第5話 記憶と意識

 似顔絵を描くのが得意なのが真美であれば、文章を書くのが得意なのがあいりであった。しかし、得意というのは真美のことであり、あいりの方は別に得意だとは思っていなかった。

「書くのが好きなだけ」

 と思っていた。

 いや、もっと言えば、書くこと自体はそんなに好きではない。実際に物語を作って、それを文章化することで、形になるのが嬉しかったのだ。いわゆる自己満足を得られればそれでいいというものなのだが、そもそも趣味というのは、そういうものなのではないだろうかと思っている。

 真美のように絵を描く、しかも似顔絵に限定している場合は、そんなに毎日続けるものではないが、あいりのように文章全般、ただし好き嫌いという意味では激しいものがあるが、狭い範囲でも書こうと思えば、題材など無限にあるのではないかと思われる。そう思うと、毎日続けていてもいいだろう。実際に今でもほぼ毎日少しずつではあるが続けていた。

 毎日続けるのには、あいりなりに理由があった。

「私、結構忘れっぽいのよ」

 と、文章を書いていると、いつもその世界に入り込んで書いている。

 だから、自分では十分くらいしか書いていないと思っていても、実際には一時間も経過していたなど、ざらにあったりする。それだけ集中しているのであろうが、集中しているということは自分の世界を形成し、その中に入り込んでいるということでもあり、我に返って元の世界に引き戻されると、もう一度その世界を形成するのに、また集中しなければならない。それをあいりは、

「忘れっぽい」

 と考えるのだった。

 あいりのいう、

「好き嫌い」

 というのは、ジャンルであったり、文章作法などである。

 ジャンルとしては、基本的にノンフィクションは書きたくない。ノンフィクションのように実際にネタが存在していて、それを忠実に書くというのは、まるで写生しているかのようではないか。

 真美の趣味である似顔絵などもその一つで、自分が絵を描くことができないのは、

「忠実に書き写すということを毛嫌いしているからではないか?」

 という思いがあるからで、きっとそんなことではないと分かっているつもりなのだが、どうもそれだけではないのだろう。

 あいりは一時期、

「小説を書き始めてから、本を読むのをやめた」

 と言っていたが、その理由として、

「自分の筆がブレるから」

 と答えていた。

 しかし、それは厳密にはウソであり、意識としては筆がブレるというのは、その人の文章をまねるという、猿真似になってしまうことを嫌ったからであった。

 ただ、それは言い訳であった。その人の書く文章ではなく、発想に、自分の考えが惑わされるのを嫌ったのである。

 あいりは、

「自分は文章を書くのが苦手だと思っているけど、文章のネタになる発想をするのは得意なのではないだろうか」

 と思っていた。

 だから、人の本、特にプロの小説を読んで、まるで盗作のような気持ちになるのが、物語を作るのが得意だと思っている自分のプライドを、傷つけるのではないかと考えるからであった。

 最近では、本も読むし、小節も書く。だが、そのジャンルは違うものだった。

 実際に読む小説は、ノンフィクションであり、ジャンルとしては、歴史ものばかりである。しかし、自分が書くのは、フィクションであり、ジャンルとしてはミステリー、オカルト系が多かった。

 読むものと書くものとの間に接点がなければ、ブレることもない、それがあいりの考えであり、他の人が思っている以上に、読書と小説執筆の間に距離を置き、さらに結界のようなものを儲けているのだった。

「小説を書いていると、すべてを忘れられるような気がする」

 というのが、最初に書き始めた率直な動機だった。

 勉強が嫌で、友達と一緒にいるのも嫌な時期があったことで、そんなネガティブな気持ちになったのかも知れないが、今から思えば、

「自分以外の人が別の趣味を持つのも似たような気持ちがあるからなのかも知れない」

 と思った。

 口ではポジティブなことをいうかも知れないが、実際に皆そうであろうか。小説を書くのも、他の芸術的な趣味であっても、またそれ以外のスポーツなどであっても、同じなのではないだろうか。

「何かから逃げたい」

 という逃避行が趣味にその人を駆り立てるという場合も無きにしも非ずである。

 そういう意味では真美の似顔絵というのも同じなのかも知れない。

「似顔絵を描いていると、嫌なことを忘れられる」

 という思いである。

 ただ、忘れられると言っても、それは一過性のものであり、完全に忘れられるわけではない。それでも趣味に没頭するというのは、何かに集中するということの素晴らしさを実感しているからだと、あいりは感じていた。

 小説を書いていると、時間の感覚がマヒしてくる。その世界に没頭し、書いていることが自分の人生そのものに思えてくる。しかも完成した時の充実感たるや、味わったものでなければ分からない。

