第5話 過去の殺人事件
綾子は武彦を、
「お兄ちゃん」
と言って慕っていた。
最初は、
「お兄ちゃんなんて言って、お巡りさんに失礼かしら?」
と言っていたが、武彦の方も、
「僕も田舎に妹がいるので、こっちでも妹ができたみたいで嬉しいよ」
と言って、頭を撫でてくれた。
綾子は武彦に頭を撫でられるのが好きだった。
武彦は綾子のことを、まるで知恵足らずの女の子のように見ていた。それは悪い意味ではなく、
「この上なく純粋に見える」
という意味で、決して悪い意味ではない。
むしろ、そんな素振りがお兄ちゃんとしての気持ちを擽るのだ、だからと言って綾子が幼く見えるというわけではない。ちょっとした素振り、特に何かを考えている時などは、まるでファッションショーにでも出てきそうな綺麗な女性に見えた。実際には身長が百五十センチちょっとというが、綺麗に見える時は百六十五センチくらいはあるのではないかと思うほどで、考え込んでいる時なので座っていることが多く、その投げ出した足は決して無為に投げ出されたわけではなく、計算されたかのように見えた。スカートから見えるその足はまるでカモシカの足という表現がピッタリであり、しかも、武彦が見る位置はいつも彼女から見て左側の斜め四十五度よりも少し鋭利に見えるほどの角度で、見方によっては真横に見えそうであった。
――この角度が、綾子ちゃんを一番美しく見せるんだろうな――
と感じたが、さすがにそんな雰囲気の彼女に妹という印象はなく、お兄ちゃんと言って慕ってくれる少女に対して抱いた感情を打ち消そうとする自分に、羞恥と自己嫌悪に襲われるのだった。
目のやり場に困っているのを綾子は気付いているのか、思わせぶりなその顔は、妖艶ささえ感じられた。
「まるでルパン三世に出てくる峰不二子のようだ」
と感じたが、正直いうと、綾子に対して峰不二子を感じるのは、自分のポリシーが許さない。
そういう意味で、自己嫌悪を感じるのだった。
綾子は、誰が見ても明らかに知恵遅れに見えた。知恵遅れの女の子のイメージとしては。
「何も知らない純真無垢な少女」
というイメージか、あるいは、
「その性格に比例しない大人の雰囲気、いわゆる妖艶さを含んだ女性か」
という両極端な二つに分かれるような気がする。
そういえば、昔の小説などで、花魁などを扱ったものを見ると、絶世の美女と呼ばれる花魁が知恵遅れだという話を見たような気がする。そういう設定の方が小説としては都合いいからそうしているだけなのかも知れないが、そういう話が実際に伝わっているからこそ、話として流用できるのかも知れない。
特に花魁などの昔の話は、実際にあった話をモチーフにして、新たな架空の物語を作っていくというやり方もありではないかと思っている。
そんな中に登場する女性は、その生い立ちは悲惨なものだったりする。百姓が年貢を納められずに、年貢のかたとして、娘を売りに出す。その娘はその薄幸な運命に呪われているかのように、病気持ちであったり、頭が少々足りないなどという設定になる。
「絶世の美女が、薄幸な運命とともに病弱だったり、知恵遅れだったりする」
というのは、いわゆる、
「ギャップ萌え」
とでもいうべきであろうか。
もちろん今の時代にそんな人身売買のようなことが公然と行われているわけはないのだが、綾子を見ていると、どうしても、「ギャップ萌え」を感じないわけにはいかない。
さすがに綾子に病弱さは感じないが、自分のことを、
「お兄ちゃん」
と言って慕ってくれる様子は、あどけなさの中にたまに見せる「絶世の美少女」を思わせる雰囲気に、目のやりどころに困るほどであった。
もちろん、武彦は彼女がかつて天才少女などと呼ばれていたことを知らないので、彼女の妖艶な雰囲気がどこから来るのか知る由もなかった。
もし、彼女の過去を知っている人がいれば、
「この妖艶さは超能力が備わった彼女の中に潜在的にあるものではないか」
と感じさせることであろう。
今では彼女が天才少女であったということを意識している人は誰もいない。
「かつてそんな女の子が確かいたよな」
という程度で、近所にいたということを意識していても、その子がその後どうなったかなど、知っている人はおろか、考える人もいなかった。
そもそも、誹謗中傷もどんな力を持ってしても逃れることができなかったのに、時というものが、あっという間に蹴散らしてくれた。綾子は童話で習った、
