第4話 似顔絵
その言葉を聞いて、刑事さんも一瞬ビックリしていたようだったが、それほど落胆ではない。とりあえず命が助かって意識も戻ったのだから、それだけでもよしということであろうか。調書を作る必要があるのだろうが、遺書と思しきものも見つかっていることで、きっと警察は、
「失恋を悲観しての自殺ということで、事件性はないとするんだろうな」
とあいりは思った。
だが、あいりとしては、それで済むとは思わなかった。気になるのは、遺書と思しきものにあった、
「Kさん」
という言葉である。
自殺する意思があってしたためた遺書であるにも関わらず、どうして実名にしなかったのか。失恋からの自殺であれば、恨み言たらたらでもおかしくないはずなのに、いまさらイニシャルなどというのもおかしなものだ。もしあいりであれば、
「イニシャルにするくらいだったら、遺書は書いても、彼の話を書くようなことはしない」
と思った。
そこに、オンナとしての精神的な矛盾があるような気がしていた。
これは、相手が誰であるかという以前の問題であり、いくら彼女の精神が錯乱状態にあったと言っても、遺書をしたためるだけの冷静さはあったのだ。きっと自殺を試みる寸前まで、精神的な迷いのようなものがあったのではないかと推測される。
しかも、真美が自分の知らない間に彼氏と付き合っていたのだとすれば、衝撃的な事実である。真美は確かに秘密主義なところがあり、いきなり、
「私、〇〇ファンなの」
と言って、まわりをビックリさせることもあった。
「ええっ、そうなん?」
と皆に言わしめてほくそ笑んでいる。
それは、皆がビックリする姿が見たいからなのか、それとも、ビックリさせている自分に対して誇張を感じるからなのか、それはよく分からなかった。ビックリする姿が見たいという思いと、自分を誇張したい思いとでは似ているように思うが、受動的、能動的という意味では正反対である。似たような内容であればあるほど、受動と能動が違っていれば、その感覚はまったく違うものだと、あいりは感じていた。
真美の自分の知っている性格からすれば、好きになった人がいたとすれば、付き合うようになるまでは、決してその名前を明かすことはない。付き合うようになれば、名前を明かし、付き合っているということを公表するような気がする。
つまり真美という女性の性格は、
「決定するまでは決して人に知られないようにして、決定してしまえば、皆に公表しないと気が済まない」
というものではないかと思うのだった。
そう思うと、
――彼女は、Kという男性と付き合っていたわけではない。片想いだったのか、それともまだ発展途上なのか――
であろう、
しかし、発展途上であれば、自殺をする理由としては、浅いのではないだろうか。ひょっとすると、鬱状態に入ってしまったために、何事もすべてにおいて、自分を否定してしまって、相手を思う気持ちが普段以上に強くなり、依存症の状況を作り出したとすれば、それは自殺へ向かう精神状態としては、十分にありえるのもではないだろうか。
あいりは、そこまで考えると、その考えが一定の説得力があるのに気付いた。
しかし、次の瞬間、
「待てよ」
と感じた。
その思いは、やはり矛盾から来るもので、しかもそれは表に出てきている事実に基づいていた。それは他でもない、
「トイレの便座シートが上がっていた」
という事実である。
前述の通り、女性の一人暮らしである真美の部屋では、普通ならトイレの便座シートが上がっていることは考えられない、大小ともに、座って用を足すのであるからである。
だから、少なくとも最後にトイレを使ったのは、男性であると言わざる負えないだろう。
Kという男性が真美の唯一の思い人であれば、遺書から考えられるKという男性との関係とは矛盾しているように思えるのだ。
真美の家族が来ていたという考えも少し違うような気がする。もし、家族が来ているのであれば、あいりに来てほしいとは言わないだろう。ひょっとすると、家族のことで相談があったのではないかという想像も成り立つが、真美のような性格の女性が、いくら仲がいいと言っての、家族のことで相談するとは思えない。
なぜなら、あいりは、真美の家族を知らないからだ。
家族構成もあまり聞いたことがないのに、いきなり相談するというのもおかしな気がした。相談するのであれば、少なくとも家族のことを知っている相手でなかればいけないだろう。それなのに、まったく家族のことを知らない相手に相談するなど、
――原始時代までしか知らない人に明治維新の話をするようなものである――
と言えるのではないだろうか、
