第4話 創世の世界

 自分に精神疾患があるという意識から、恭介は、

「まわりの人から避けられている」

 という被害妄想のようなものがあった。

 そのせいで、友達もできず、一人音楽を作っては発表していた。最初の頃は大変だったが、途中からネットが普及することによって、直接人と会話をする必要がなくなったことで少し楽になった気がした。

 しかし、それは単純に目の前にいる人と、目線を合わせて会話をしなくなったということだけで、文字による会話であっても、それに慣れてくると、まるで面と向かって話をしているように、文字からでも相手の考えていることが分かってきたりする。

 普通に面と向かってコミュニケーションが取れていた人より、元々コミュニケーションが苦手な人の方が、その感覚を顕著に表すというのは実に皮肉なことである。

 恭介の場合は、文字だけで相手が考えていることが分かった、相手の目を見たり、表情から考えを探ることを得意としていた人には、まず文字でのコミュニケーションに戸惑いを覚えるから、なかなか慣れてくるまでに時間が掛かるからではないだろうか。

 そう思うと、それまでとは立場が変わってしまって、相手が考えていることが手に取るように分かる気がしてくるのだ。

 だが、面と向かっているわけではないし、今まで考え方が卑屈だったこともあって、せっかく自分に今までになかった能力が備わったにも関わらず、自分のその能力を信じることができない。つまりは、分かったことが信じられないという状況に陥るのだ。

 そうなってしまうと、今度は何も信じられないような錯覚に陥り、その思いが自己嫌悪を引き起こし、嫌な予感とともに、そのまま躁鬱症に突入してしまうという、まずいパターンを作り出すことになるのだった。

 それでも、人と接触しないというのはありがたい。自分の実力だけを皆が見てくれるからだ。まがい物ではない自分の実力だけを見られるというのは、ありがたいことだった。そのうちに音楽も認められるようになり、インディーズではあったが、次第に評価を受けるようになった。決して悪い評価ではないことに気持ちをよくし、

「音楽をこれからもやっていいのだ」

 という自信に繋がっていく。

 ちょっとしたことでしかないのだが、そのちょっとしたことの積み重ねが、自分を成長させてくれると、恭介は感じていた。

 その日、恭介と晴彦はその後すぐに別れた。晴彦の方で、

「もう大丈夫です。ありがとうございました」

 と言って、普通に帰宅することができそうだったので、それ以上関わる必要もなかった。

 もちろん、お礼がほしいなどという浅ましい思いがあったわけではない。

「お礼がしたい」

 と言われれば、黙ってしたがうだけではあったが、これも相手任せだと思っていた。

 いわゆる「一般常識人」は、そんな時、

「いやいや、お気遣いはいりません」

 などというのだろうが、拒否することに何の意味があるのかと恭介は思っていた。

 例えば、今はなかなか見られないが、昭和の時代のおばさんたちなどは、喫茶店で会計をする時、

「今日は私が払います」

「いいえ、私が」

 などと言って、我先に会計を済ませようとする。

 今思えば、最初からワリカンにしておくとか、

「今日は自分が払うから、次回はお願いね」

 などと言えば、その場は丸く収まるのに、ただ自分が払うということを言い張って、時間だけを費やしている。

――バカじゃないんか――

 といつも思うのだが、人に気を遣うということが何においても優先されるとでも思っているのか、そのような行動に、苛立ちを覚えるのは、自分だけではないと思っていた。

 それを気遣いというのであれば、そんなものは必要ないと思う。見ていて見苦しいだけだ。そんな連中はまわりが見えているわけもなく、きっと子供がいて、同級生であったりすれば、心の中で、

「私の息子はあんたの息子よりも優秀なのよ」

 と言い続けていることだろう。

 相手に気遣いは求めないが、もし相手がお礼がしたいというのであれば、甘んじて受け入れることにしている。

「それじゃあ、言っていることと矛盾しているんじゃないか」

 と言われるかも知れないが、もし、そこで断ってしまった方が、相手に失礼だと思うのだ。

 それではまるで、相手をプレハブの屋上に梯子で昇らせて、その梯子を取っ払ってしまい、置き去りにしたかのような印象だ。素直に申し出にしたがうことで相手のメンツも立つだろうし、貸し借りなしという意識を相手が持ってくれればそれでいいと感じるからだ。

