第7話 ペット不可
最近では、ペット可のマンションも少なくはないが、晴彦のマンションはペットは不可であった。小動物で鳴かない動物であれば、少々はいいのかも知れないが、イヌやネコの類は基本的にダメである。
もちろん、中には小さな室内犬を飼っている人もいるようだが、もちろん、管理人にもまわりにも黙って飼っているのだ。ハムスターくらいであれば、別に問題はないのだろうが、さすがに小型犬とはいえ、チワワやシーズーなどの大人しいイヌでも基本的にはダメである。
ここの管理人は、どちらかというと寛容な方なので、ペットを独自に飼っている人も少なくなく、管理人は感謝されていたりした。
晴彦が殺されるという事件が起こり、それまでまったく近所のことなどに無関心だった住民が少し慌ただしくなっていた。殺された人がどういう人なのかなど、誰も知らず、警察の聞き込みでも、何ら情報はご近所さんからは得られなかった。
だが、そんな中で、少し変なウワサがあった。それは晴彦に関係のあることではなかったが、ある部屋のご婦人の話の中で、
「実は、殺された男性の隣に一人の女性が住んでいるんだけどね。私はあまり会ったことはないのよ。その人はいつも夕方くらいに出かけていて、真夜中に帰ってくるのよ。たぶん、夜の商売なんじゃないかと思うんだけど、どうも管理人さんと一緒にいるところをよく他の人は見たことがあるっていうんだけどね。あのダサい管理人さんと夜の商売をしているようなあの女性が関係あるとは思えないんだけど、何か気になると思ってね」
と、若い刑事は聴きこんだのだが、事件と直接関係のなさそうな話なので、門倉刑事のような先輩に話すこともなく、彼の中で揉み消した形になっていた。
実際に隣のご婦人にも聞き取りは行われた。昼間だったので、ちょうど寝ていたようなので、まともに事情は聴取できなかったが、
「私に話を聞きたければ、ここにいらして」
と一枚の名刺をもらった。
どうやらスナックに勤めているようで、しょうがないので、他の人の聞き取りが終わってから、夜に出向くことにした。
店は九時開店だということなので、八時過ぎに行けば、開店前の忙しい時間かも知れないが、営業時間に聞く話でもないし、ましてや、就寝中という昼間に訪れるわけにもいかない。時間とすれば、この時間しかなかった。
刑事が店を訪れると、当然ながら店の看板も出ておらす、ただ玄関が少しだけ開いていて、その奥の電気が申し訳程度についているだけだった。スナックなのだから、基本的に電気はくらいものであるが、その暗さとは違い、白色蛍光の明るい電気が一か所だけついているだけというありさまだった。
中途半端に少しだけ開いている扉に手を掛けて、刑事二人が中に入ると、カウンターの奥で開店準備をしている彼女を見ることができた。
「昼間はお休みのところを起こしてしまって、申し訳ありませんでした」
というと、昼間とは打って変わって丁寧な化粧が施された、年齢的にはまだ二十代を思わせる女性が顔を表した。
昼間は髪もボサボサ、目の焦点はどこにあるのか分からない様子で、表の明かりが相当眩しいのか、手を目の前に翳して、いかにも眩しさを避けている様子だった。
「いいえ、昼間はこちらこそ失礼しました。今も開店準備なんかもあって、少しバタバタとしていますが、昼魔の時間のように意識が朦朧としているわけではないので、お話はできと思います。ただ、見ての通りの状況ですので、座ってお相手はできかねますが、そのあたりはご了承くださいね」
と、彼女は丁寧に頭を下げた。
――まだ若いのに、しっかりしておられる――
と刑事は感じた。
場末のスナックで雇われホステスをやっているくらいなので、もう少し態度が散漫なタイプかと思えば、どうしてどうして、刑事は少し場末のスナックと言えども、少し見直して見なければいけないと感じていた。
「お隣の新宮さんが亡くなったそうで、私もビックリしています。あのマンションは賃貸マンションで、家賃もそんなに高くはないので、いろいろな方が入居されていると思います。それだけに隣に誰が住んでいるかなど、たぶん誰も気にしていない人が多いんじゃないでしょうか? 部屋の間取りから考えても、一人暮らしの人が多いとも思っています。築も結構経っているので、新婚さんが新居にするというわけでもないでしょうし、若い独身者であったり、サラリーマンの方でも単身赴任者であったり、私のように、女性の一人暮らしの人もいるかも知れません。でも、たぶん少ないだろうとは思いますけどね」