真美の几帳面なところは、人と話をする時もしっかり段階を追って話すところでも伺うことができる。いくら精神状態に支障をきたしているとしても、この基準に狂いはないような気がする。もっとも自殺をするところまで追いつめられているのだとすれば、その考えも信憑性は疑わしいものである。
ただ、真美の部屋には、表立って見えるところに、男の影はないということだった。部屋に連れ込むことがないだけで、実際には付き合っているのかも知れない。それは分からなかったが、もし、そうであるとすれば、かなり計画的な付き合い方をしていたことになる。
真美が計算高いのか、Kという男性がそのあたりを指示していたのか、ただ、お互いに人に知られることを望んではいないのだろう。
ただ、それも二人が付き合っていたという前提の元であり、それがどこまで信憑性のあるものなのかが怪しいだけに、すべてが想像の域を出ない。しかも肝心な本人の記憶が飛んでしまっているというのはどういうことなのか、真美には想像ができなかった。
また、真美という女性が体裁を装うということに対して、矛盾した考えを持っているというのも、今から思えば感じていたことだった。
服装などはある程度、何を着ていても構わないという性格であった。別に普通なら奇抜でないものでも、その場で着るには目立ってしまって、奇抜に忌めるという雰囲気の服は結構着ていたりする。
誰も違和感を覚えながらもそのことを指摘する人はいない。それだけ本人が自信を持って着ているように見えるからだ。
――自信を持ってやっている人に対して、注意をするということはおこがましいことだ――
と言えるのではないだろうか。
だから、あいりも真美に対して余計なことは言わない。だが、あいりが言わないのは他の人と少し違う考えを持っているからだった。
――真美ちゃんに対しては。何を言っても同じだから――
という思いであった。
真美という女性は性格的に、人から注意をされても。注意されたことで逆ギレしたり、羞恥で顔が真っ赤になるようなそんなタイプではなかった。どちらかというと、注意されると、恐縮して甘んじて聞くのだが、本当に分かって聞いているのか分からないところがあるのだ。
つまりは、受け答えはいいが、聴いたことが右から左に抜けてしまって、真剣に聞いていないという風に見えるのだ。
きっと他の人は真美のそんな性格を分かっているのではないだろうか。だからこそ、
「話をしても無駄なんだ」
と、まるで、
「暖簾に腕押し」
状態を想像してしまうのだろう。
いくら力を入れて押したとしても、それはすべてを吸収されて、力を入れただけ損になってしまうというものである。
そんなところがあるくせに、普段は几帳面なのだ。
真美の場合、その境界線が分からないのだ。几帳面でも大雑把なところがある人は、何も真美だけではないだろう。しかし、少々仲良くなれば、相手の行動パターンや性格のパターンが分かるというものなのに、真美の場合は、その共通点が見つからないのだ。
あいりが真美をほぼ毎日見舞った。
行けない日があったとしても、二日と開けることはなかった。真美はあいりのことも分からないらしく、
「お友達なのよ」
というとニッコリ微笑むだけで、分かっているのか分からっていないのか、反応から察することはできなかった。
だが、あいりが毎日来てくれるのはありがたいらしく、あいりが一日開けると、あいりの方ではそんなに開けているような気がしていないのに、真美の方は、まるで一週間ぶりに見たかのように、
「久しぶり」
と言って、実に嬉しそうな顔をする。
――こんな真美の表情、今まで見たことがなかったわ――
と感じた。
記憶喪失と言っても、潜在的に、つまり無意識で行動することを忘れたわけではない。例えば生理現象であったり、食欲や睡眠のような欲という部類もものであれば、普通に覚えているものである。
もっとも、潜在的なことを忘れてしまうと、下手をすれば身体の機能すら覚えていないことになり、絶えず動いていないといけない心臓だって止まってしまうかも知れない。極端な例であるが、それを考えると、生理現象や、欲というものを覚えている理屈にはなるというものだ。
真美の症状について医者の見解としては。
「普通の性格にはまったく支障はないと思います。ただ、自殺した時のショックからなのか、それとも生き残ってしまったことで、自分の中に何か後ろめたいものを感じているからなのか、どうも彼女の記憶喪失には、意識的なものが潜んでいる気がします。つまり逆にいえば、彼女の中にある意識的な原因というものを忘れてしまうことが、彼女の記憶が元に戻る一番の方法ではないかと思っています」
というものだった。
