男が眠りつづけた半月の間、なつみさんが私の面倒を見てくれていた。彼女は何度も驚いた様子で、本当に手がかからない子、と呟いていたが、それは当たり前のことだ。私は物心ついた時からずっと、大人につきっきりで面倒を見てもらったことなどなかったのだから。

 男は高熱にうなされながら時々、ヒトミ、と呻いた。私の母親の名だ。私はその度に近くになつみさんがいないことを確かめてから、なに、と返事をした。なるべく母に似せた低く沈んだトーンで。

 男はそれにさらに返事を重ねることはなく、母の手や頬を求めるようなしぐさを見せることもなく、すぐにまた深い眠りに突入していった。

 私はなにもかもを持て余したまま、ブラインドが下ろされた薄暗い部屋の中に立ち尽くしていた。

 私と男がなつみさんのマンションに身を寄せていた頃、母どこで何をしていたのか私は知らないし、何なら今だってあの女の消息などまるで知らない。知りたいとも思わなかったし、今後も恐らくそうだろう。おまけに多分、母はもう死んでいるか精神病院かどこかに入っている。

 私の母に対する情はその程度なのに、赤の他人であるあの男が高熱にうなされながら母の名を呼ぶことが不思議で仕方なかった。

 私であれ男であれ、熱を出そうが大けがをしようが、母は絶対に手当てなどしない。それを男が知らないはずもない。

 名を呼ばれないなつみさんが可哀想だと思った。部屋を提供し、毎日男の傷を消毒しては包帯を取り換え、気休め程度だと唇を噛みながら薬も飲ませていた。私用の食事とは別に、男が食べられるように米や野菜や肉を煮込んでは潰したメニューも毎食用意してくれた。なつみさんがいなければ、私も男ものたれ死んでいたはずだ。それでも男は一度たりとも、なつみさんの名を呼ばなかった。

 半月が経ち、男はなんとかベッドから起き上がり二本足で歩けるようになった。そして私は、男の左手の小指が無くなっていることに気が付いた。その意味はもう知っていた。  なつみさんも男も、私がその意味を理解していないと思っていたからだろう、殊更にその欠損を隠そうとはしなかった。

 私はなつみさんが買ってくれた紙粘土で男の小指を作った。形も色もちゃんと覚えていたので、絵の具で色も塗って半日がかりで仕上げた。そしてその指を、マンションの前の空き地に埋めた。小指のお弔い。あの真赤な夕方、私は泣きも笑いもせずに固い土を一人で掘った。

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