「北風と太陽」
の話を思い出した。
「男のコートを北風が力任せに脱がそうとしても、男は決して脱ごうとはしない。しかし、太陽が男にその光を与えることで、男は容易にコートを脱ぐ」
という話だったが、これは普通に考えれば当たり前のことである。
男は、まず自分の保身を図るのだ。この話はあくまでも北風と太陽の二つの目線から作られているので、どうしても脱がせる方から考える。そうすると、力任せの北風の方があきらかに有利な気がするのだ。
だが、実際には男にしてみれば、北風が吹いてくる状態でコートを脱ぐというのは、自分の死を意味すると思うだろう。だから、必死で脱がされないようにしている。
逆に太陽はその暑さで男を包み込むが、男としては、暑さから逃れるための方法としてコートを脱ぐのが一番の最良の方法だと分かっている。だから何もしなくても、太陽が光を浴びせるだけで、男は簡単にコートを脱ぐのだ。
それと同じことではないだろうか。
つまり、いくら超能力を使って強引にその場の苦しみから逃れようとしても、まわりは却って面白がって、話題にする。そこには集団意識というものが存在したり、話題性の共有が、自分を孤立にしないという他人の都合が働いている。そんな状況に対して、いくら超能力があったとしても、不特定多数の人間に通用するはずもない。
しかし、時というのは、人間の感覚をマヒさせたり、それまで興味深かったことをあっという間に興味を失わせる力を持っているようだ。
これは太陽のように意識をしてのことではない。そういう意味では太陽も時というも実に残酷なものだと言えるであろう。
意識しない方が、相手に与えるダメージが大きいなどと言われることがあるが、まさにこの時の太陽であったり、時というのが、それにあたるのではないだろうか。
綾子は、武彦を慕いたいという思いから、
「仕事の邪魔にならないようにさえしていれば、お兄ちゃんと言って慕っていてもいいんだ」
と感じていた。
小学生の頃は甘えたくても甘えられない。
「あなたに全国の人が注目しているのよ」
と、よく母親に言われていたが、まさしくマインドコントロールに掛かっていた。
そのおかげで、ウソつき呼ばわりされた時も、
「私は注目されているんだ」
と思うことで、まわりの人から、
「綾子ちゃん、あまり意識しない方がいいわよ」
と言われても、そんなことができるはずもなかった。
意識しない方がいいというのは、あたかも気にしていないといけないと言われているのと同じことだと思い込ませるに十分だった。
親からも、
「気にしちゃダメ」
と言われたが、その時に感じたのは、
「じゃあ、どっちなの?」
ということであった。
まわりの人が注目していると言ってみたり、気にしちゃダメと言われてみたり、確かにまわりの様子が変わったのだから、臨機応変というのは必要なのだろうが、肝心な部分はブレがあってはいけないと思っていた。
「あれは何年前だったしから? 確かお兄ちゃんがこちらに赴任してくる少し前くらいに殺人事件があったような気がするんだけど、私の気のせいだったのかしら?」
と綾子がいうと、
「僕が知る限りではこの交番の近くで殺人事件があったという記憶はないんだけど、でも綾子ちゃんがそういうのならあったのかも知れないな。後で調書を調べてみようかな?」
と武彦は言った。
「うん、私、今日急に気になったので言ってみたんだけど、お手間をおかけしてごめんなさい」
と綾子は恐縮していた。
「ところで、綾子ちゃんが記憶しているその事件というのはどんな事件なんだい?」
「漠然としてしか分からないんだけど、どこかに空き地でだったと思うんだけど、そこに絞殺された女性が埋められているという事件が頭をよぎったの。実はこれは昨日の夢で見たんだけど、その埋められているシーンを思い出したのよ。だから、信憑性があるものではないんだけど、少なくとも私がこの交番にまったく興味のなかった頃のことだから、きっとお兄ちゃんがここに来る前のことではないかと思うの」
と綾子は言った。
本当なら、
「なぁんだ、夢の話か」
ということでそこで終わってしまうことだろうが、以前、交通事故の時も綾子の証言で助けられたこともあったではないか。
笑ってすませられることではないと思った。
