ハンガーとロールケーキ

あの男が私を連れてアパートを出たのは、私が9歳になった真冬の晩だった。あの夜、母親は常になく怒り狂い暴れまわっており、いつもなら洗面所に籠城している私に構ったりはしないのに、なぜだか無理やり引きずり出してリビングまでの一歩に満たない距離を突き飛ばした。

 リビングには男が倒れていた。死んでしまっているのではないかと思った。怯えた私は背後の母を縋るように見あげた。母親はつま先で男の肩辺りを蹴り上げた挙句、私の手に木製の固いハンガーを無理やり握らせた。

 「殴れ。」

 端的な命令。

 私は頭の中が真っ白になり、ハンガーを握りしめてがたがた震えていた。

 「やめろ。」

 死んだように倒れていた男が、ぎすぎすに枯れた声で呻いた。

 「殴れ。」

 母親は男の声など聞こえなかったかのように淡々と繰り返した。

 「やめろ。」

 男の声も、枯れきって無残な割にやけに落ち着いていた。

 「殴れよ。」

 母親がハンガーごと私の右手を掴み、男の頭に振り下ろさせた。ハンガーは男のこめかみのあたりに鈍い音をさせて食い込み、私は声にならない悲鳴を上げた。人を殴ったのは、生まれてはじめてだった。

 「やめろよ。」

 男は呻きながら、両腕を床についてゆっくりと上体を持ち上げた。その時私は確かに、男の左の目から涙が頬を伝って流れるのを見た。透明な雫は顎に行きつくまでに血と混ざって赤く染まった。その涙を認めた母は、私の手からハンガーをもぎ取ろうとした。これ以上殴ったら本当に男は死んでしまう、と思った私は、ハンガーに両手でしがみついて抵抗した。母は足の裏全体を使って容赦なく私を蹴り飛ばした。年の割にも小さかった私は、ハンガーを握りしめたまま頭からテレビ台に突っ込んだ。

 やめろよ、とはもう男は言わなかった。頭とこめかみと左目の下から真赤な血を滴らせた彼は、痛みと恐怖で動けない私を肩に担ぎ上げ、そのままアパートを出た。母親は追っても来なかったし、罵声を浴びせもしなかった。

 私は今でも時々この時の光景を夢に見る。そしてその度に、夢の中の母の表情は違うのだ。狂ったように歯をむき出してこちらを威嚇しているときもあれば、自分にもどうしようもできない破壊衝動に苦しんで涙していることもあるし、なにもかも抜け落ちたような無表情の時もある。もう、事実は確かめようもない

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