 ここで相手の申し出を断るということは、自分が相手に対し、何も求めていないことを証明しないと相手から変な思いを抱かれたままになってしまうとでもいうような余計な気の回し方になるのではないかと恭介は思っていた。

 今の人たちは、人と関わることをあまりよしとしない。昔のように人と一緒にいないと生きていけないなどとは思っていないのではないだろうか。それとも、人と関わることの鬱陶しさが気を遣うことであると気付いたからなのかも知れない。

 もちろん、恭介の勝手な思い込みでしかないのだが、人と絡みたくないと思いながらもどこかで人を求めているのは、ひょっとすると、自分の育ってきた環境に反発を抱きながらも、どこかに答えを求めて彷徨っていたからなのかも知れない。

 恭介はその日、結局何もなかったが、それはそれでよかったと思っていた。人とかかわったことを別に気にしなければ何ともないことである。

「帰ってから、今日は作曲に勤しもう」

 と思ったのは、そういえば最近、あまり作曲に力を入れていなかったのを思い出したからだった。

 あれだけ毎日のように続けていた作曲も、ここ最近では一度一日何もしない日があると、翌日からは、タガが外れたかのように、もう作曲に目の色を変える気にはなれなかった。別に惰性で作曲していたわけではないのだが、一度戒律を破ると、気持ちが大きくなってしまうのか、今までの戒律に縛られていた自分が何だったのか、考えさせられる。

 戒律というのは大げさだが、毎日欠かさずにやっていると、行動すべてが戒律によって成り立っているかのような錯覚に陥ったりもする。

 また新たな戒律を作ろうとは思っていなかったが、少し薄れた興味を戻さなければいけないとは思った。生きがいとまで思っていたことだったので、新たに自分に課そうと思っていることは、戒律と同じ感覚ではあるが、余裕のあるものに見えてくるのだった。

 戒律などと大げさなものを課さない限り、余裕は生れてくる。戒律という言葉は大げさであり、大それてもいる。

「少しずつの積み重ねでいいんだ」

 と思うようになると、気も大きくなる。

 今では毎日しなくなったかわりに、少し離れていきかけている気持ちをいかにつなぎとめるかが問題であった。やはり、毎日だy惰性になるのか、急に一日開けてしまったりすると、急に興味が薄れた気になった。

 面白くないわけではないのだが、義務感があった方が自分で自分をコントロールできるという意味で、いろいろ発想も浮かんできたのかも知れない。戒律だと思っていたことも、実際には怠けようとしている自分を奮い立たせる身体の奥から湧き出してくる唯一の力だったのかも知れない。

 要するに、自分がどこを目指して進めばいいのか、分からなくなってしまっていたのだ。

 本当であれば、もっと若い頃に悩むべきことだったものを、この年齢になるまで引っ張ってきてしまったために、すでに悩みではなくなってしまった。感じることはできるが悩むことはできない。悩まなくてもいいすべを、悩むということから逃げることを、覚えてしまったのだろうか。

 ゆっくりと情景を思い浮かべてみた。目の前にどんな状況が浮かんでくるというのか、この日浮かんできたのは宇宙空間だった。頭の中に浮かんできたのは、ホルストの「惑星」だった。

 音楽は重低音を奏でているが、漆黒の闇の中に小さな光の点として点在している星たちは、かろうじて光を保っていた。しかし、その光の一つ一つは大切なもので、一つでも書けると、まわりの光が半分になってしまう。さらにもう一つがなければさらに半分、どんどん半分になっていっても、そんなに真っ暗になっていっても、一つでも光っているものがあれば、色が暗黒になるおとはない。

 暗黒の闇が訪れるには、すべての光が消えてなくならなければならない。それは死の世界でしかない。それを味わうには自分が死ぬしかないのだ。

「二度と戻ってはこれない死の世界、そこにも奏でられる音楽は存在するのであろうか?」

 恭介はそんな風に思った。

 星は毎回一つすつ光を失っているように思う。消えているわけではない。何度となく創造した自分の中の宇宙。その宇宙には光を発せず、まわりの光でも発光しない星があるという。きっと光を失った星の末路ではないかと思うのだが、光のない星は、死んでいると言えるのだろうか?

