第6話 車中遺棄

 和田が武彦の交番にやってきてから四日が経ったある日のことだった。その日は朝から気温がどんどん上がり、午前九時の時点で、三十度を優に超えていた。深夜でも三十度近い気温は、クーラーつけていないととても眠ることのできないほどの酷いもので、熱中症には気を付けなければいけない状態であった。

 その異変に最初に気付いたのは、住宅街に住む一人の主婦だった。

 朝、いつものように慌ただしく旦那を送り出し、子供を保育園に連れていくために、駐車場の扉を開いて、車を出そうと思った時だったが、ちょうど車を出そうとするところに、違う車のテール部分が見えた。

「何よ。こんなところに留めて、迷惑駐車もいい加減にしてほしいわ」

 と思い、その車を覗きに行った時である。車の中で一人の女性がシートを半分倒して身体を持たれかけていた。

「眠っているのかしら?」

 と思い、運転席側の扉を叩いてみたが、返事はない。

 しかも、エンジンはかかっているわけではなく、いくらまだ朝の時間帯とはいえ、窓も締め切っているので、車の中は相当な高温になっているのではないかと思った。

「まさか、熱中症?」

 と思い、急いで救急車と警察を手配した。

 カギが締まっている状態の車の中に人が閉じ込められているのだ。いくら急病人かも知れないとはいえ、勝手にカギをこじ開けるわけにはいかない。警察にはその話をしているので、鍵開けのプロを連れてきてくれることであろう。

 果たしてまずやってきたのは、交番の真田巡査だった。武彦は中の様子を見て、窓を叩いてみたが、やはり微動だにしなかった。

 しかも、その主婦は慌てていたので気付かなかったが、この男は胸の上に毛布のようなものを被っていた。それを指摘すると、

「あら、気付かなかったわ」

 と奥さんも不審に思ったようだが、そうこうしているうちに、署の方から担当刑事とさらに救急車も到着し、ついさっきまでは閑静な住宅街だったものが、あっという間に殺伐とした雰囲気になっていた。

 さすがにパトカーと救急車の音が聞こえたのだから、近所からも野次馬がたくさん出てきた。本当にテレビドラマさながらの光景だった。

 車のカギは簡単に開けられ、刑事の一人が、

「大丈夫ですか?」

 と声を掛けたが、そこにはやはり微動だにしない様子の男性がいて、刑事が不審に思った毛布に見えたシーツを取り除くと、

「わっ」

 という声とともに、

「キャア」

 という女性の声がほぼ同時に聞こえた。

 最初に発見した主婦も、その現場を見てしまったからだった。まさかそんなことになっているとは想像もしなかったのか、捜査員が中の人に声を掛ける時、人払いをしていなかったのだ。

 シーツを開けようとしたその時、捜査員は一瞬、

「何か重たい感じがする」

 というのを感じた。

 何かがへばりついているような感覚があったのだ。

 それが、真っ赤な鮮血であると気付いたのは、シーツをまくり上げている最中だったのか、それともまくり上げてその瞬間を見る前だったのか、その時、捜査員はとっさに、

「やっぱり」

 という思いを感じたのだ。

 先ほどの、

「わっ」

 という言葉も決して予想していなかったことに対しての悲鳴ではなかった。

 自分の想像していることの通りのことが起こっていることで、自分が想像してしまったことが、その状態が作られたのではないかと感じたからだった。

 それが殺人事件であることは明らかだった。彼の胸には垂直に鋭利なナイフが突き刺さっていたのだ。自分で刺したわけではないことは見るからに明らかで、上からかけられたシーツにナイフを刺した跡がなかったのだ。

 つまりはナイフを突き刺してからシーツを身体の上にかぶせたというわけで、自殺をした人が自分でそんなことができるはずもない。すぐに、あたりを封鎖したが、まず検挙が無理なことはすぐに分かった。死後硬直から見ると、鑑識ではない捜査員であっても、数時間は経っていることは分かっていた。もちろん、血液の凝固具合から考えてもそれは歴然であり、武彦にもそれは分かっていた。

 その後、鑑識が到着し、いろいろなことが分かってきた。まず死亡推定時刻であるが、今から八時間くらい前だというから、午前四時前後ということになる。基本的にはまだ誰も眠っている状態の静寂の中なので、目撃者というのは絶望的かも知れない。新聞配達の人くらいが見ているかも知れないという程度であろうか。

