第6話 緊急避難

 あれはいつのことだったか、あいりが高校時代、好きになった男の人がいたが、好きにはなったのだが、自分で好きだという意識はなく、まわりがけしかけるくらいであった。

 まわりは、あいりとその男が別にくっつこうがどうしようが別にどうでもよかった。その時の話題として盛り上がればいいだけで、架けた梯子で屋上まで持ち上げておいて、後で梯子を外すようなそんな状態になりかねなかった。

 実際に、今まであいり以外の人に対し、似たようなことをして、その人がその気になった時には、まわりは誰もその人を意識していないと言った茶番が、日常のように繰り返されているのが、高校生というものではないだろうか。

 そもそも誰かを好きになるのに、人から言われて、

「言われてみれば」

 なんて考えるというのは、本当の意識ではないということではないだろうか。

 だが、あいりはそんな手には引っかからなかった。なぜならあいりは、女子高生の中でのそんな仕掛けに対して、他の人とはまったく違う意識を持っていたのだ。

 その意識の一つとして、あいりは「緊急避難」を感じていた。

 実際に経験したことではないので、どうしてこんな想像ができるのか、自分でもビックリしているが、これが想像を絶する妄想であるとすれば、ひょっとすると、自分の裏にある記憶が似たような経験をしたことがあるのかも知れないと思った。それは、記憶喪失になった後に感じた経験を、元の記憶を取り戻した時に忘れてしまっているかのような時、何かのきっかけがあれば、記憶喪失の間に育まれた記憶がよみがえってくるという発想である。

 ただ、この意識は、

「記憶として格納されたものは、意識と潜在意識を両方格納していて、その境目が分からないのではないか?」

 という思いである。

 つまり、夢や妄想と現実が混同してしまった潜在意識が記憶として格納される。だから、現実とは思えないので、

「以前に見た夢なんだ」

 という意識を持つのではないだろうか。

 だから、夢としての格納よりも鮮明であるため、リアルで生々しさがやけに残っている恐怖が夢にあるとすれば、恐怖だけを夢として記憶しているというのも分からなくもない。そう思うと、あいりの記憶の中で、最近よく意識して何度も読みがってくるのが、いわゆる、

「緊急避難」

 と呼ばれる記憶であった。

 緊急避難というと、いろいろあるだろうが、あいりが思い浮かぶのが、一台のボートに二人か三人が乗っていて、大海原を彷徨っているという状況である。

 台風のような嵐や大しけにあったのだろう。豪華客船か何かに乗っていて、詐称か何かして船が沈んでいく中、救命ボートでかろうじて逃れることができた仲間たちである。

 しかし、大きな船と一緒に沈んでしまった方がある意味、幸せではなかったかと思うほどの恐怖が、襲ってくるのは必至だった。

 状況はどう考えても絶望的である。誰かが助けてくれるという保証は皆無に近い。大海原で遭難し、今では海も嵐や大しけがまるでウソのように、静かな波を小刻みに刻んでいる。

 風もあるのかないのか、大海原はどこまでも続いている。

 次第に喉は乾いてくるが、これだけの水があるにも関わらず、飲むわけにはいかない。飲んでしまうと、喉の奥から火炎を噴き出すかのように、暑さと痛さで感覚はなくなり、そのまま呼吸困難を引き起こすことは分かっていた。

「まるで毒薬を服用したかのような苦しみだわ」

 と感じた。

 毒薬であれば、しばらくすれば死を迎えることができるが、海水を飲んで死ねるかどうかは分からない。無限の苦しみから気を失いことくらいはあるだろうが、意識が戻ってからが果たしてどうであろう。絶望的な状況が回復するわけではない。

 鬱状態の時に、

「一番楽しい時は?」

 と聞かれると、

「眠りに就く時」

 と答えるだろう。

 逆を聞かれると。

「眠りから覚める時」

 と答える、

 つまり、眠りから覚めた時、現実に引き戻され、死ななかったことでよかったと思うなどありえない。結局苦痛と恐怖の極致から、逃れることはできないのだ。

 一思いに殺してほしいという思いと、この状況でも、死にたくないという思いが共存している。だから、頭が混乱しマヒしてくると考えることは、きっといかにして生き残ることができるかということに尽きるのではないだろうか。