「でも、どうしてその事件を思い出したんだろうね? まだその事件が解決していないか何かで、気になっていることなのかも知れないね」
と武彦がいうと、
「ええ、解決していない気がするの、まだ何も……」
と言って、少し悲しそうな顔をした綾子だったが、どうしてそんな悲しそうな表情になったのか、武彦は分からなかった。
二人は真剣に話をしていたので気付かなかったが、交番にその時、一人の男が尋ねてきていた。
それに気づいた武彦が、
「和田君じゃないか」
と声をかけた。
綾子は知らなかったが、この和田というのは、かつての交通事故の証言を綾子がしたことで、少なくともひき逃げ事件の犯人として逮捕されることになった相手である。さすがにその時の証言を誰がしたのかということまでは和田には分かっていなかっただろう。和田の検挙は証言というよりも、確固たる証拠があっての逮捕だったので、綾子が証言台に立つことなどなかった。
ただ、事情は知っている武彦だったので、一瞬ビックリはしたが、すぐに気を取り直した。
綾子の方も、ひき逃げ事件で逮捕された男性がどういう男だったのかということも、名前すら知らなかった。証言はしたが、別にどんな男だったのかなど興味もなかった。ただ、事件が解決したということだけは聞いていた。逮捕された男がどうなったのかということすら知らなかったのだ。
「何か、楽しそうなお話だね」
と和田は、茶化すように言った。
「ええ、私の夢のお話。このお兄ちゃんに聞いてもらっていたのよ」
と、綾子はそう言って、和田にあどけないいつもの顔を向けていた。
――和田はこの子をどういう目で見ているんだろう?
と武彦は感じた。
二人の会話をどのあたりから聞いていたのか分からなかったが、和田という男が、気配を消すことができる男だということにその時初めて気づいた。
この能力があるから、彼は小心者でありながら、悪の道に手を染めることになったのかも知れない。なぜ彼が悪の道に入ることになったのか、その理由は分からない。彼の過去もいろいろ調べられたが、過去において、何かの犯罪に加担するようなことはなかった。学生時代に別に変な連中と付き合っていたわけでもなく、ぐれていたわけでもない。
家庭環境が悪くて、おかしな道に入ったというような調査結果も出ていない。ただ、彼を見た精神科医が、
「あの男はどこか普通ではないような気はするが、あくまでも犯罪に関係があるようなほどではないので、ここでは何とも言えない」
という曖昧なことは言っていたようである。
つまり精神鑑定を必要とするほど、彼に犯罪に加担するような動機はなかったのだ。だから、精神鑑定に回されたのだろう。そこで曖昧な診断を受けたことが判決にいかに作用したかは分からないが、とにかく精神科医が曖昧な診断をしたというのは、微妙なことだった。
武彦は、この男を何とか更生させたいとして張り切っているが、綾子にはどうにもこの男を好きになれないところがあった。この日初めて会ったはずなのに、
「初めて会ったような気がしない」
と感じた。
普通、こう感じる時は、悪いことで感じるわけではないのに、どうしてそう思ったのか、自分でも分からなかった。もちろん、どこで会ったのかなど分かるはずもなく、ただ謎の不気味な人という印象だけがあったのだ。
綾子は、さすがにこの場にいるのは気が引けると思ったのか、
「じゃあ、お兄ちゃん。私はこれで」
と言って、その場を立ち去った。
その後ろ姿を見守る武彦の目は、本当にお兄ちゃんのような目をしていたことだろう。和田はそんな二人を気にしていないような雰囲気で、
「ところで真田さん。再就職が決まったので、お知らせに来ました」
と言って、武彦を和田は見つめた。
刑務所から出所して、それほど時間が経っていたわけでもないのに、これは少しビックリだった。もし、職探しがうまくいかなかったら、門倉刑事にお願いしてみようかと思っていた。刑事ドラマなどでは、よく刑事が出所した人の職を世話するというシーンを見ていたので、そう思ったのだが、元々、ひき逃げや詐欺などのような犯罪なので、職を世話するといっても微妙ではないだろうか。一抹の不安を感じていただけに、職が決まったと聞いた時、ビックリもしたが、嬉しかったのも事実だ。
――だけど、よく就職できたものだ。家族にコネでもあったのかな?