「他の人ができないことを、自分だけができるんだ」

 という思い、他の人という範囲が自分のまわりという限定的なものでも構わない。限定的な範囲であるからこそ、余計に自分にリアルさとして返ってくるのであろう。

 確かに嫌なことを忘れられるというだけではないような気が次第にしてくる。

 書き上げた時の充実感、さらに誰かの目に触れて、評価されるかも知れない。あるいは、評判になって、プロデビューなどという、大それたことを考えたりもする。

 しかし、考えるだけならタダなのだ。誰に咎められることもない。人に話せば、

「何をバカなことを」

 と言われるかも知れないが、一人で抱え込んでいる分には、誰から非難されることもバカにされることもない。

 あいりは、小学生の頃から、国語は嫌いだった。特にテストなどでは、どうしても例題の文章をまともに読まずに回答を焦ってしまうくせがあった。そのため、文章を理解できずに回答するため、トンチンカンな回答になり、国語の成績はいつも最悪だった。

 中学に入ると、本を読むのが好きになっていったのだが、それでも最初はどうしても端折ってしまうくせが抜けていないため、セリフばかりを読んでしまうというおかしな読書法になっていた。

 そんな人間に小説など書けるはずがない。それでも小説を書きたいと思うのだから、本というものの魔力はすごいもので、あいりはその魔力にすっかり充てられてしまったのだろう。

 小説を読むと、情景が頭に浮かんでくる。そんな書き方ができれば、今のところはそれだけでよかった。確かに、

「小説家になってプロデビューしたい」

 などという大それた考えもあったのだが、それはまだまだ先のこと、夢というのは段階を持って突き詰めていく方が、楽しめると思っていた。

 一気に上り詰めてしまうと、後は現状維持に甘んじるか、落ちていくだけである。上り詰めたこともないくせに、何を言っているのかと思うのだが、小学生の頃にあれだけ端折っていた自分が、本を読んだり小説を書くようになると、次第に端折ることもなくなってきた。

 これは意識しているわけではなく、無意識のことであった。やはり無意識に潜在している意識というのは、その人をいい方に導くのではないかと思ってもいいようだった。

 だが、本屋で売っている、

「小説の書き方」

 であったり、ネットなどにも載っているハウツーものには、当たり前のことを当たり前にしか書いていない。

 ハウツー本というものが、そういうものであると分かっていなかったあいりは、読んでいると、どこか違う世界に連れていかれそうで気になってしまった。

 だが、アイデアは結構いろいろと生まれていた。メモ帳を絶えず携帯していて、気になったことがあれば、それをしたためておく。それが小説を書く姿勢なのではないかと思った。

 ハウツーものをよく親は勧めていた。いわゆる、

「自己啓発」

 と呼ばれるもので、何か一つに特化したことではなく、

「人が生きていくうえで何が大切なのか」

 などという、お堅い本である。

 あいりはそんな本を読むのが大嫌いだった。

「虫唾が走るとはこういうことを言うんだ」

 と思うくらいだった。

 書いてあることは、どんな本も同じ、政治家の偉い先生が、官僚の書いた原稿を棒読みしているような感覚だ。

 つまり、本当に分かっているのか、自分でもよく分からない。分かっているつもりになっているだけでは、読むだけ無駄である。無駄なだけならまだいいが、分からないことを分かったつもりになっていると、まわりに対して、

「自分は分かっているんだぞ」

 という態度を取ってしまうだろう。

 そんな態度を取ると、相手の感情を逆なでしてしまいかねない。それを分かっていないだけに、

「自分のことは棚に上げて」

 などと言われてしまうのだ。

 どこか高飛車になってしまうのは、自己啓発本が、どうしても上から目線だからではないだろうか。どの本を見ても似たようなことしか書いていないくせに、自分だけが先生であるかのような態度に対して、どうして読んでいる人は違和感を抱かないのだろう。だから、自己啓発本を読んでいる人が他人に注意や指導をする時は、どうしても上から目線になってしまう。そんな相手に誰が従うというのは、もし従うとすれば、同じ宗派の宗教団体であったり、政治団体などの、胡散臭い団体くらいのものである。

 だから、宗教団体などは、マインドコントロールなどと言われて、世間から隔絶した世界に入り込み、挙句の果てに、テロ集団と化してしまわないとも限らないだろう。

 古今東西の歴史を見ると、それは証明されているようで、あいりは、そういう意味でも絶対に自己啓発などには乗らないと思っていた。

 それは、自分のまわりの人は皆同じで、同じ考えを持った人が集まるというのも当たり前のことであって、それを、

「世間の皆は同じような考えなのだ」

 と考えると、またロクでもない方向に考えが向かっているようで、少し怖くもあった。

 あいりは小説を書いている時、いつも自分の世界を作っている。集中するということと自分の世界を作るということは別物であることから、自分の世界を作り終わるまでは、集中できないとも思うようになっていた。

 小説を書いていると、前にも書いたと思うが。一度我に返ってしまうと、それまで書いていた内容をほとんど忘れていることがほとんどだった。

 最初は自分が、

「健忘症になったのではないだろうか?」

 と思ったほどだったが、自分の世界を作って、その中で集中するのだから、それも当然と言えば当然のことであろう。

 我に帰ると、現実という他の人との共有の世界に戻される。そこは決して自分の意識で思うようになるところではない。自分の世界というのは、実際に自分の考えている通りになるところであり、まるで夢を見ているかのような感覚になるのだろう。

 だが、夢というのは、本当に自分の思い通りになる世界なのだろうか。

「夢というのは、潜在意識が見せるものだ」

 とよく言われるが、では潜在意識とはいったい何なのだろうか?