 緊急避難の場面は一度ミステリーで読んだのが最初だっただろうか。その場面を想像することはそれほど難しいことではなかった。情景と言っても、空と海しかない大海原に、ボートが一艘浮いていて、そこに二人か、三人が遭難しているのだ。

 髪の毛や髭はボーボーになっていて、その顔はどす黒く汚れている。服は元々の減刑をとどめてはおらず、敗れている。船が遭難し、命からがら逃げたのだから、服がまともだというのは不自然である。

 生き残ったことを最初は嬉しく思ったことだろう。しかし、それはあくまでも現実逃避の意識からで、気が付けばさらに最悪の構図を自らで選んでしまったことへの激しい後悔が襲ってくるのだ。

「俺たちが生き残れる可能性は皆無に等しい」

 誰もがそう思っているだろう。

 正直、もう生き残ることを望んではいない。早く楽になりたいというのが本音だ。しかし、死というものを知らず、その死を後は迎えるだけだと思うと、その恐怖は計り知れない。

 その恐怖は、生きたまま棺桶のような箱の中に埋められ、そのまま土葬にされた状況に似ている。この状況をミステリーなどでは、一番惨たらしい殺害方法だとして形容しているが、ボートでの遭難などが書かれることはあまりない。なぜなら、これは殺人ではなく、事故なのだから、事件として扱うことはできても、この恐怖を題材にするというのは、珍しいのではないだろうか。

「もっとたくさんあってもいいのに」

 と思ったが、逆にいうと、この状況の方が、生き埋めよりもさらに恐怖が強く、文章にするには難しいということを意味しているのかも知れない。

 生き埋めを想像するよりも、ボートで遭難する方を想像する方が、想像しやすいような気がしたのは、あいりだけであろうか。

 そういう意味で、あいりも一度はこの恐怖を文章にしてみようと試みたが、やはり経験したわけではないので、なかなか表現は難しかった。まだ、生き埋めの方が書けそうな気がするくらいだった。

 生き埋めに関しては、一度途中まで書いてみたが、やはり描くことができなかった。書いているうちに、精神的な堂々巡りを繰り返してしまうからだった。

「精神的な堂々巡り」

 その言葉の意味するものが何なのか、よく分からない、

 だが、堂々巡りを繰り返していながら、キリもみするように、どんどん落ち込んでいくのを感じていたのだ。

「それって、堂々巡りとは言わないのでは?」

 と思ったが、気が付けば、また同じ場所に戻っていた。

 要するに、まるで夢を見ているかのような感覚と同じであった。

 生き埋めと緊急避難では、根本的に違っている。それは、生き埋めは事故の場合もあるが、基本的に小説の中では、誰かによって仕組まれたものであること、しかし緊急避難は、事故によるもので、予測不可能だったことから起こったものであることである。

 緊急避難というのは、法律的には、人を殺したとしても、罪に問われないものだ。それは正当防衛と同じで、その事由が証明されれば、無罪になる。人を殺さないと自分が死んでしまうという状況が、極限状態の中で発生するという事由を証明できるかどうかがカギである。

 中には、昔の話であるが、緊急避難において、人肉を食らったという話も残っていて、それを映画にした作品もあったようだ。

 人間としての道徳と、それに伴う尊厳と、さらに生きようとする貪欲さが絡み合うことで起こってしまった悲劇。これも緊急避難と言えるのだろうか。

 あいりは、記憶喪失も一種の緊急避難なのではないかと思っている。実際の緊急避難という意味ではなく、言葉上の「緊急避難」。つまり、

「何か苦しい時に逃れるための場所を、自分の中で作っておく」

 という意味での緊急避難である。

 記憶を失ったというのは、果たして本当にウソではないと証明できるものなのだろうか?

