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血まみれの身体を不自由そうに折り曲げてフローリングの床に座り込む男と、救急箱とタオル、洗面器という最低限の設備で応急処置を施していくなつみさん。その二人を二歩ほど離れた距離から呆然と見つめていた私に、男は縁の部分が鈍い赤に染まった右目を向けた。左目は濃く鮮やかな赤い血の中に黒目が浮かんでいるのがようやく確認できるというありさまで、おそらくほとんど視力はなかったのだろう。
私は男に向ける言葉を思いつかず、ただただ棒立ちになっていた。
男も私に向ける言葉が浮かばなかったのだろう、視線は数秒間私に留まった後、すいと床に落とされた。
そこでなぜだか私はキッチンに向かった。真白いファミリー向けの大きさの冷蔵庫を勝手に開け、シュガーピンクの皿に乗せられたロールケーキを取り出す。そしてそれを持って男の前へ行き、鷲掴みにしたケーキをずい、と突き出した。
頭の傷を押さえながらケーキと私とを見比べた男は、なにも言わずにそろそろと首を伸ばし、握りつぶされてクリームも苺もはみ出してぐちゃぐちゃになってケーキをかじった。私の指に掌に零れて溶けたクリームまで舌と唇ですくって、血まみれの男は随分長い時間をかけてケーキを食べきった。私は男の呼吸や唾液や粘膜の感触に背筋を泡立たせながらも、仁王立ちしてケーキを差し出し続けた。
「浅い傷ばっかり。血は出てるけどたいしたことないよ。大丈夫。」
男の止血が大体終わり、私の存在に意識が及んだのだろう、肩ごしに振り向いたなつみさんが血の気の引いた頬に笑みの片鱗らしきものを浮かべた。彼女は私の異様な行為に対して何のリアクションも取らなかったし、そのことは私を、そしておそらくは男も、深く安心させた。
しかし彼女が発したその言葉は、私を安心させるための嘘だったのだろう。あの男はこの日から半月あまりなつみさんのベッドで寝込み続けたし、なつみさんは何度も彼を病院に連れて行こうとしては思いとどまっていた。きれいなひとが携帯電話を握りしめ、祈るように男の枕元で越した幾つもの夜を、私は部屋の外からじっと見ていた。
あの男には戸籍がない。それを私が知ったのは、それから何年も経ってあの男が死んでからだ。この時はまだそんなことには考えが及びもしなかったから、なつみさんが医者を避ける理由も分からず、きっと男がやくざだからだろうと思い込んでいた。
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