第5話 逆さま

 派遣会社に所属して今の会社に勤務している関係で、毎朝出勤時に、派遣会社に電話を入れるか、出勤予定のメールを送るかのどちらかが義務付けられていた。今までに晴彦はその規則を破ったことはない。何度か続くと、減給さらには、懲戒処分に値するほどの厳しいものだったが、派遣会社への報告がその日に限ってなかったのだ。

 出社予定となっている会社の方に連絡を取ってみるが、どうも来ていないという。派遣先の会社では、それほど困らないということだったが、とりあえず別の社員が代打で出勤することになった。このまま正規の理由がなければ、懲罰ものである。

 今までにこんなこともなく、真面目に勤めていた社員だけに、彼を担当している派遣会社の営業の人も気になったのだろう。

 その日、営業で彼の住まいの近くまでいくので、少し覗いてみることにした。

 彼とは個人的に付き合いもあった。この営業の人はまだ若く、最近入社してきたのだが、派遣としてであるが、会社への入社は早かった晴彦が何かと相談に乗ったりしていた。

 本当は立場が逆であるが、二人ともそんなことを気にする人間ではなかったので、そういう意味でも二人はウマが合った。

 そもそも、晴彦が大学で心理学を専攻していたということを話すと、

「えっ、実は僕も何ですよ」

 と影響の男はいうではないか。

 大学名をいうと、これも偶然か、同じ大学だった。学年的には晴彦の方が三年上だったが、立場的に考えてもこの年齢差はないに等しかった。

 大学の先輩後輩ということで、仕事を離れると、プライベートでの付き合いが始まった。

 派遣会社の社員と派遣社員とが親密になってはいけないという社内規則があるわけでもなかったので、二人は意気投合した。

 彼は名前を樋口泰司といい、実は今の晴彦の友達は、樋口の紹介によるものが多かった。晴彦は結構荒廃や若い連中への面倒見のいいことには定評があった。

 なるほど付き合ってみると、結構馴染みが深い相手ではないか、。

 その日の栄転するという友達も樋口経由で友達になった連中なので、当然昨日一緒になった数人は皆樋口も昵懇であった。

 樋口は昨日、晴彦が自分も知っている連中と呑んでいるところなでは知らなかった。いくら親しいとはいえ、仕事が終わってからの行動まで監視しているわけではないからである。

 樋口は、何度か寄ったことのある晴彦のマンションに立ち寄ると、これも一度くらいは話をしたかも知れないと思う管理人さんがいたので、

「ここにお住いの新宮さんを今日、見かけていませんか?」

 というと、

「いいえ、そういえば今日はお見掛けしていませんね。いつも朝ご挨拶するんですけどね。じゃあ、今日はお仕事お休みじゃないんですか?」

 と言われて、自分がそおことで来たことをいおうか言うまいか悩んだが、とりあえず電話をしてみようと、思った。

 携帯電話の連絡先は分かっているので、電話をかけてみると、出る気配はなかった。別に留守電になっているわけでもない。普通にコールしている。まだ寝ているのだろうか?

 少し不安になったので、それを管理人にいうと、管理人室からも、内線を使って連絡してもらったが、出る気配がなかった。

 気になったので、管理人さんを伴って彼の部屋の前までとりあえず行ってみることにした。

 彼の部屋は三階で、奥から二番目の部屋だった。通路はそれほど広いわけではないので、自転車などがあれば、玄関の中に入れているだろう。通路から溝にかけて綺麗に清掃されているのを見ると、管理人の管理が行き届いているのか、この階の住人の誰かが綺麗にしているのかであろうが、たぶん管理人であろう。万遍なく綺麗になっているのを見ると、住民の仕業ではないだろう。普通であれば、自分の部屋の前以外を綺麗にすることなどありえない。それは自分だけがよければという考えではなく、下手に人の部屋の前などを綺麗にしようものならば、プライバシーの侵害などと言われかねない。それは実に嫌なことである。

 昔と違って今の時代は、

「緒人情報保護法」

 なるものがあるほど、他人の余計な必要以上の介入を嫌う傾向にある。

 それだけに、管理人も気を遣う。

 住人同士のトラブルはあって当然の世の中になってしまうと、管理人などという商売は割の合わないものになりつつある。

 特に人と人とを管理するわけだから、どちらの味方をするわけにもいかず、絶えず影の存在でなければいけない管理人としては、辛い立場になることも少なくなかった。

「しょうがないじゃないか」

 と言って諦めの境地に至るか、なるべくトラブルのないのを祈るか、難しいところである。

 プライバシーの問題だけではなく、最近では共同生活においても、いろいろ変化が起きてきた。特にボミの分別などによるトラブルはある意味日常茶飯事と言ってもいい。最近ではあまりにも多いので、管理人の出る幕がないほどになってきたが、それを単純に手放しで喜んでいいのかどうか、実に困ったものである。

――どうしたらいいののだろうか?