 きっと生物は死滅しているだろう。光がなければ生きることは不可能だ。きっと空気もないはずで、空気があるからこそ、光ることができるからだ。水も空気がなくても生きることのできる生物がいれば別である、例えば暗闇を食べる生物。

 暗闇はいくら食べようとも消えない、そして減らない。暗闇を食べる生物にとってはまるで永遠の命を与えられたも同然だ。

 人間などは、不老不死というものを夢見て、その想像を物語にして、欲望を形にしようとする。一種の芸術というべきなのだろうが、暗闇を好物にする生き物は不老不死は持っているが、完全なる下等生物だ。バクテリアにも匹敵するかも知れない。きっと地球と言う星が存在し始めて生まれた生物というのは、このようなものではなかったか。星が生まれて最後に死を迎えるのだとすれば、その間にどのような生物が存在しては消えていったかは別にして、最初と最後は同じような生物であるということは、どの星のどのような生まれ方であっても、その生物がどんな生物であったとしても、星の運命として変わらぬ神話のようなものなのかも知れない。

 想像力は尽きることもなく、果てしない。

生き物である以上、心臓のようなものがあり、規則正しく時を刻んでいる。その生き物の心臓の音によって生まれた時間という概念が、静寂の中で進んでいく星の営みに一定の抑揚を与える。

 生物は一つである必要はない。いくつもの生物が生まれ、その鼓動もまた早鐘のように刻まれていき、一つとして同じ感覚のものはなく、ただ、自分の中では規則正しくその鼓動を奏でている。

 これが、恭介の中での音楽の基本だった。

 中学の頃に聞いたクラシックの調べ、それこそ、いくつもの生物の鼓動。動物一つ一つが別の楽器であり、奏でられた音楽は一つの形になりながら、抑揚はメロディに変わっていく。メロディと規則正しい旋律は、新しい音を生み出す。曲を生み出す時に想像する世界は、消えることはない。夢は目が覚めると見ていたことさえ忘れてしまうが、音楽を作っている時に創造した世界は、決して忘れることはない。しかも、成長し続けているので、またこの世界に入り込んだ時には、世界は勝手に成長している。今ではゲームとして育児ゲームなるものが流行っているが、その発想も芸術を育む環境と似ているものなのかも知れない。

 音楽を創生していると、想像の世界なのか、妄想の世界なのか分からなくなってくる。想像の世界というのは、自らが意識している理想を育むもので、妄想の世界とは、意識している想像ではなく、何か別の力によって誘われた世界がそこに広がっている。

 想像の世界も、妄想の世界も、同じ、

「自分が頭の中で作り出すものだが、想像は作ろうとして作ったもの、妄想は勝手に頭の中から湧き出してきたもの」

 という思いがあった。

 その感覚にほぼ間違いはないと思っているが、より不思議な力と限りない力を感じるのは妄想だ。しかし、妄想とは結局自分の力の及ぶところではないので、不思議さの限界を計り知ることができないだけだ。想像力の方がより自分の意識の中にあるだけに、きっと限界を知ることはできるだろう。

 しかし、その限界を知らない間は、限りない力として感じることができる。そう感じている間、きっと限界が訪れることはないだろう。一つの答えを見つけても、新たな想像力を紡いでいく、数珠つなぎの妄想は、きっと途切れることはないに違いない。

 音楽の想像は、そのようなものだった。規則tだしい鼓動はリズムであり、抑揚はメロディ、創世記の地球から、今の地球を作り出すなどという無謀なことはしないが、そのプロセスにおいて、いくらでも発展性のある曲というものを作ることはできるのではないか。ここに果てしない妄想が絡んでくれば、いくらでも曲を作ることはできる。

「どうせ正解なんてないんだ」

 という考えの元、作品は無限である。

 作曲を始めると、一つの曲を作り上げないと気が済まないというよりも、一度作り始めると、その間に違う時間が挟まってしまい、一度妄想の世界を離れてしまうと、もう作れなくなる気がしていた。

