男が母親に殴られている間、私はいつも洗面所に避難していた。キッチンはリビングとの境にドアがなく物音が筒抜けだったし、母親の寝室として使われていた奥の四畳半は立ち入り禁止を言い渡されていたからである。 洗面所では大抵、男が回した洗濯機ががたがたと稼働していて、リビングから聞こえてくる打撃音をいくらか紛らわしてくれた。

 男は背が高かったし体格もよかった。だからその気になれば母の暴力を止めさせることは容易かったはずだ。それなのにあんなふうに殴られ続けていたのには何か意味があるのか、それとも単にそう言う性癖だったのか、それは今でも分からない。確かめたことはないし、確かめたいと思ったこともない。

 母親の暴力は大体20分から1時間くらいの間続いた。力の限り暴れまわる母親の体力の限界がその程度だったのだろう。上背こそあれ非常に痩せた人だったので、それだけ体力が続いたのだって不思議なくらいだ。

 暴れ終わると母親は、酒瓶を抱えたまま寝室に引っ込んでいく。私は母親が立ち去る物音がした後もしばらく洗面所に籠り、安全を確認できたと思ったところでようやくリビングに戻る。すると男は決まってこちらに背中を向けて、台所の流しで頭から水を浴びていた。ステンレスのシンクに散らばる水には赤い色が付いていて、その色を見ると私はどうしようもなく情けなくなった。刺青まで入れた、神話の英雄みたいに見事な肉体を持っているくせに、女に殴られた傷を水垢で汚れたシンクで洗い流すなんて、そんなのこの世で一番情けない光景に決まっている。

 私は我慢できるときはそのままテレビの前の指定席に戻ったが、できないときは男の背中を見たまま泣いた。私が泣きじゃくっていることに、男が気が付くときと気が付かない時とは、おおよそ半々くらいだった。気が付かれないときは泣くだけ泣いて、袖口で涙を拭いてテレビの前に座った。気が付かれた時は、頭からぼたぼた血液まじりの水を滴らせる男と向かい合ったまま、失語症にでもなったみたいに喉を押さえて空気の塊ばかりを吐き出した。男はそんな私を持て余し、洗面所にタオルを取りに行くことさえできずに突っ立っていた。

 今でも思い出すたびに胸が焼ける。あのとき私は、母を殴り返さない男を心底憎んでいた。

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