「潜在というのは、無意識のことである」

 と本には書いてあった。

 つまり、無意識の中での意識が見せるものだという、これも分かりにくい理屈であるが、自然な感覚、つまり、

「意識をする必要のない自分の中に備わっている能力」

 と言えるのではないだろうか。

 心臓の動きであっても、意識することなく絶えず動いている。止まってしまうと死んでしまうということは、知らないことだったが、学校で習った。だが、実際には自分の身体のことなのだ。知っていて当然だ。だから、どうして心臓が止まると死んでしまうのかなどという素朴な疑問が湧いてくる余地がないのだ。

 それを、

「無意識の中の意識」

 と呼ぶのではないだろうか。

 夢というのは、怖い夢ほど忘れるものではない、そう思って思い出してみると、楽しかった夢は実際に覚えていることはない。

――夢って怖い夢しか見ないのかしら?

 と思ったこともあったが。そう思っていると、それ以降、怖い夢も見た記憶がった。

 だが、覚えている部分は一部分だけで、しかも、ちょうどいいところで切れている。まるでドラマで、肝心なところで、

「また来週」

 と言われたようなものだ。

 ドラマであれば、来週になれば、その続きを見ることができるが、夢は二度と見ることができない。なぜなら、一度は見ているからだ。そう思うと、夢というものが、決して見る人に都合よく見ているわけではなく、むしろ都合の悪いようにしか見せていないように思う。

「夢の中なんだから、なんだってできるんじゃないか?」

 と思ったことがあるが、それは間違いだった。

 夢を見ている時、油断は決して感じることのない、

「これは夢なんだ」

 と思った時があった。

 その時、

「どうせ夢なのだから、空だって飛べるはずだ」

 と思い、空を飛ぶシチュエーションに持って行ったが、さすがに夢であっても、高いところから飛び降りるのは怖いので、痴情から飛び上がろうと試みた。

 すると、宙に浮くことはできたのだが、そこから先は思うように進まない。まるで空間という水中に身体が漂っているというだけで、平泳ぎのように漕ぐことで、気持ち進むことができるだけだった。浮いている場所も、人間の腰くらいの高さで、それ以上高くも低くもならない。どうやら、この状況は、

「宙に浮く」

 という感覚を普段意識した場合の現象であった。

 空を飛ぶことはできないが、宙に浮くことはできるという中途半端な状況に、やはり夢は自分の都合のいいようには動いてくれないが、あくまでも、それは自分の意識の中の限界までは挑戦しようとはしているように思えた。

 そんなことを考えていると、ふと思ったのは、

――記憶を失った真美は。夢を見るのだろうか?

 という思いであった。

 記憶を失ったからと言って、潜在意識がなくなったわけではない。潜在意識というのはどちらかというと本能に近いものを感じる。記憶喪失者でも、本能は残っているのだから、本能が見せるのが夢であるならば、夢は見るものだと考えるのが普通であろう。

 だが、意識を保持している人間が夢を見る時、意識の範囲外で夢を見ることはできないのだとすれば、記憶という意識を失った人間は、その範囲内でしか夢を見れないのだとすれば、

「夢を見ることは不可能だ」

 ということになるのではないだろうか。

 そもそも真美は記憶を失ったのであって、意識を失ったわけではない、ここの意識というのは、気絶するという意識ではなく、

「記憶に対しての意識、つまり、潜在意識に対しての意識」

 として考えてほしい。

 あいりが考えている意識と記憶の違いというのは、

「まず、何かをする時に考えて行動するのが意識であって、その瞬間を現在として考えるものだ。しかし、未来が現在になり、すぐに過去になる。現在というものは一瞬で、すぐに過去になるように、現在を意識とするなら、記憶は過去のものとなる、つまり、現在に意識したものが過去になり記憶になると考えると、『果たして記憶と意識は違うものなのか?』と考えると、その結論は難しいだろう。意識の延長を記憶だと考え、記憶は蓄積されるものだと思うと、似ているように思うが、意識にはない蓄積が入ってきた時点で、意識とは違うものだという認識も出来上がってくる。考え方はいろいろあるが、あまり二つを意識して考えたことのなかった時は、記憶と意識はそれほど変わりのないものと思っていたが、その二つを並べて改めて考えてみると、この二つには蓄積という意味で、違うものだと考えるようになってきたのだ」

 と、いう論理的な発想を思い浮かべるのだった。

 その感覚が夢というものに発展したのだとすれば、夢を見るための潜在意識は、記憶というものを結び付いていると考えられないだろうか。意識と潜在意識がある意味正反対であり、記憶と潜在意識が近いものだと考えるなら、記憶と意識というものも、実は正反対のものだというのは、飛躍しすぎた考え方であろうか?