 曲を作るのは妄想の世界である。最初は想像の世界を膨らませていき、曲の完成が近づいてくると、妄想に入るのだ。

 もし、どこかのタイミングでその日の曲作りをやめたとして、次回作成に問題なく入れるタイミングがあるとすれば、この

「創造から妄想へと移る時」

 なのではないだろうか。

 ただ、これはある意味実に危険である。

 タイミングとしてはここしかないと思うのだが、一歩間違えると、せっかく想像力を豊かにしてきたものを渡すことなく、奈落の底に落としてしまわないとも限らないからだ。

 想像の世界と妄想の世界の間は、断崖絶壁の谷間に掛かっている一本の不安定な吊り橋に過ぎない。普段は意識もせずに渡しているのだが、途中で研ぎるということは、想像の世界の最後でやめるのか、それとも妄想に渡してしまってからやめるのかで違ってくるだろう。

 もし、想像の最後でやめてしまえば、目の苗の危険な橋を意識して渡らなければいけない。逆に渡ってしまっているとすれば、妄想の世界というのが、自分で作り出したものではないだけに、想像と妄想を繋ぐ吊り橋すら見えないだろう。

 なぜなら吊り橋は、想像の世界から段階を踏んで作り上げられた創造物を持ってでないと、その吊り橋すら見ることができない。妄想の世界になど入ることはできないのだ。

 妄想の世界にいきなり入り込んでしまうのは論外である。意識が紡いだものではないだけに、どこに現れるか分からない、

 夢というものを怖い夢しか意識がないように、妄想の世界にいきなり入り込むと、ロクなところにはいかない。当然、自分の望むところに現れることができるはずもなく、想像との境目が分からず、まるで想像の世界と妄想の世界が、

「現実と夢の世界」

 のように感じられることだろう。

 いきなり眠ってもいないのに、夢を見ることなどできるはずがないように、いきなり妄想の世界に飛び出すことはできないのである。

「夢と現実の世界と同じようなものが夢の世界に広がっているとするならば、それこそが創造の世界と、妄想の世界だと言えるのではないか」

 現実の世界で集中することは、夢の世界、その中でも想像と妄想の世界に入りこむことを意味している。

 そう思っていると、音楽を作ることも苦ではなくなってくる。そのことに気付くようになったのは最近になってからのことで、そう思うと、一人でいることの意義が分かってきたような気がした。

「寂しさなんて幻想だ」

 この幻想というのは、想像も妄想も伴わない、ただの余計な見えなくてもいい幻にすぎないものである。

 幻というのは、一口に言って、広義の意味でいろいろな解釈がある。

「心的表象としての、いわゆる空想やイメージとしての存在」

「現実には間違いなもの。すなわち、イリュージョン、幻想、幻覚など」

「現実には存在するが、実際には数が少ないため、希少価値とされるもの」

 などいろいろな意味で、幻という言葉が使われる。

 ただ幻を考える時、現実世界を基準にして、この世界でのできごとなのか、それとも別世界でのその世界そのもの、あるいは、その世界での事象を幻として解釈するものとに分かれる、

 それでも基本は現実世界にいる自分が感じることであって、夢という言葉と対比されることで、

「夢幻」、「ゆめまぼろし」

 と表現される場合、イリュージョンや幻想などというものを、狭義の意味での幻と捉えるのが一番いいのではないだろうか。

 そうではあるが、恭介の中で、幻と幻想とは別のものであった。先ほどの

「寂しさなんて幻想だ」

 というところの幻想という言葉は、本当は幻という意味ではないかと思っている。だから、恭介は幻こそが幻想の中でも想像も妄想も伴わないものだと考えるようになった。

「夢も幻も儚く消えたとしても、それは仕方のないことだとして諦めのつくものだと言えるのではないだろうか」

 とも考えていた。

 その日に作った音楽は、一つの組曲として、さらに翌日も作成しようと思った。組曲であれば、一曲の中にもう一つの短い段落が存在する複数の曲で彩られる。全体を一つの完成品として、一つ一つを紡いでいくことは、映画音楽としても、プログレッシブな理論に対しても、どちらも叶えられることでもあった。