 実際にはハッキリとしないだろう。ウソだという根拠もないのだから、記憶喪失だと医者が判断すれば、それは記憶喪失に違いない。

 その中の一つに、苦しい時に逃れる場所が精神的にあり、それが医者の診断の中で垣間見ることができているのかも知れない。医者でないのでハッキリしたことは言えないが、何かの事件で証人となった場合、どこまで証拠能力として信憑性のあるものなのか、何かの基準があるのかも知れない。

 記憶や意識が喪失し、まるで大海原に放り出されたような感覚になったのが、記憶喪失だとすると、大海原を目の前にした時、孤独感に苛まれるのであろうか。記憶を失っているということは、最初から孤独だったということでもあり、却って、まわりが何かをいうと警戒してしまい、人を遠ざけるだろう。

 それは本能によるものである。潜在意識と言ってもいいだろう。今までの記憶も意識もリセットされているのだから、誰を見てもその人は初対面のはずである。だから、警戒しないという場合があるとすれば、本能までもがマヒしているということになる。

「本能までマヒした人間など、存在するのだろうか?」

 道を歩いていて、赤信号なら止まり、青信号であれば進んでいいなどという感覚は本能が覚えているものであろう。

 その本能がマヒしてしまえば、もう一人で生きることはできなくなってしまう。本能という感覚がマヒしてしまうと、もう人間ではない。もし、そうなると、身体を動かすこともままならないのではないだろうか。いわゆる「植物状態」である。

 それはあくまでも極端な発想であるが、記憶を失ってしまうということは、本能をも失わなかったことをよかったと思うべきなのか、それとも、本能を失うということが、間接的な「死」を意味するという解釈になってしまうのであろうか。

 ただ、実際の緊急避難には、他に何人かいて、その人に対して危害を加えることを違法性を阻害していると見るものである。

 記憶喪失の中の緊急避難は、どこに行くというのだろう? 孤独の中の海を渡り、辿り着いたところがまた無人島だったりする。どこまで行っても、記憶喪失の中では自分一人で孤独なものではないだろうか。

 そんな中、まわりの人たちによって新たな意識や記憶が作られようとしている。しかし、それは緊急避難してきた本人の意識しないところで行われている。別の人格が形成されていると考えると、もし、記憶がどこかで戻れば、それまで蓄積された記憶を失ってからの人格も意識も記憶もすべてがリセットさせるのではないだろうか。

 そもそも、記憶を格納している部分は、元々の身体の持ち主である「本人」の場所である。

 一度記憶を失ってしまったからと言って、その後に新たに作られた人格を格納するスペースなどあるのだろうか?

「いや、待てよ?」

 そこまで考えてくると、一つ気になることがあった。

「人の脳というのは、十パーセントも使っておらず、まだまだ未知の力が潜んでいる」

 と言われているが、使われていない残りの九十パーセントの一部を使えば、記憶喪失だった時期の意識や記憶うや、人格すら格納できるのではないだろうか。

 そう思うと、多重人格と呼ばれている人は、ひょっとすると、まわりにも、いや自分自身にも分からないところで記憶を失っていて、それが自動的に回復する時、その途中に存在していた意識などを別に格納している場所があるのだとすれば、多重人格という考えもなまじ証明できないものでもない。

 また、デジャブという現象にしても同じではないだろうか?

 今までに見たことも聴いたこともないことのはずなのに、以前にも経験をしたことがあるような……、という発想。これこそ、自分の脳の中の無意識に形成された記憶を失っていた時期に作られた人格や記憶がよみがえってきたのだとすれば、それは説明のつかないことではないと言えるかも知れない。

 緊急避難という発想から少し脱線してしまったが、逆に言えば、緊急避難という四文字の言葉から、いろいろな発想が浮かんできて、これまで誰も想像もしたことのないような発想が浮かんでくるということもあるだろう。