ただ、先生は補足として、
「これはあくまでも、私の独自の考えであるので、信憑性を問われると、なんとも言えませんがね」
と言っていた。
補足部分は若干の言い訳のようだが、これを前提にしておかなければ、勘違いされても困るというのが、医者側の見解なのかも知れない。
真美は、今の自分の記憶がないことに対して、別に悔やんでいる様子はない。ただ一つ言えることは、今までの真美にはなかった、
「寂しさ」
という感覚が芽生えたということだった。
記憶を失うまでの真美は、寂しさというものをあまり感じない女性だと思っていた。一人でいることも結構多く、
「私は一人が似合う女性なのよ」
などと笑って言っていたくらいだから、きっと、人との煩わしさよりも、一人でいることを選ぶ、そんな女性なのだ。
几帳面なところも、そんな性格から来ているのかも知れない。
真美にとって自分がどんな性格だったのか、その記憶もないようだ、ただ、先生の話として、
「実際には覚えていて、記憶の奥に封印しているのかも知れないですね。つまりは意識的に忘れようとしているということです。つまり、記憶喪失で記憶を失うというのは、意識的なところであり、無意識な部分は基本的に覚えているということなのだと私は思っています」
と言っている。
さらに、
「記憶を失うのが一瞬なように、記憶が戻るのも一瞬ではないかと思います。でお、これはその時の状況にもよるんでしょうが、記憶を失うまでの記憶が戻ったかわりに、記憶を失ってから新たにできた記憶を失いということも往々にしてあったりします」
と言っていた。
今、真美と一緒にいて、真美が自分に対して依存的な気分になっているとして、あいりしか信用できる人がいないとまで思っているとすれば、その後記憶が戻って、その時の記憶を失ってしまっていたとすれば、どうなるのだろう。確かに押し付けはいけないのだろうが、それではあまりにも寂しすぎるのではないかと思う。そのことを思うと、真美は自分が何を考えているのか、不思議な気持ちになるのだった。
あいりにとって真美は自分では友達だと思っていたが。真美にとってあいりはどうだったのだろう? 冷静に考えてみれば、友達として何かの相談を受けたこともなかったし、一緒にどこかに出かけても、お互いに好きなことをしていたような気がした。
あいりと、真美は趣味では、ある意味共通してはいたが、相手の趣味に対して、
――自分にはできない――
と感じることであった、
共通点といえば、
「どちらも芸術的なこと」
というべきであろうか。
真美の場合は芸術と言ってもいいかも知れないが、あいりの場合は曖昧なところがあり、
「全般」
という言葉が後ろについて、初めて芸術として成立するのではないかと思わせた。
ただ、この趣味はあくまでも趣味であって、得意不得意という前提とは違っていることを先に述べておいた方がいいだろう。だからこそ、あいりの中で、
「全般」
という言葉が許されるのかも知れない。
真美の趣味としては、
「絵を描くこと」
だった。
しかも真美の場合はあいりの趣味に対して全般という言葉が付くのとは逆に、絵と言っても限定されている。ただそれは自分で言っているだけで、まわりは、絵全般を描くのがうまいと思っているようだ。真美による謙遜なのだろうが、それも真美の性格の一つなのかも知れない。
真美が自分の中でうまく描けると思っているのは、
「似顔絵」
だった。
人の顔をその通りに描くだけではなく、時にはマンガチックに。時には劇画調にも描くことができる。そういう意味では、真美は趣味というものを、
「得意なもの」
と同意語で考えているようだ。
しかし、あくまでも趣味は趣味として、得意不得意は関係ないと思っているあいりとすれば、
「得意不得意を前提にされると、私は趣味がなくなってしまう」
と思っていた。
それにしても、真美の似顔絵は、会社の人も一目置いていて、たまに人からも頼まれるという。
他のことでは、あまり人と関わることをしない真美だったが、趣味に関係することであれば、頼まれれば嫌とは言わない性格のようで、
「しょうがないわね」
と、普段見せたこともないような笑顔を見せて、引き受けてくれる。
だから普段があまり関わることがないからと言って、真美を嫌う人はあまりいない。やはり、似顔絵のエピソードを聞いているからであろうか。
「山口さんから似顔絵を描いてもらえると、その後いいことがある」
という都市伝説が生まれた。
もちろん、何の根拠もないのだが、一度か二度、そういうことがあったのだろう。話に尾ひれがついて、真美の似顔絵は人気になった。
それがここ一か月くらいのことだったので、あいりの中では、
