私は卵まみれの手を洗い、男は濡れたトレーナーのまま洗濯機の蓋を閉め、スイッチを押した。手を洗い終わった私はリビングのテレビの前に戻ったのだが、男はその日は母親が帰宅してくるまでずっと洗面所から出てこなかった。その日、夕方になって帰ってきた母は酒を飲んでいなかったので、私は久々に母親の手料理を食べた。狭いリビングにもキッチンにも三人で一緒に座れるような大きさのテーブルはないため、私はリビングの床に座って、男はキッチンのシンクに立ったまま、母親はキッチンのシンクに小さな椅子を運んで、それぞれ勝手に食べ始め食べ終わる。

 母は決して家庭的な人ではなかったのに、なぜだか料理だけはとても上手かった。部屋の片づけも洗濯も娘の世話もなにひとつしない人だったのに、完璧なおふくろの味を作れる人だった。私は今でもそれが不思議で仕方ない。あの人もどうせ、食育という概念がない家で育ったはずなのに、なぜ。

 私のいないキッチンからは、一言の話し声も聞こえてはこなかった。9歳まで暮らしたあの家で、私は母とあの男が恋人らしく仲睦まじくしている姿を一度も見たことがない。 それどころか、言葉を交わしているところだって見たことがないくらいだ。私が眠った後や、幼稚園や小学校に行っている間には恋人らしいふるまいをしていたのだろうと思ってはみても、なぜだか二人が寄り添っている姿は想像ができなかった。あの男は私を好きではないのと同じくらいに母のことも好きではないように見えたし、母は酒を飲むとあの男をひどく罵り、殴った。

 やくざ、という単語を私が初めて聞いたのは、母が発した彼へ罵声の中であったのだと思う。

 私はあの男のことが好きではなかった。それでも、彼がいるとき母の暴力は完全に彼の方に向いたから、その点では彼の来訪を内心望んでいたのかもしれない。

 彼はリビングの床に座り、いつもじっと母の暴力を受けていた。苦痛の先にある悟りを求める修行僧か、自然災害を前になにもかもを諦めた農夫みたいな無抵抗。母はいつしか素手ではなく木製のハンガーや未開封のペットボトルで彼を殴るようにさえなり、一度ならず彼は脳震盪らしき症状で倒れもした。それでも彼はなぜだか、うちにやって来ては母に殴られていた。

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