草。」

 「千草。」

 「千草。」

 「千草。」

 それ以外の言葉を忘れでもしたように、男となつみさんが私を呼ぶ。私はそれが聞こえないふりをして、2人の背を更に強く押した。

 千草ではない誰かなりたかった。もう全部なくしてしまいたかった。私の存在も、男の存在も、なつみさんの存在も、母の存在も。

 5分どころか3分もかからず正面玄関に車をつけた佐山は、生きていないみたいに端正な仕草で私の肩を抱き、男となつみさんの存在には目も留めず助手席に乗り込ませた。それは完全に私が望んだ待遇だった。

 こうしてほしかった。なにも訊かずなにも言わず、何事もなかったようにどこかに連れて行ってほしかった。

 助手席に座り、シートベルトを締めた私は、病院の方を振り向かないように深く俯いた。

 「式はどこがいいですか? 指環やドレスのご希望は? それとも着物の方がお好きですか?」

 私を憎んでいるはずの男は、車のエンジンをかけながらそんな戯言を口にした。ちらりと佐山を見上げた私は、その漂白されたような横顔に浮かぶ表情に驚く。

 明らかに彼は、本気だった。憎んでいるはずの私と、本気でまともな結婚式を挙げようとしていた。

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