と思って聞いてみると、
「ええ、兄が建設会社で部長をしているんですが、そこからのつてで、下請け会社の工場で働かせてもらえることになりました」
という兄弟のコネだったようだ、
「それはよかった。わざわざそれを知らせに来てくれたのかい?」
と聞くと、
「ええ、そうなんですよ。ところで、お巡りさんはどうですか? 最近は落ち着いているようですね」
と聞かれて、
「ああ、細かい事件は、相変わらずなんだけど、重大な事件が起こっているわけではないので、それなりに普通ということかな? もっとも俺が忙しいということは悪いことなので、これくらいがちょうどいいんだろうな」
と言って笑った。
和田は、就職が決まったことをそれ以上話すわけではなく世間話を始めた。武彦は少し不審に感じたのだが、
――就職が決まったことを知られにきたのであれば、もっとそのことに触れてほしいはずなのに、どうして話を逸らすようなことをしているんだろう?
と感じた。
自慢とまではいかないまでも、わざわざ訪ねてきてくれたのだから、目的が就職内定の報告であれば、もっと話をしようとしたり、こちらに触れてほしいと思うはずではないだろうか。そう思うと、今日の来訪は何が目的なのかを考えてみた。
普通の世間話をしているようだが、どうも今のこのあたりの情勢について知りたいようではないか。まあ、ウソをついてもすぐに分かることなので、普通の会話として話せる部分は話を合わせていた。実際に最近は本当に落ち着いていて、おかげさまで凶悪事件もなく、彼が関わっていたような詐欺被害を聞くこともなかった。
もっとも詐欺関係であれば、こんな交番ではなく、直接警察署に行くはずである。それも和田くらいになれば分かっているはずだ。ということは、武彦の考えすぎであろうか。
「じゃあ、今日はこの辺で帰ります。また仕事が落ち着いたら話をしにきますので、その時はまたよろしくです」
と言って、和田は帰っていった。
武彦はどうにも気になってしまったところへ、ちょうど警らで表に出ていたもう一人の相棒が帰ってきた。次は自分の番なので、最初から警らの準部はしていたので、そのまま入れ替わりで表に出た。
見渡すと、もうそこには和田の姿はなかった。
――しまった、見逃したか――
と思い、思わず舌打ちをしてしまったが、交番を出てから三十分くらいしてからであろうか、ある工事現場のところで、和田が立ち竦んでいるのが見えた。
武彦は思わず身を隠して、和田の様子を見ていた。和田はどうやら工事現場の中を覗いているようだったが、工事はちょうど今中止の状態のようで、立ち入り禁止の立札や、安全第一、危険などのよく見る看板が目立っていた。
その場所は、街のどこにでもある風景であり、別に不審なところは何もなかった。なぜ武彦がその場所を気にするのか分からなかったが、しばらく佇んでいると、またフラッとどこかに歩いて行った。急いで武彦を彼が立っていた場所の近くまで行って中を見てみたが、別に怪しいところもなかった。
ただ、和田の就職先が建設工事現場ということだったので、そこが彼の会社が請け負っている場所からと思ったが、そこに掲げられていた看板の工事請負会社と、先ほど彼からもらった名刺に載っている会社名とはまったく違っていたのだ。
「これは一体、どういうことなのだろう?」
と武彦は思った。
――では、彼は一体何を見ていたというのか、何かそこに秘密があるとでもいうのだろうか?
武彦は、何か背筋にゾクッとしたものを感じたが、それが何なのか分からなかった。
その後も和田を尾行していたが、すでに自分の警ら範囲を超えてしまったため、それ以上の追跡はできなかったが、どうやら駅に向かったようだ。そのまま電車に乗って帰るのかも知れない。
和田の後ろ姿を見送りながら、内心では、
「就職できてよかったな」
と声を掛けていた。
その掛けた声が、本当に実を結んでくれることを、その時武彦は切に望むのであった……。
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