「ひとり1時間半ってことになってたの。それを過ぎたら隣の部屋で待機してる亮が、私がいる方の部屋に入ってくるって。そんなこと、それまでは一回もなかったんだけどね。でも、その時は1時間半たってもやくざが私のこと離さないから、亮が入って来ちゃったの。私、もう血まみれだったし、縛られたりとかしてたし、変な薬使われてたみたいでおかしくなってたし、亮もやばいってすぐわかったんだと思う。すぐ土下座して、俺が代わりますって。」

 私はなにも言えなかった。なつみさんの横顔を見ているしかなかった。どうして今ここでこの人は私にこんな話をするのか分からなかった。

 この話はどう考えても、あの男が私に隠しておきたかった過去を開示しようとしている。誰にも本来その過去を勝手に公開する権利などないし、なつみさんにそれが分からないはずもない。それでもなつみさんは止まらなかった

 「亮はあの頃から今と同じ感じだったから。きれいだったの。だからそのやくざも私のこと放り出して。亮は私に床に散らばってた服と一緒にメモくれて。それで私は病院に行ったの。亮がなにされるのか知ってたのに。その後しばらくして亮に会ったら、刺青入ってた。あの金魚。」

 見捨てたんだよね、私、と、なつみさんは虚脱した様子で長椅子の背もたれにもたれかかった。

 そんなことないよ、などと、どうしてその時私に言えただろうか。一言もいうべき言葉が見つからない私は、ただなつみさんの腕を握ったまま、早く自分の名前が呼ばれて診察室に逃げ込めることを祈っていた。

 私が身体を売った相手は、普通のサラリーマンみたいな外見をした普通のサラリーマンだった。それが運悪く普通のサラリーマンみたいな外見をしたやくざだったとき、男は私のために土下座をして身体を差し出したのだろうか。

 差し出す、とひとかけらの疑いもなく確信できるから、私は自分の愚かさへの怒りに身を焼かれる。

 あの男なら差し出す。私に刺青を探られただけで、これ以上ないほど痛々しい女の顔をさらしたくせに。

 「だからね、だから……、」

 なつみさんが言いよどみ、さらに深く俯く。現実味がどんどん彼女の身体から抜けていき、そのさまは私には白黒写真のように見えてくる。

 「亮にはね、セックスって、セックスじゃないのよ。」

 意味不明な台詞だったと思う、今、ここ以外の場所で聞いたら。しかし、私がそれを聞いたのは、いま、ここだった。だからその言葉の芯が、すんなりと腹の奥底まで突き通った。血や肉を刺されたというよりは、やわらかい土に棒切れを突き刺したみたいにすんなりと。

 あの男にとってセックスは、一般的な意味で言うところのセックスではない。それ以外の、もっと切実で血まみれのなにかだ。

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