 ただ、ここで殺害されたのであれば、誰か悲鳴くらい聞いているかも知れないとも思ったが、その後の聞き込みから誰も聞いていないという。閑静な住宅街なので、番犬として犬を飼っているところもあったが、イヌが吠えたなどという話はどこからも聞こえてこなかった。

 現状にあった車であるが、日にちが変わるくらいまでは、そこに車がなかったことはハッキリしている。隣のご主人がちょうど午前零時くらいに自家用車で帰宅しているが、その時に車はなかったと断言したからだった。

 実際にこのあたりを見回った武彦も、確かに午後十時ころまでは、このあたりに不審な車がなかったことは証言している。違法駐車に関しては、いつも憂慮していた武彦がいうのだからその時間にこのようなおかしな止め方をしている車がなかったのは、事実であろう。

 このあたりのパトロールは夕方よりも夜の方が多い。特に痴漢やひったくりなどの被害が多いのは夜のこのあたりだからである。見回っているというだけで犯人も迂闊に手を出せないとして、防犯にもなるのだ。

 昨夜もそのつもりで巡回をしていたので、もしそんなおかしな車が停車していれば、即座に駐車禁止にはしていないにしても、警告くらい貼るくらいの意識があったはずだ。時々住宅街にも違法駐車が散見されるが、そのほとんどはその日のうちに車を移動させている。

 ちょっと知り合いの家に寄っていたという程度で、駐車違反とまでにはできないほどであった。

 やはり、車はいなかったと見るのが正解であろう。

 では、犯行現場はどこだったのか?

 車がそこにいなかったのだとすれば、どこかで殺害し、ここに放置したという仮説も成り立つ。しかし、明らかに車の出入りに邪魔になりそうなtころにあるのだから、故意に発見されるつもりではなかっただろうか。

 普通死亡推定時刻を曖昧にしたいと思うのであれば、少しでも発見を遅らせようとするものだが、早く発見されて何か犯人の得になることがあるというのだろうか?

 もし、あるとすれば、アリバイ作りが一番の有力である特定された死亡推定時刻が、ほぼ幅のないものであり、しかもそのピンポイントな時間に、完璧なアリバイでもあるとすれば、死体がなるべく早く発見されることを望むに違いない。

 しかし、もしそうだとしても、どうして車を放置する場所がここだったのだろう?

 何もこんなところでなくとも、もっと早く発見されたいのであれば、もっと人通りの多いところで、思い切り駐車違反をしていれば、簡単に見つかるはずである。何かこの場所でなければいけない理由があるとすれば、やはり発見者が怪しいと思えなくもない。

 武彦はいろいろ考えていたが、考えはまとまらなかった。

 そこへ門倉刑事がやってきた。そして、武彦は今の自分が考えていたことを門倉刑事に話してみた。

「なるほど、なかなか君は面白いところに目を付けたね。確かに今の推論はもっともなことだと思うよ、事件に絡む何かが潜んでいるとすれば、そのあたりにあるのではないかと僕も思うし、僕としても捜査を今の話から進めていくだろうね。とっかかりとしては、いい線言っているんじゃないかって思うんだけど、あくまでも想像でしかない。捜査するにも、それなりの信憑性があり、説得力がないと、組織は動かないよ」

 という話だった。

 それももっともなことだった。

 門倉刑事は続けた。

「だけどね、そうやっていろいろと想像していくと、必ずどこかで壁にぶつかると思うんだ。その壁というのは、ほぼ十中八九、堂々巡りを繰り返してしまうんだ。まるで、交わることのない平行線を描いているような、一種の矛盾とでも言えばいいのかな? それは一種の『メビウスの輪』のようなものと言えるのではないかな?」

「堂々巡りを繰り返すという意味では、『メビウスの輪』と言えるかも知れませんね。でも、どこかに出口はあると思うんです。理論上の密室殺人はできたとしても、現実には不可能であることに違いはないんですからね。小説などでできるというのは、それは心理的なトリックを用いて、密室ではないのに、密室のように仕立て上げる。つまりは心理的な密室に他ならないんです。それを思うと、僕にはこの事件はまだまだ奥がありそうに思うのかも知れないですね。最初に理論ばかりで考えてしまうと、その奥深さを見逃してしまうところがあるからですかね」