――似顔絵を強要されるストレスも自殺の一因なのかも知れない――
と思った。
だが、さすがにそのことは警察にまで話していない。それよりも、警察としては、何とかK氏と真美の関係を結び付け、自殺の原因にしたいだろうから、少々の細かい情報はメモくらいはするかも知れないが、すぐに頭の中から消えてしまうに違いない。
もっとも警察としても、本人が未遂であり、生き残ったこと、そして記憶を失っていることから、それ以上の余計な捜査は不要と感じたのだろうか、刑事が一度か二度見舞いに来た程度で、それ以上は何も音沙汰がなかった。警察もそれほど暇ではないらしい。
だが、それも今だけのことで、少しすれば、真美の入院している病院に来ることになるのだが、それはもう少し後のことであった。
あいりは、真美に似顔絵の話をすると、
「そうそう、私、似顔絵を描くのが好きだったんだわ」
と、他のことは忘れていたのに、似顔絵のことはちゃんと覚えていた。
――本当に好きなことは、記憶を失っていても、表に出ている数少ない記憶として残っているのかも知れないわ――
と、あいりは感じ、晴れやかな気分にさせられていた。
真美は、あいりにスケッチブックと、絵の道具を持ってきてもらうように言った。彼女の部屋はもうすでに警察の調べはとっくに済んでいて、汚れた風呂場も管理人からの要請で綺麗にされていた。さすがに後から請求は来るだろうが、それでも敷金から賄える程度のものであろう。
管理人としても、真美がこれ以上自殺を試みなければ、なるべくなら真美に住んでほしいと思っているだろう。いくら生き残ったとはいえ、自殺未遂をした部屋など、誰が借りるというのか、普通であれば、事故物件になりかねない。それであれば、責任をもってそれ以降も住んでほしいと思っていた。
もっとも、管理人は真美が記憶を失っているところまでは知らない。とりあえずは、今現状での話であった。だから、あいりが、
「入院中の山口さんから頼まれて、絵の道具を持ってきてほしいと言われたんですが」
というと、管理人も、
「じゃあ、私が立ち合いの元、扉を開けますね」
ということで、あいりとしても、その方がよかった。
何もないことは分かっているが、管理人ともども、後から何かが無くなったと言われるのも嫌だったからだ。
真美の絵の道具は幸いなことに、すぐに見つかった。あいりとしては、
――もっと時間が掛かるんじゃないか?
と思っていただけに、早く見つかってよかったと思っている。
絵の道具を手に、病院にやってきたあいりを、真美は心待ちにしていたようだ。
どうやら、最近の真美はあまり絵を描くことはしていなかったようで、
「じゃあ、何をしていたの?」
と、返事がないのは分かっていたが聞いてみると、やはり、何も返事が返ってこなかった。
真美はよほど興味のあることだけを覚えているようだった。
あいりから受け取った絵の道具を、真美はさも大事そうに、まるでいとおしむように触っていた。
「私は本当に絵が好きだったのね」
とあいりに聞くので、
「ええ、そうよ」
と答えはしたが、実際には真美が絵を描いているところを垣間見たことは、自分の似顔絵を描いてくれている時だけだった。
「今まで何人くらい描いたの?」
と聞くと、
「五十人くらいは描いた気がするわ」
というではないか。
自分の書いた人数を大体ではあるが言えるということは、その人数には自分なりの信憑性があるのだろう。そう思うと、真美の記憶が結構自分の都合で作用されているように思えて、
――人の記憶なんて、結構曖昧なものなのかも知れないわね――
と感じた。
「私の似顔絵を描いてくれたの覚えてる?」
と聞くと、
「覚えているわ。あいりさんは結構じっとしているのが億劫だったのかも知れないって思っているの。結構身体がきつかったでしょう?」
と言われたので、
「ええ、確かにそうだわ」
と言ったが、これは本当のことだった。
あいりは、真美が自分を描いてくれた時のことを思い出した。あの時も、
「似顔絵って久しぶり」
と言っていたっけ。
元々中学生くらいの頃、似顔絵を描くのが好きだったようで、しばらく描いていなかったという。実際に五年ぶりだと言っていたが、その割にはしっかりと描けている。それまでに、似顔絵以外の絵も描いていたのだろう。そう思うと、
「継続は力なり」
という言葉も信憑性のあるものだと思えてくるから不思議だった。
スケッチブックを目の前に、記憶を失った真美は、何を描こうというのだろうか……。
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