男は料理ができなかったし、家には備蓄の食料など一切なかったので、私が腹が減っていると答えた場合、彼は来た道をそのまま引き返してコンビニでパンかおにぎりか何かしらを買ってきた。私は好き嫌いが多かったので、ほとんどの場合パンの中身やおにぎりの具を残したが、男がそれを食べさせようとしたことはなかった。あの人も多分、食育という概念のない家出育ったのだろう。来る途中にコンビニに寄ってきた方が手間が省けただろうと思うが、男は一度もそうはしなかった。今思うと、私から離れたかったのだと思う。離れて、本当にあの子供の面倒を見るのか自問自答して、それで結局はいつも戻ってきていたのだと思う。あの人は決して、子供も私も好きではなかった。

 私がものを食べている間、男は必ずと言っていいほど洗濯機を回していた。掃除をしているのは見たことがないのだが、洗濯は好きだったらしい。きちんと色別、素材別に分けた洗濯物を、銘々に最適なモードや洗剤で洗い上げては干していた。男が時々買ってくるワンピースやスカートの繊細なリボンやレースは、何度洗われても買ってきたばかりの時と同じシルエットを保っていたほどだ。だから私の母親がアル中であるという事実は、近所にも学校にも広まらなかったのだろう。それが私にとって幸運だったのか不運だったのかは、今になってもよく分らない。

 私が初めて男の背中の刺青を視認したのも、彼が洗面所で洗濯機を回しているときだった。その日男が買ってきたのは卵サンドで、卵が嫌いだった私はその卵サンドの卵サンドたる部分をスプーンですっかり削り取って食べていたのだが、そのスプーンを握っていた手もすっかり卵まみれになってしまったために、洗面所まで手を洗いに行ったのだ。 私が洗面所の擦り硝子を開けて中を覗いた時、男は身に着けていた黒いトレーナーを脱いで洗濯機に入れようとしていた。私の視界はすっかり金魚と流水紋と菊の花で埋め尽くされたのである。

 ドアに手をかけたまま唖然とする私に気が付いた男は、黙ったまま半分濡れたトレーナーを着直した。厚い布地に染み込んだ水が男の足もとまで滴っていた。私はどうしていいのか分からないまま、洗面台の前に立った。男はやはり黙ったまま、私用の赤いプラスチックの踏み台をセットしてくれた。

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