アフターピルと石造りの街並み

あの男と私の間になにがあったのか、なつみさんはちゃんと知っていた。おそらく以前から薄々、なにかがおかしいと感じてはいたのだろう。そうでなければ、私の身体を抱きつくしたあの男が部屋を出て行き、シャワーを浴びた私がジーンズをはき直した後、電話を一本よこしたりはしないはずだ。

 「ゴムしてなかったなら、今すぐ病院でアフターピル出してもらいなさい。」

 彼女の第一声は、端的に引き絞られていた。言葉数だけではなく声音も引き絞られ、低く低く抑えられる。おまけに感情の波さえもぎりぎりの線で低く抑えられていた。電話の向こうの彼女は、私と男の間におこったことを把握した上で、それらを必死で抑えつけていたのだ。

 「はい。」

 私はただそう呟くしかなかった。これ以上、嘘の上塗りは出来なかった。あの男がなつみさんになんと言ったのかは知らないが、大方私の体調がよくなさそうだから電話でもしてやれとでも言ったのだろう。本当に、馬鹿な男だ。

 「ひとりで行ける?」

 一瞬の間をおいて発せられたなつみさんの声は、一番下の心に近い部分が抑えきれずに揺れていた。その揺れは、私の胸に深く刺さった。おぞましい行為をしただけでは気がすまず、うつくしく優しい人をこんなにも傷つけている自分が憎かった。

 「はい。」

 だからまた小さく答えるしかなかったが、本心を言えば病院に行く気はなかった。妊娠はしないと思っていた。だってそんなのは、天も地も許さない。

 「行くのよ。」

 母と男に代わって私を育ててくれたひとは、私の考えくらい百も承知なのだろう、声を一瞬高くした。先ほどまでの感情的な揺れはどこかに霧散し、あるのは明らかに私を案じる色だけだった。

 私はすっかり日の落ちた部屋で携帯電話を握りしめ、はい、と呻いた。母に殴られた時よりも、男を殴らされた時よりも、無意味に身体を売った時よりも、あの男に抱かれた時よりも、心底自分が情けなかった。

 ああ、この人にこんなに愛される価値など私にはないのに。出所の分からない愛情は、私にはいっそ恐怖だった。

 「お願い。」

 電話の向こうのなつみさんも泣いていた。私は掌で涙をごしごしと拭いながら、病院に一緒に行って下さい、と彼女に頼んだ。一人で産婦人科に入れる気がしなかった。いくら医者だって、膣内に残る精液で私と男の関係性が分かるはずなどないのに。

 なつみさんは、すぐ行くから、と泣き声で言って電話を切った。私は大急ぎで顔を洗い、財布と携帯をジーンズのポケットに突っ込んだ

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