 それこそ超常現象として、脳の使われていない部分を使うということと接点を感じるのではないだろうか。

 今までに見た夢の中で一番怖いと思ったのは、

「もう一人の自分」

 が夢の中に出てくることだった。

 しかも夢を見ている時、

――もう一人、自分がいるような気がする――

 と夢の中で感じたような気がした。

 つまり、予感めいたものがあったということである。

「もう一人の自分を見ると、その人はまもなく死ぬことになる」

 というドッペルゲンガーという発想、最初に自分が夢に出てきた時は、そんな伝説があるなど思ってもみなかった。

 もう一人の自分の存在がとても怖いという意識だけはあったが、なぜ怖いものなのか、ハッキリとしなかったのだ。

「世の中には、自分に似た人間が三人はいる」

 と言われる。

 しかし、これはドッペルゲンガーとも違う。ドッペりゲンガーというのはあくまでも自分であり、似た人ということではないのだ。

 またドッペルゲンガーというのは、その本人の行動範囲以外に現れるということはないという。

 海外旅行をしたことのない人を、

「アメリカで見た」

 と言っても、それはただ似た人というだけで、ドッペルゲンガーではない。

 ドッペルゲンガーというのは、かなり制限があり、見ることができるとすれば、それは結構レアではないだろうか。そういう意味でも、

「見ると死ぬ」

 という都市伝説もリアルな感じがしてくるのだった。

 夢の中で見る、

「もう一人の自分」

 というのは、ある意味、緊急避難が招くものだと言えないだろうか。

 何か気になるものがあり、そこから逃げようという意識はあるが、その気になるものが何なのか、漠然としていて分からない。

 分からないだけに恐怖を感じるのだが、その恐怖を煽っているのが、曖昧さだと思うと、一番夢の中での恐怖に思っているもう一人の自分を登場させることではないかというのも無理もないことなのかも知れない。

 そんなもう一人の自分を緊急避難として夢は使うのだとすれば、夢の中でもう一人の自分を見たことが、今回の記憶喪失という自殺未遂からの後遺症を引き起こしたのかも知れない。

 そして、その夢を見た時、

――ひょっとして、死にきれなかった時は、記憶喪失になっているかも知れない――

 という予感があったのではないかと思えるのだった。

 ただ、死にきれなかった場合に記憶喪失になるということは、それからの自分をリセットできるような気がしたことで、死ねなくても悪いようにはならないと感じさせ、自殺を容易ならしめたとも言えるかも知れない。

 どんなに思い切ったとしても、必ず躊躇いはあるものだ。特に今まで何度も自殺を試みて、一度も成功したことはないのだから、その思いは特に強いかも知れない。

 今までに何度も自殺未遂を試みて、今までに何度救急車沙汰になったのだろうか?

 今回が初めてではないだろう。警察の方でも、自殺志願常習犯としてマークされていたかも知れない。

 しかし、自殺をしようと考える人をいくら注意していても警察ではどうすることもできないだろう。四六時中見張っているわけにもいかないし、自殺する方も、いきなり自殺を試みるのだから、精神的な動きを察知していない限り、どうすることもできないはずだ。

 そう思うと、止めることはおろか、注意のしようもないものだ。

 緊急避難の発想と、夢の中での、もう一人の自分。そして、自殺を試みるということは、普通に考えれば、接点はないような気がするが、そこに何か一本の線を敷くことで一つにできるとすれば、

「自分の世界に、他人が入り込んできて介在すること」

 しかもその他人というのを、本人は他人だと思っていない。

 下手をすると、相手は何とも思っていない人なのに、自分の中だけで勝手に思い込んでしまい、自分で自分をマインドコントロールしてしまう。その他人を、もう一人の自分として意識してしまうことで、最悪なシナリオを描いてしまい、そこから逃れられない自分を想像する。そんなイメージが、緊急避難という発想で形づけられる。冷静に考えると、これほど怖いものはない。

 真美は入院するようになってから、少しずつ体調もよくなっていった。最初の頃は似顔絵を描くのも嫌がっていたが、それは自分が似顔絵を得意だということを信じられなかったからである。