 管理人は、頭を抱えてしまうことが多かったが、それは彼が真面目すぎるからではないだろうか。

 管理人は、あくまでも今回は部屋の住人を訪ねてきたという訪問者の付き添いに過ぎない。実際にカギを開けるのも訪問者の判断であり、もし、新宮氏が部屋にいたとしても、それは管理人としても、電話に出ないということを心配しての行動だから、もし警察に咎められても問題はないはずだ。

 特に、一緒に入る同行者、いや、今回の主役は彼である。同行者の樋口氏が証人である。

「とにかく、電話に出ないということがきになりますね」

「ええ、それに会社にも無断欠勤、マンションから出た様子が見あららない。となると、これは少々怖いですからね。本来なら警察をとも思うんですが、もし倒れてでもいれば、一刻も早く警察をと思うじゃないですか」

「そうですね。とにかく部屋に行ってみることが大切です」

 と言って、二人はおそるおそる歩きながら部屋の前まで来た。

「新宮さん」

 管理人が扉を叩いたり、呼び鈴を鳴らすが返事がない。

 このマンションはオートロックのような設備はなく、もしカギがかかっていなければノブを回せば扉はあく。

 果たしてノブを回すと扉があいた。部屋の中からもチェーンがかかっていないようで、いかにも部屋の中には誰かがいるということを示していた。

 だったら、電話に出ないとか、部屋の呼び鈴を鳴らしたり、扉を叩いたりすれば何かしらのリアクションがあるはずだ。

 そして気になるのは扉に刺さっていた新聞である。今日の朝刊がそのまま刺さっているではないか。少なくとも玄関まで来て、新聞を取り入れるということまではしていないということだ。

 そう思うと、最初の懸念が頭をもたげてくる。明らかに変である。

 玄関を見る限りでは荒らされた様子はない。元々掃除が嫌いな方ではないのだろう。チリ一つ落ちていないほどというほどではないが、それなりにキチンと整っている。靴が散乱しているということもなく、狭い玄関にキチンと並べられている。様子としては、玄関から見える範囲だけではおかしなところはなかった。

「新宮さん」

 管理人は靴を脱いで中に入る前に、再度声を掛けた。

 しかし、その声に対しての反応は一切なく、二人はそのまま靴を脱いだ、

 中に入ると、まず管理人は身体が硬直してしまって、動けなくなってしまっていた。声も出せないのか、後ろから見て、少し滑稽に思えた。ただ、

「ハァハァ」

 と呼吸困難を演出しているのだ。

「どうしたんですか?」

 と後ろから声を掛けると、よほど集中しているのか、それとも、後ろからの声が聞こえていないのか、ビクッともしなかった。

 身体を揺すると、やっと気が付いたのか、

「あ、あれを」

 と言って、訪問者である樋口は、管理人の身体によって差抉られていた前を見るに至ると、今度は自分が息を呑んでしまって、声を発することができなかった。

「あれは、死体?」

 と、分かり切っていることを口にしたが、被害者は一瞬誰なのか分からないという感じだった。

 何よりも、その姿にビックリさせられたのだが、それは普通の死体ではなく、身体を縛られていて、しかも、逆さづりにされているのだった。

 そばによるのも恐ろしく、床には夥しく飛び散ったであろう、飛び散った血糊が真っ赤になって残っていた。

 それを見ると、すでに殺されていて、死亡したのは、ついさっきではないかと思われる。血糊がこれだけ真っ赤になっていて、まだ変色していないのだとすれば、数時間も経っているなどということはありえない。

 二人は警察に連絡し、なるべく現場を荒らさないようにするために、一度部屋を出て、警察の到着を待った。

 警察はそれからすぐにやってきて、あたりをすべて閉鎖して、まずは、部屋の内部の捜査に掛かった。そして刑事課の連中が集まってくると、本格的に事情聴取などが行われることになったのだが、その頃にはある程度、第一発見者である管理人と、樋口氏も平常心を取り戻していて、事情聴取に応じられるくらいまでにはなっていた。

 警察からは、お馴染みの門倉刑事もやってきていて、被害者の部屋を一通り検分してから、この部屋の異様な雰囲気に閉口しているようだった。もちろん、それは被害者の不思議な有様に対してであり、状況にビックリしているわけではなかった。

 今までにも陰惨で猟奇的な殺人を見てきているので、少々のことで驚くことはないが、目の前に不思議な死に方を見ると、ビックリするというよりも、まず考えるのは、犯人の心境であった。