と彼女はそういうと、
「どうしてですか?」
と刑事は聞き返した。
すると彼女は少しため息交じりで、
「だって、女性の一人暮らしって怖いじゃないですか。あのマンションはオートロックでもないので、入ろうと思えば誰でも入ってこれる。風俗やキャバクラなどに勤めている女性なら、怖いだろうから、マンションを借りる時には、オートロックが必須でしょうね。私は普通に場末のスナックに勤めているだけなので、そこまでの危険はないと思っています。そういう意味で、あれくらいのマンションがちょうどいいんですよ」
と言っていた。
「ちなみに、新宮さんとは面識はありましたか?」
「いいえ、ほとんど会ったこともなかったですね。お互いに行動パターンが違うので、偶然、部屋の前でバッタリなどということはあったかも知れませんけど、どんな顔をしていたのかということを記憶しているほど記憶に残ったわけではありません。相手も同じなんじゃないでしょうか? マンションに住んでいる人なんてそんなものですよ。特にオートロックのマンションなんか、もっとひどいんじゃないですか?」
若い刑事は、それを聞くと、
「世知辛い世の中なんだなぁ」
と、いまさらながらに感じた。
今までいろいろ事件の捜査をしてきて、マンションの聞き取りは正直嫌だった。ほとんどまともなほしい情報が得られた試しがなかったからだ。
「他の住人の方とも、同じなんですか?」
「ええ、そうですね。ほとんど出会うことはありませんよ。たまに仕事帰りのサラリーマンの方と私が出勤する時に出会う程度ですかね。お隣の新宮さんとも同じ感覚でしか出会っていませんから、他の人とも同じです」
やはり、この女性からも期待できる事情は聴きとれないようだ。
一緒に来ていた刑事が、口を挟んだ。
「ところでですね。管理人さんとは時々お話されていると伺ったんですが?」
というと、彼女は一瞬忙しそうにしていた手が止まり、いかにも訝しそうな表情で、
「それは、今度の殺人事件と何か関係があることなんですか?」
と、言ってきた。
まったく関係のない話のように思えたので、彼女からすれば訝しく思われても無理もないことだが、何もなければ、別に話ができるであろうことだった。
「別にそういうわけではないのですが、管理人さんも第一発見者の一人ですから、管理人さんのことも少し聞いておきたいと思ってですね」
と言われて、彼女はすぐに冷静さを取り戻して、
「そういうことですか。管理人さんは別に悪い人ではないですよ。少し気が弱そうなところはありますけど、まったく住民と接触しようとしない人に比べれば、まだいいんじゃないかって思います」
「管理人とはどのようなお話を?」
「私、実は内緒で小型犬を飼っているんですが、あのマンションは形式としてはペット不可なんです。でも、管理人さんはそれを許可してくださったんです。もちろん、他の住民から苦情がでないようにすることが条件ですがね」
というと、
「でも、ルール違反なんでしょう?」
「ええ、だけど実際には他のお部屋でも小型のイヌやネコを飼っている部屋もあるんですよ。一人暮らしの人が多いですからね。もちろん、ハムスターのようなもっと小さな動物を飼えばいいんでしょうが、ハムスターのような動物は寿命が短いんです。三年くらいしか生きれないと聞いたことがあります。そんなに短かったらペットを飼う意味がないじゃないですか。確かに癒しはありますが、気が付けば寿命が来ていたなんて、本当に寂しいことだって思います」
「なるほど、それで何を飼っておられるんです?」
「マルチーズを飼っています。一般的な吠えないイヌとしては認知されているようなので、マルチーズを選びました」
「考えて飼われていらっしゃるんですね」