 だが、

「これはあなたのものなんですよ。それにこれはあなたが掻いた絵なんですよ」

 と言われて、スケッチブックを見ると、自分が掻いた絵なのに、まるで美術館の展示絵を見ているような好奇心旺盛な目をしていた。

 元々絵が好きなので、上手に描かれている絵を見ると、

――私もこれくらいの絵を描けるようになりたい――

 と思ったとしても、それは当たり前のことであろう。

 しかもそれは自分が掻いた絵だという。記憶を失う前の自分がどんな絵を描いていたのか、実に興味があった。

「それにしても上手だわ」

 これが自画自賛でなくて、なんだというのか。

 だが、描いた本人が記憶を失っているのだから、絵の素晴らしさに感動したとしても、あくまでも自分が掻いたという実感がないのだから、無理もないことだ。

 自分の描いた絵を見ることで真美は精神的に落ち着いたようである。

 スケッチブックに描かれた絵は、人物画であったり、風景画であったり、建物であったりと、あらゆるものがあり、それぞれに特徴があった。

 真美の描く絵の特徴は、被写体によって、微妙にタッチが違う。まるで別人が掻いたかのような描き方で、繊細に描かれた部分と、大雑把な部分が、それぞれの被写体によって違っていた。

「まるで別人が描いたように見えるけど、これ本当に同じ人が描いたのかしら?」

 と真美がいうと、

「それはそうでしょう。あなたのスケッチブックなのよ。あなた以外に誰が描くというのかしら?」

 とあいりも真美がなぜそんな疑問を抱いたのか分からなかった。

 しかし、絵心がないあいりとしては、真美のその疑問がどこから来るものなのか分からなかった。

 あいりも小説を書くので、芸術的な視点は真美に近いものがあると思っていた。ただあいりが書く小説は偏っていて、いろいろなジャンルを書くというわけではない。被写体をいくつも描いている真美とはどうも見る視点が違っていると感じてきた。

 だが、いかにジャンルが違っていると言っても、こんなに違うものだろうか。医者もそのことには気づいているようで、

「どうも、山口さんは、多重人格的なところがあったのかも知れませんね。それに、これは非科学的な見地になるので、医者としては何とも言えないんですが、彼女には、私たちには見えない何かが見えているのではないかと思うんですよ」

「どういうことですか?」

「例えばこの絵なんですけどね」

 と言って、彼女が描いた絵の中で、西洋の城を描いている風景画があった。

 その絵の被写体が、写真からなのか、それとも自分の想像によるものなのか分からないが、角度と言ってもまるで写真の感じがするので、きっと元は写真だと追われるのだが、その絵の医者が指差したところは、建物の中心にある煙突の王な細長い建物に小さく開いている窓のような穴があった。

 黒く塗りつぶされているかのように見えたのだが。そこには、何か人の気配が感じられる。よく見えと米粒くらいの人が窓から顔を出しているではないか。

 かなり微妙な大きさで、

「これは見えていないと描けないものではないかと私は思うんですよ。実は私も絵を描くのが好きなので、この絵を見て最初に違和感を抱いたんですが、それが、この窓のところだと気付くまでには結構かかりました。ひょっとするとこの絵は、かなり優秀なものかも知れません。私のような駆け出しには分かりませんがね」

 と言って、笑ったが、医者は笑いながらも、じっとその絵を見ていた。

 彼女の中にも、この窓のようなものがあり、そこから外を覗いているのではないかと思ったのは、あいりだけだっただろうか。

「でも、彼女が多重人格ではないかと思うのは、結構信憑性が高い気がします。この絵を見ていて、それをハッキリと感じるんですよ」

 と医者は言った。

 真美はそれから、何かの絵を描いているようだった。それは似顔絵であり、真美は自分が一番得意なのは似顔絵だったということを思い出したようだった。

 それが彼女の思い出した最初であり、医者にそのことをいうと、

「これからいろいろ思い出してくるかも知れませんね」

 と言っていたが、あいりも、

――その通りかも知れない――

 と感じた。

 真美の絵は、前述のように、

「似顔絵って久しぶり」

 と言いながら、数日で完成した。

 その絵を見た時、あいりは愕然となった。

 そこに描かれている絵は、

「川本晋三」

 つまり、会社の同僚であるが、なぜ彼の絵を彼女が似顔絵として描いたのか、もちろん本人も分かっていないようだった……。

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