「これは猟奇殺人なのか、それとも犯人による怨恨の酷さを表しているものなのか、それとも、我々警察の捜査を混乱させるものなのか」

 門倉刑事は、そのうちのどれかであろうと思った。

 死体を吊るしているものは、舞台セットのようなものだった。きっと死体が重たいので、運んできてからここに逆さ吊りにするために必要だったものなのだろう。

 門倉刑事は、久しぶりに殺害現場で挑戦のようなものを受けたことで、意識が高ぶっていた。だが、もしこれが警察を混乱させるものであるとするならば、なぜに逆さ吊りを考えたのだろう。ここに何かの意味があるのではないかと考えた。

 この状況を見て即座に、

「鎌倉探偵の好きそうな事件だな」

 と直感した。

 なるほど、元小説家の鎌倉探偵であれば、自ら乗り出してきそうな事件であった。

 ともあれ、鎌倉探偵のことは横に置いておいて、まずは捜査に入らなければならなかった。

「そこまで分かっているのかな?」

 と門倉刑事が、先に到着していた部下の刑事に聞いてみた。

「はい、まずは死因ですが、胸に突き刺さっているナイフではないかと思われます。ただ、首のまわりにも扼殺痕がありますが、これはこのセットを作る時についたものかも知れないということで、何とも言えないところです。このあたりは解剖の結果を待たなければいけないと思います。死亡推定時刻ですが、死後、六時間から八時間くらいではないかと思われますので、早朝だったのではないかということです」

「もし、早朝だったら、近所で物音を聞いた人がいるかも知れないよな」

「はい、今それも含めて、近所に聞き込みを行っているところです」

「被害者の身元は?」

「はい、この部屋の住人である新宮晴彦、三十二歳。派遣会社に登録されていて、今は事務の仕事で、M商事のK支店に勤務しています。今日彼は仕事を無断欠勤しているようです」

「なるほど、第一発見者は? さぞやこの儒教で発見したのだから、腰を抜かしたことだろうね」

 というと、刑事は手帳を見ながら、

「第一発見者は二人です。一人はこのマンションの管理人で、貝塚三郎、四十五歳。住み込みで管理人をしているようで、管理人になってから十年が経つそうです。そしてもう一人が樋口泰司。被害者と同じM商事のK支店に勤務しているとのことです。もちろん、正社員ですが、被害者とは大学が同じで先輩後輩にあたるようで、専攻も心理学と同じだったようで、結構気が合って、よく呑みに行っていたそうです。被害者はあまり呑めないようでしたが、彼はまあまあ呑めると自分で言っています」

「今日は確か、無断欠勤したと言っていなかったかい?」

「ええ、それで近くまで営業で来たので、立ち寄ってみたそうです。それで結局死体を発見する羽目になったということです」

「じゃあ、さっそく第一発見者に話を聞いてみようかな?」

 と門倉刑事は別室で待たせている第一発見者にもう少し詳しい話を聞いてみることにした。

「こちらは、門倉刑事です。申し訳ございませんが、発見時の話を門倉刑事にもお話願えますか?」

 と言われ、

「またですか?」

 と管理人はウンザリしていたが、もう一人いた樋口という男はさほど嫌そうな顔はしていない。

――これくらいのことは最初から分かっている――

 と言わんばかりであった。

 まずは樋口が話し始めた。話の時系列からいけば、樋口の話から入るのが当然であっただろう。

「今日、出勤予定になっていた新宮さんが出社してこなかったんです。会社の人が電話しても、派遣会社の人が連絡を入れても連絡が取れなかったらしいんです。自分が知っている限り、新宮さんが無断欠勤などするはずのない人であることは分かっていましたからね。私と新宮さんとは大学の先輩後輩にあたりということで、結構気も合って、一緒に飲みに行ったりもしました。その時、たまにですが、新宮さんのところに泊めてもらうこともあったんですよ。だからマンションも知っていましたし、それで近くまで営業で来たので、営業が終わってから立ち寄ってみたんですよ。それがそうですね、時間的にお昼過ぎくらいだったと思います」

 と樋口がいうと、

「そうですね。まだ二時にはなっていなかったような気がします」

 と管理人が細くした。

 警察に通報されたのが、二時過ぎくらいだったので、話の辻褄は合っていた。

「私は管理人さんに、新宮さんの様子を聞くと、まだ今日は見ていないという。きっと仕事がお休みなんじゃないかと思っているということでした。で、私はここから電話を入れてみたんですが、留守電になるこtもなく、電話はコールしたまま、誰も出ません。少し怖くなって、管理人さんに、部屋の様子を見てもらおうと、新宮さんの部屋に同行を願ったというわけです」