「それはもちろんですよ。私のように一人暮らしの夜の仕事の女性というのは、まず大体ペットを飼っています。お金のある人はペット可のマンションを選んだ李するんでしょうが、私のように中途半端な収入しか得られない人は、ペット可ではないところで内緒で飼っています。もちろん、バレると追い出されるという思いもはらんでいますので、余計に気を遣っていますよ。なるべくご近所さんとはトラブルを起こさないようにってね」
「おひとりで寂しい気持ちと、ご近所とトラブルを起こしたくないという気持ち、何となくわかります。でもですね、ご近所の中にはおかしな人もいるかも知れないですよね。例えば普段から毎日を何の変化もなく過ごしていて、いわゆる生きていても何ら楽しみもない退屈な人生だと思っている人、特に中年になってくればその感情が強くなるんじゃないかって思います。いわゆる『おばさん世代』というのはそういうものではないかと思うんですが、そんな人であれば、却って何かトラブルめいたことがあった方が、人生に張りが出てきて、と思う人もいるかも知れないです。特にそんな時に限って『おばさん連中』というのは団結するおのですからね、どこかの一人を『仮想敵』にしてしまって、それで退屈な人生から逃れようとする人ですね」
「なんとも苛立たしい気分しかしてきませんが、そんな人もいるんですね」
「ええ、そうですね。私は刑事という職業柄、そんなご近所トラブルで事件に発展したというのを何度か見たことがありますからね」
と、その刑事は言った。
「それは本当に嫌ですわ。でも私もそんな話は知らなくても、マンションに住んでいる奥さん連中のことはウワサに聞いたことがあるので、本当にトラブルにならないようにしなければいけないと思っていたんです、もっとも、その情報をくれたのも、管理人さんだったんですけどね」
と彼女は言った。
「ペットのことで、誰かに何かを言われたことはありましたか?」
「もちろん、直接はないんですが、管理人さんの話では、最近うちで犬を飼っているということに気付いた奥さんがいるということだったんです。だから気を付けてくださいと言われたことはありました」
「それがどこの奥さんだか分かりますが」
と刑事に聞かれ、
「ええ、分かりますよ」
と意外にも彼女は正直に話した。
こういうことはなるべく話さないものではないかと思っていただけに、アッサリと言われてしまうと、今度の事件にまったく関係のない話になっているように思えてならなかった。
ここまで来ると、もう話をしなくてもいいのではないかと思った二人の刑事は、
「事情聴取にご協力いただきありがとうございました」
と言って、頭を下げると。
「いいえ」
と言葉少なに答えた彼女を後目に店を出た。
そして、少し歩いて駐車してあった車に乗り込むと、
「どう思った?」
と、ハンドルを握った刑事が、助手席に座った刑事に話しかけた。
「そうだな。話を聴いている限りでは、別に怪しいところはないと思うんだけどな。ペットのことも普通に話してくれたし、管理人が許可してくれたということで、管理人に感謝しているということにウソはなさそうだし」
「そうだよな、マンション暮らしをしていると、しかも一人暮らしの多いところでは、必要以上にご近所トラブルを避けるものだよ。一度こじれてしまうと、まるで学校での苛めのようにネチネチと意地悪をされるという話もよく聞くことだしな。それを思うと、このマンションはまだ静かな方なんじゃないかな?」
というと、
「そうかな? 俺はあまりにも静かすぎると思うんだ。少なくとも一人の女性が、マンションの規約違反を犯して、イヌを飼っているんだ。皆が皆イヌを飼っていて、自分のことを棚に上げてしまうというのであれな、それは仕方がないが、そうでないとするならば、波風がなさすぎる。嵐の前の静けさというべきだろうか?」
と、助手席側の刑事が言った。
どうやら、助手席側の刑事は、今度の事件に、ペット不可のマンションで犬を飼っているという女性の存在が気になるようだ。彼女自身に感心があるというよりも、それを何も問題にしていない、他の人たちの動きというか、見えている全体に違和感を抱いていて、ひょっとすると言葉にできない何かの矛盾を感じているのかも知れないと思うのだった。
どちらかというと、ペットの件はあまり関係がないと思っている彼は、ただ、被害者がその彼女の部屋の隣だということが気になっていた。