 と、武彦は門倉刑事を相手に、堂々と言ってのけた。

 門倉刑事は、自分が今まで担当してきた事件で、自分以外の捜査員、例えば刑事になりたての男だったりが、その助言によって事件解決に繋がったりしたことが多かった。そういう意味では今回の武彦は重要人物と言ってもいいかも知れない。以前ひき逃げ班の逮捕に一役買ったのも彼ではなかったか。そう思い、今回は巡査という立場でありながら、その助言には十分な思案を巡らせていこうと思うのだった。

 その後に分かったこととして、被害者の身元だった。

 彼女は近所に住む主婦(未亡人と言ってもいいような)だった。夫というのは、三年前に行方不明になっていて、彼女の名で指名手配されていた。彼女の名前は谷川美鈴といい、夫は谷川隆一という。

 年齢は失踪した旦那の方が今の年齢でいうと、三十三歳、失踪当時三十歳だったことになる。

 奥さんの方は、今で二十七歳。少し年の離れた夫婦だった。

 二人の間に子供はなく、結婚したのが五年前。旦那は大学院で生物学の研究をしていたが、彼女は旦那になる隆一の師に当たる教授のゼミ生であった。その関係から知り合いになり、奥さんの方が旦那にアタックしたということだった。結局奥さんが大学を卒業すると同時に結婚し、そのまま専業主婦になったというわけだった。

 彼女の住まいは駅近くのマンションだった。高級マンションというわけではなく、普通の賃貸で、オートロックもついていないようなところである。二人暮らしということで、二LDKは贅沢かと思われたが、美鈴の方で、

「赤ちゃんができれば、すぐに狭くなるわ」

 ということで、その部屋にしたということだった。

 だが、なかなか子宝に恵まれなかった。最初の二年間くらいは、

「まだまだ若いんだから、新婚気分の間は、子供はつくらないようにしよう」

 という旦那の意見もあって、気が付けば新婚気分を二年も味わっていた。

 結婚生活も落ち着いてきて、

「そろそろ子供がほしいかな?」

 と思っても、なかなか授かるものではなく、それから三年が経って、

「私、病院で診てもらおうかしら?」

 と、不妊を気にし始めた矢先、旦那の隆一が行方不明になったのだ。

 行方不明になったその日、旦那は大阪に出張予定だった。前の日からアタッシュケースに出張の用意を美鈴が行い、翌日は十時の新幹線だったので、家を出る時間は普段と変わらなかった。

 出張期間は四泊五日ほどだったので、少々嵩張るのは仕方のないことであったが、同行者が教授ということなので、それなりに気を遣うであろう。

――却って荷物が嵩張るくらいの方が気が紛れていいかも知れない――

 と、美鈴は思っていた。

 すでに新婚気分などはなくなっていた二人だったが、旦那が出張に出かけた時は、毎日夜になると連絡を旦那の方から入れていた。いわゆる定時連絡のようなもので、美鈴の方では、

「そんなに毎日わざわざかけてこなくてもいいのに」

 と言っていたが、内心では嬉しかった。

 結婚当時は熱を上げていたのは美鈴の方だったが。結婚生活に入ってからは、隆一の方が美鈴に熱を上げるようになっていた。言われてみれば、新婚の頃はまだ垢抜けしないあどけない少女というほど幼く見えた美鈴だったが、次第に一人の女としての魅力が垣間見えるようになってきて、その美しさは色褪せることなく、上り調子だった。

 そんな美鈴は近所でもウワサになるほどの美人妻として評判だった。そのことをどこかから聞いた隆一は、余計に女房の美しさに惹かれていき、まわりに対して少し猜疑心が湧いてくるようになった。

 その頃から、谷川さんのところは奥さん、ものすごくきれいだけど、旦那さんは何か胡散臭く見える」

 と言われ始めていた。

 もちろん、そんなウワサを谷川夫婦の耳に入れるわけにもいかず、結局谷川夫婦二人に対して近所の人は少し距離を置くようになった。

 まさか、自分たちがそんな目で見られていると思わない美鈴は、次第に近所付き合いから浮いた存在になっていた。

 そのため、何か趣味でも持って、気分転換をしないといけないと思い、近くでは角が立つので、都心部にあるカルチャースクールに通い始めた。都心部であれば、似たようなサークルやスクールはたくさんあるので、自分を特定することはできないだろうという美鈴の計算だった。それだけ美鈴の方も近所の奥さん連中に対して、疑心暗鬼になっていたのだ。