 しかし、この三段論法にはかなりの説得力を感じるが、それは常人にバカにされそうな大それた発想でもあったりする。

 あいりが書くミステリーやオカルト系の話には、夢をモチーフにしたものも多かった。夢というのは、寝て見るものもあれば、起きてから見る夢もある。起きてから見る夢というのは、追いかけるもので、達成を目標とするものであり、寝ている間に見る夢とは違う。また達成を目標いしない夢も中にはある。ただ、これをあいりは夢だとは思わない。例えば、宝くじに当たったり、ギャンブルで大穴を当てたりするという、いわゆる「他力本願」によるものだ。

 あいりは、他力本願で達成される夢と目標を立てて、それを達成するするために努力するものとを同じ土俵にすることを特に毛嫌いした。その発想が小説を書く上で、派生的に少し屈折のある感覚として芽生えているようだ。

 フィクションは書くが、ノンフィクションは書かないというのもその一つであり、ノンフィクションのように、最初からストーリーが決まっているものを、ただ表現するだけのものを小説として自分では認められないとまで思っていた。

「そんなものっはただの作文じゃないか」

 という発想である。

 ただ、あいりの中でもすべてはフィクションでなければいけないというわけではない。大まかなストーリーはフィクションでなければいけないと思うが、細かなところは、経験によるものを書いてもいいのだと思っている。逆に小説というものを。

「自分の経験したことを膨らませることしかできない」

 と思っていた。

 これは、

「夢というものが、潜在意識、つまり本能の中にしか存在しえない」

 という感覚に似ている。

 いくら、

「フィクションを書きたい」

 と言っても、経験していないことや。想像の域を超えるようなものは、どんなにあがいても描くことはできないのだ。

 もし、それができるとすれば、相当な理論に基づいた小説であり、誰をも納得させられる理論の元に、自分の作り出した世界を証明できなければ無理なことであろう。

 それは、平行線がどこかの一点で交わるかのような矛盾に満ちているような気gする。そして潜在意識と意識、そして記憶がどこかで融合しなければいけないのではないかとも思った。

 今真美は記憶を失っていて、今の記憶は、喪失した瞬間から始まっている。

「では、喪失した記憶が戻ってくれば、喪失してから生まれた記憶はどうなるというのだろう?」

 という疑問は、前述のように生まれてくるはずだ。

 普通に考えれば、その記憶は消えてしまうように思う。。考え方としては、表に出てこないように封印されるものだとも言えるかも知れない。あいりは実際にそうだろうと思っていたが、最近では少し違った考えを持っていた。

 元々の記憶が戻るということは、記憶が戻ったことによって、元々が歩むはずだった道とは別の道を歩んでいるのではないかという考えである。

 タイムマシンなどで過去に行き、過去を変えてしまうと、そこから未来が変わってしまい、本来の未来とはまったく違った未来が開けてしまうという考えと同じである。

 だが、そこからの運命はまるで何もなかったかのように進んでいくであろう。何と言っても、未来に対して何が正しい、本来はこんな未来だったのだということを証明できないからである。

 だから逆に考え方は無限に存在しているとも言えるのではないだろうか。その中に正解を求めるのは無理なことであり、そうなると、記憶を失ったことも、記憶が戻ったことも、最初から決められていたことだと考えるしかないではないか。

 そういう意味で、

「運命は変えることができる」

 というポジティブな考えを主張する人がいるが、すべてのことを網羅する考えを、いかに矛盾を少なく考えるかとすれば、

「運命は最初から決まっていて、変えることはできない」

 と考える方が、一番しっくりくるのではないだろうか。

「何が起こっても、そこには必ず意味がある」

 という人がいるが、その考え方の方が、運命は変えられると言っている理屈よりもよほど説得力があり、必ず意味があるのであれば、何が起こっても、それは最初から決まっていたことだという理屈になり、やはり運命を人間が変えられるなどという理屈は大それたことだと言えるであろう。

 それが記憶と意識にも言えることで、それぞれを正反対のことだと考えると、この二つは表裏にあるもので、どちらかが表に出ている時は、どちらかが後ろにある。決して交わることのない平行線のようなものだと考えるのが、妥当ではないだろうか。

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