 という樋口氏に対して、

「ええ、私も扉を叩いてみたり、呼び鈴を鳴らして名前を呼んでみたりしたんですが、扉のところを見ると、新聞が挟まったままになっている、嫌な予感がしたので、ノブを回してみると、鍵がかかっていないじゃないですか。中からチェーンが掛かっているわけでもない。いよいよ変だということになって、もし、何かの発作か病気で倒れていたりしたら大変だと思ってですね、名前を叫びながら中に入ってみたんですが、すると、中の様子は発見された現場を見られたと思うんですが、あの通りです。新宮さんが逆さに吊るされていて、床には血痕が飛び散っているじゃないですか。しかも胸にはナイフが突き刺さっている。目が明いていて、いかにも断末魔の目でした。もう完全にダメだと思って、警察に連絡を入れたんです」

 と、最後は管理人がまくし立てるように言った。

 管理人は、どうやら言いたくて仕方がなかったような雰囲気だ。死体の第一発見者には、管理人のように、一気にまくし立てて言わないと気が済まない人もいる。その中には、

――一気に言ってしまわないと忘れてしまう――

 と思っている人もいるようだ、

 というよりも、

――一気に言ってしまって、見たことを忘れてしまいたい――

 と言った方がいいかも知れない。

 要するに、あんな衝撃的な場面を見たのだから、きっと夢にも出てくるに違いないという意識からか、

「喋ってしまって、そのまま忘れてしまいたい」

 という心理が働くもののようだ。

 門倉刑事は刑事として、そして樋口氏は心理学を専攻していた者として、管理人の心理を分かっていたのだ。

「警察を呼んでからは?」

 門倉刑事は勧めた。

 すでにここまで話をして興奮のピークを通り越し、少し疲れてきたように見える管理人を横目に、樋口氏が今度は対照的に非常に冷静に話し始めた。

「私たちは扉を閉めて、表にいました。警察が来るまでにそんなに時間もかからないと思いましたし、中にいて何も触らないようにしないといけないという意識もあり、さらに管理人さんもかなり興奮していることから、もはやこれ以上中にいるのは耐えられないとばかりに表に出ることを管理人さんに提案すると、管理人さんは何度も頭を下げて頷いていました。私の方も管理人さんが極度に怯えていなくて、自分一人の状態だったら、失神していたかも知れないほどです。実際に出ようとして表の扉のノブを触った時、手の震えが止まらないのを思い出したくらいですよ」

 と門倉英二に樋口氏は話した。

「じゃあ、中をほとんど物色などはしていないんですね?」

 と門倉刑事がいうと、

「ええ、もちろんですよ」

 と樋口氏は即答した。

「ところで、被害者についてですか、知っている範囲で構いませんが、彼は誰かに恨まれているというようなことはありませんでしたか?」

 という門倉刑事の問いに、

「いいえ、私の知っている限りではそんなことはないと思います。新宮さんは、仕事も真面目だったし、会社でも社交的でした。趣味もあったようですので、一人で籠っているというタイプではなかったですが、だからと言って人に恨まれるということもあまり考えられないと思っています」

「ところで趣味というと、何なのですか?」

「新宮さんは作曲のようなことをするのが好きで、クラシックのような音楽を自分で作曲していたようです。本当は映画音楽などを作曲するようなことをしてみたいとよく言っていました。インディーズっていうんですか? 新人発掘のようなところで作品を結構発表しているようですよ」

「映画音楽が好きだったということは、映画なんかも結構見られていたんでしょうね。その割にビデオやDVDDがないですね」

「レンタルだったんじゃないのかな?」

「なるほど、今ではレンタルだけではなく、ネット配信というのもありますからね。便利な時代になったものだ」

 と、門倉氏は感心していた。

「捜査としては、作曲の方にも手を広げなければいけないでしょうね」

 と若い刑事がいうと、

「そうだな、ただ、ネットなどでやっていれば、捜査は難航するかも知れないな」

 と言って少しウンザリした気分になった。

「だけど、やっぱり気になるのは、どうして死体が逆さまになっていたのかということでしょうね。何か意味があるんでしょうか?」

「まだ分からんけどな。意味があってくれた方が、ひょっとすると事件解決には早いカモ知れないぞ」

 と門倉刑事はほくそ笑んだ。

 その時に脳裏に浮かんだのは鎌倉探偵の顔だったが、自分も今までの経験から推理に関してはいい線行きそうな気がしていることからのほくそ笑みだった。

――この事件には恨みだけではい、別の何かもあるんじゃないかな?

 恨みの路線はあくまでも捨てず、他にも何かの要素が含まれているというイメージを門倉刑事は抱いていた。そしてその発想は、当たらずとも遠からじであったということは、しばらくしてから判明するのであった。

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