 カルチャースクールでは、ダンスを習っていた。元々大学時代、最初の二年間、ダンスサークルに籍を置いていたことがあった。ダンスサークルといっても、同好会に近い形だったので、専門的なことはあまりなく、とにかく楽しめればいいという程度で、どちらかというと、合コンメインのようなところがあった。

 三年生になると、物足りなくなりいかなくなったのだが、卒業してから、

「ダンス、真剣にやっていればよかったな」

 と感じていた。

 ちょうど街に出かけた時、駅から見えるところにダンスサークルという大きな文字が窓一枚に一文字ずつ書かれていて、意識していただけに、その文字が目に入った。

「ここなら、近所の人からとやかく言われることはないわ」

 と思い、さっそく入会した。

 入会に際しては、当時の旦那がまだ自分に何も意識がない頃だと美鈴は思っていた頃なので、そんなに困難だとは思わなかった。思った通り、

「まあ、気分転換になるのであれば、それもいいか」

 と言って、許してくれた。

 まだ、その頃は旦那も自分や奥さんに近所の目が向いているという意識がなかった頃であった。

 ダンスサークルでできた友達に家庭のことをちょくちょく話していたので、警察はこのダンスサークルで事情聴取を行った時に、やけに谷川夫婦の事情に詳しい人がいるのを見てびっくりしたくらいだった。

「谷川さんは、奥さんだけが来られていたんですよね?」

「ええ、そうです」

 いかにも話の好きそうな中年の奥さんは、見た目を裏切ることなく、いろいろ話をしてくれる。

「でも、よく夫婦のことをご存じじゃないですか」

「ええ、奥さんが結構話をしてくれましてね。どうやら、奥さん、近所の人たちからハブられていたらしいんですよ。そのストレスもあってか、ここに来ると饒舌でしてね。気にしているのは、子供ができないことが一番気になると言っていましたね」

「そんなに気にしていましたか?」

「それはそうでしょうね。結婚してからもう五年も経っていて、しかも、子供がほしいと思い始めてから、三年ですからね。旦那も気にするでしょうし、何よりも本人の身体ですからね」

 男の捜査員には、そこまではさすがに分かるわけもなかったので、この奥さんの話を信じるしかなかった。

「夫婦仲はよかったんでしょうか?」

「よかったと思うわよ。あれだけ饒舌なのに、旦那の悪口が一言も出てこないですもん。少しでも何かあれば、少しくらい愚痴があったとしても不思議はないのに、そんな素振りもありませんでしたからね」

「どんな奥さんでしたか?」

 と、今度はまたかなり漠然とした質問だった。

 だが、漠然としている方が、相手はいろいろと考えるもので、その回答によって、奥さんの本当の印象が分かるというものである。

「どんなって、普通でしたよ。ご近所さんの目は気になっているようでしたけどね」

 その言葉の信憑性は結構あるような気がした。

 となれば、殺された美鈴夫人は、

「夫婦仲はいいけど、子供ができないことを悩んでいて、近所の奥さんの目が気になるそんな奥さん」

 というのが印象である。

「ちなみに、このサークルで奥さんと仲が良かった男性はいませんか?」

 と聞いてみたが、

「いなかったと思うわ。いつも話をしているのも、私たちとだけだったからね」

 と言っている。

 どうやら、このサークルで親しくなった男性はいないようだった。

 殺されるとすれば、痴情の縺れが考えられる理由の一つだが、旦那も知っているダンスサークルに不倫相手でもいれば、三角関係からの痴情の縺れとして動機は十分ではないかと思ったからだったが、当てが外れたようだ。

 念のために他に数人の人にも事情聴取をしたが、最初の奥さんとほとんど同じ供述だった。そのため最初に聞いた話がほとんど真実を表していたのだろうと、捜査員は感じていた。捜査本部でこのことが報告されたが、他でも新たな情報が得られることもなく、捜査は膠着状態だった。

「そもそも、旦那の行方不明というのは何だったのか? このあたりからせめていかないと捜査は進展しないかも知れないな」

 というのが、捜査本部の見解だった。

「旦那の三年前の失踪」

 忘れ去られていた事件が、奥さんの殺害という事件で脚光を浴びることになったというのも実に皮肉なことである。

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