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アパートの前でタクシーを拾い、私を救急病院の産婦人科に連れて行ってくれたなつみさんは、私もここ来たことあるんだ、と微笑んだ。化粧を施していなくても、白くうつくしい頬をしていた。
広くごちゃついていた一階の総合受付とは違い、青い長椅子が9脚おかれた産婦人科の前の待合室はしんと静かだった。それぞれの椅子に女性が一人か二人座ってはいたが、誰も俯きがちで、妙に現実感が薄い姿をしていた。
「もうずっと前。中学生の時だもん。その時からこの椅子、変わってないなぁ。」
なつみさんはひそめた声でいたずらっぽく囁き、古ぼけて中のウレタンがすり減った長椅子を掌で撫でた。
「なんで来たの?」
濃い青い生地の上でひときわ白く見える彼女の手を眺めながら、私はやはり声を潜めた。大きな声を出すと破れてしまいそうな、ひっそりと湿度の高い膜が待合室を包んでいるようだった。
「アフターピルと、膣裂傷と、その他諸々」
さらりと言いながら、なつみさんはぎゅっと両手を握った。真白い手の甲に、薄青い血管がくっきりと浮かび上がる。
「亮に言われたの。絶対に行けって、ここの住所書いたメモ渡されて。その間亮は、もっとひどい目にあってたのにね。」
「もっとひどい目?」
「もっと、もっとだよ。」
なつみさんはそっと歌うように言い、視線を膝のあたりに落とした。そうして俯くと、彼女の際立って美しいはずの姿が待合室の女たちの中に埋もれる。私はなぜか背筋がぞっと寒くなって、咄嗟に彼女の腕を掴んだ。
「売春してたの。お金欲しくて。」
なつみさんはちょっと笑ったまま、ぽろりと喉から言葉を転がり落とした。
「え?」
「亮が客引いてきて、私がやってたの。中学生の頃よ。うまくいってたし、お金も貯まってた。二人で町を出るって、そのためのお金。」
彼女の言葉がまるで信じられず、私は掴んだ華奢な腕を離せないまま、どんどん現実感が薄くなっていく横顔を凝視した。その視線に気が付いていないはずもない彼女は、こらえる様子もなくするすると涙をこぼし、一拍おいてきつく瞼を閉じた。
「でもね、外れ引いちゃったの。普通のサラリーマンだと思ってホテル行った相手がね、やくざだったんだ。体中に般若の刺青が入ってて、私怖くて、なにも言えなかった。もうめちゃくちゃされたよ。殺されるんだと思った。」
そこでなつみさんは、細くて長い息を吐いた。涙の色はそこにも色濃くにじんでいたが、彼女はもう泣かなかった。堤防が決壊しないことを確かめるみたいに、ゆっくりと数度瞬きをする。
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