いくら静かだとはいえ、イヌを飼っているのだから、隣の部屋の住人が気付いたとしても、それは無理のないことだ。
イヌというのは飼い主には忠実であるが、自分や飼い主に危険が迫れば、思い切り吠えて、相手を威嚇するものである。マルチーズのような小さなイヌであってもそれは言えることで、何かのはずみで吠えることもあったに違いない。
運転手側の刑事は、彼女が犬を飼っていたことで、被害者がどのような感情を抱いていたか、それは彼女に対してなのか、それともイヌに対してなのか、はたまた管理人という立場にあるにも関わらず、簡単に許してしまう管理人に、苛立ちを覚えたのか、そのあたりが気になっていたのだ。
マンションというのは、実に閉鎖された環境にあることは刑事にもよく分かっている。特に会社に出勤すれば嫌でも人と関わることになる。それを嫌だと思っている人は結構いるだろう。
「一人でいる時くらいは、自由に伸び伸びと」
と思っていると、ちょっとした騒音でも苛立ちになってくる。
若い頃は騒音でも、仕方がないことだと思っていたとしても、そのうちに、ちょっとした騒音が火種になってしまうことを分かるようになる。
先ほど刑事が言った話ではないが、トラブルをわざと招こうとするトラブルメーカーというのは、人が集まればその中に一人はいるものだ。普段はネコを被っていても、何かのトラブルが発生すると、急に勢いづいて、輪の中心に立とうとする。そんな人に任せてしまうと、トラブルが解消するどころか、火を大きくしてしまったり、収束されたとしても、火種を至るところに巻いてしまったりと、ロクなことはないだろう。
マンションでペットを飼っている人が他にもいるとは思うが表に出てきていない。ひょとすると、管理人がうまく隠しているのかも知れない。見るからにボンクラっぽい雰囲気を醸し出している管理人だが、その実、結構頭は切れるのかも知れない。表にはボンクラを装い、実は影で暗躍している人がいると思うと、このマンションの胡散臭さは本物ではないだろうか。
今のところ、このマンションでトラブルが上がってきているという話は聞き込みの中でどこからも出てこない。
誰もが、
「平和で静かなマンション」
と口を揃えていうが、口裏を合わせていると言えなくもない。まったうトラブルの話が出ないのはおかしなことで、少なくともマンションのルールを破って犬を飼っている人がいるのは確かなことだ。
しかも、それを誰も悪いことだとは言わず、なあなあで来ている。そんなに皆素直な人ばかりなのだろうか?
却って胡散臭さがプンプンしてくるのだった。
そのことは捜査員のほとんどが思っていることで、
「小手先の芝居に騙されるものか」
と言っている捜査員もいる。
だが、これ以上聞き込みを続けても、まずやつらがボロを出すことはないだろう。ただ冷静にまるでマニュアルを読んでいるだけの感情のない様子は、相手に心を読まれないようにするのと、自分たちがまったく悪くないという自己暗示を掛けるという意味で、実に効果的だった。
ただ、そんな実に冷静で統制が取れているように見える団結心を植え付けたのは誰だろうか? やはりここは管理人が一枚?んでいると思わざる負えないだろう。そう思うと、管理人が何かを知っていると思えてくる。門倉刑事は、捜査方針で一番怪しいと思う人間を管理人に絞って捜査することにした。ただ、自分の部屋でペットを飼っていたというのであれば説得力はあるが、隣にペットを飼っている人がいるというだけでは、管理人を疑うには薄すぎる。要するに、捜査は行き詰ってしまったと言ってもいいかも知れない。
そんな捜査に行き詰った状態の中で、被害者が殺されてから三日後くらいに、被害者宛てに一つの小包が届いた。差出人を見ると、児玉恭介となっていた。
そんな小包が届いたことは、警察に届けられることもなく、管理人のところで止まってしまった。
もし、この小包が警察にすぐに届けられていれば、また事件の捜査も変わっていたかも知れない。ただ、最終的な結果が変わる音はないはずではあるが……。
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