 三時間ほどで数分の曲を作り、それを一日暖めながら、何度も聞き返してみた。今ではスマホでも音楽を作ることができるアプリもあり、

「世の中の進歩は、趣味の世界にも充実させている」

 感じさせられた。

 その日の創作は、惑星をイメージしたものとなった。壮大な幻想が漆黒の闇を包む。その中でひときわ大きな星、木星のその向こうに、輪っかを作った星が見える、普通に考えれば土星なのだが、本当に土星だろうか、そうやって想像していくうちに、宇宙が曲になっていく。普段ならここまでは想像できないと思うほど、今日は冴えていた。想像していた三時間もかからないうちに、五分ほどの曲が出来上がった。曲名はまだないその曲は、スマホに保存し、自分の最新作として、いよいよ本格始動を思わせた。

 こんな気分になったのは久しぶりだった。曲を作ることが最近では億劫にもなっていて音楽の旋律が浮かんでこない日々が、実は続いていたのだ。

 何がきっかけになるか分からない。その日は、実際に見たわけでもないのに、花火がイメージとしてあったのだろう。

 花火がさく裂するというのは、しょせん地上から数百メートルくらいのものである。飛行機の飛行高度に比べても極めて低いところでさく裂しているのに、どうしてあのような綺麗に見えるのか、それを思うと花火の神秘性、そして宗教が絡むというのも分からなくもないというものである。

 さく裂するスピードも大草で比例するわけではなく、早く広がるものもあれば、ゆっくりと広がるものもある。そんな神秘的な花火を見ていて、宇宙を想像したのも、何か閃いたものがあったからなのかも知れない。

――そうだ、今日助けた男性。彼の顔を見て、何か初めて出会ったという気がしなかったくらいだ――

 もちろん、その男性が新宮晴彦であることは周知のことがあるが、実はその日、晴彦も花火を見ていないにも関わらず、彼なりに作曲意欲に燃えていたようで、気分の悪さが回復してくると、それまでの顔色の悪さがウソのように、スッキリとしていて、一人作曲に耽っていた。

 彼は恭介のように、いつも一人というわけではなく、普段は友達と一緒にいる時間も結構あった。その日も、会社の帰りに一緒になった連中と軽く一杯やってからの帰りだったのだが、想像して以上に花火大会ということもあり乗客が多かったことで、不覚にも立ち眩みを起こしたのだが、普段はそんなことはなかった。実際にその日は、友達の栄転の内示が出たということで、少し早かったが、忙しくなる前にということで、内輪での飲み会となったわけだ。

 一緒に飲んだ連中もそれぞれに忙しいということで、その日は一次会のみで終わったので、酒を呑んだと言っても、ほぼ一杯だけだった。皆もそれを分かっているので、まさか晴彦が立ち眩みを起こしているなど、思いもしなかったはずだ。

 皆帰りは別方向ということもあって、晴彦は一人での帰宅となったのだが、運悪く、途中の駅で花火大会などやっていようとは、想像もしていなかったのだ。

 友達と一緒に行動することの多い晴彦だったが、大勢の人ごみの中というのは苦手であった。満員電車は朝の通勤時間だけで勘弁してほしいと思っているほどだった。

 会社は、都心部からは少し離れているので、そこまでの超満員というわけではないのがありがたかった。そういう意味では帰宅時間も少し会社で残業すれば、帰りは座って帰れるはずであった。この日は運が悪かったというべきであろうか。

 飲みすぎて誰か年配の男性に助けてもらったという意識はあった。気分が悪かったので、どこの誰だか分からなかったのが残念だったが、そのうちに出会えるような気がしたのは、気のせいだろうか。

 だが、せっかく出会うことができれば、恭介の方でも、

「どこかで会ったことがあったような気がする」

 という思いを証明できたとしただろうが、いみじくも、その思いとは別の意味で、以前に出会っていたことが証明されることになるのであった。

 それからしばらくしたある日の昼過ぎに、新宮晴彦は遺体で発見されたのだ。

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