第3話 精神疾患
今度は児玉恭介であるが、kれは大学時代に社会経済学を専攻していた。社会経済学を専攻した理由は、
「その大学では、就職に有利な学部だから」
という、別に学問に対しての興味があったわけではない。
したがって、大学で勉強はそれなりにして、それなりの成績で卒業したが、まったく身になっていたわけではない。
社会経済学よりも、やはり映画音楽に夢中になった時代が、本当の大学時代だったということで、後から思い出しても、映画音楽を作っていたという思い出しか、大学生活に思い出など残っていないほどだった。
大学生に入って、プログレッシブロックにのめりこんだ時代が懐かしい。あれからずっとやめなかった曲作りの日々、発表する機会がなくとも、懲りることなく、ほぼ毎日を曲作りのために費やす時間を作っていた。
若い頃は、毎日一時間程度のものだったが、四十歳を過ぎた頃からその時間が倍増し、今では毎日三時間ほどになっていた。
テレビドラマを見ては、後で自分なりに音楽を作ってみる。もっともテレビドラマの場合は、元々音楽が存在しているので、どうしても固定観念は免れない。したがって、録画しておいて、最初は音ありで見てみて、それ以降は音声なしにして、映像だけで自分の作品を膨らませていく、さらに映像だけではなく、小説を読んでは、そのストーリーから情景を想像し、そこから音楽を創造する。あくまでも数段階の「そうぞう」を重ねてくることで、音楽は育まれていくのであった。
まず音楽には「小節」というものがあり、それごとに想像力を分散できるように思えた。元々小説は、
「楽譜ありき」
の考え方であって、音楽を作る人間、演奏する人間の思惑を崩すことなく設けられているのではないかと思う。それは、
「音楽にはすべて拍子がある」
というものであり、その拍子のひと塊りを、小節というのではないだろうか。
その一つ一つの小節を把握することで、音楽は反復したり、その反復が強調という形でその曲を表す頃ができれば、少なくとも自分に満足できる曲を作ることができる。
恭介は、最初の方こそ、いずれはメジャーな作曲家としてデビューしたいと思っていたが、次第にハードルを下げていき、今では、自分を満足させられるだけの曲ができればそれでいいと思っていた。
しかし、実際に作ってみると、想像以上に自分を満足させることが難しいのということを分かってきた。
「自分を満足させる作品など、そう簡単に作れるものではない」
何かに秀でた職人と言われる人たちでも、出来は素晴らしいのに、
「自分で納得できる作品など、十回に一回できればいいくらいだ」
と言っているのを聞いたことがあり、最初はそれを、
「ただの謙遜だ」
と思っていたが、どうやらそうではなかったようだ。
本当にその気持ちを持っていて、自分の作る極でも、確かに数十作品のうちの一つくらいだろう。そのうちにどの作品が自分を納得させられた作品なのかということも忘れてしまって、いつの間にか自分が惰性で曲というものを作っているのではないかと考えさせられる。
「曲というものは、情景を見ずに、音楽だけが存在すれば、情景を想像することってできるんだろうか?」
と考えたこともあった。
かなり乱暴な考えであるが、最近の恭介は、そのあたりの追求も考えている。特に音楽というのは、大学時代に専攻していた社会経済学などとはまったく違う世界で構成されていて、その中の世界にしか比較対象を求めることのできない、一緒の離れた学問とは違い、曲作りもその中に入る音楽の世界というものは、そのまわりにある大きな括りである芸術の世界の中で、別のジャンルと、密接なかかわりを持っている。そこが、経済学にはまったく興味を持たなかった自分が、初めて興味を持ったものだった。
「世の中には勉強以外に興味深いものが、想像以上にたくさんあるのかも知れない」
そう思うと、音楽への興味はさらに広がっていて、プログレッシブロックとの出会いがその思いを現実化させてくれたような気がした。
インディーズ映画の音楽を、同じインディーズで公募するという話があった。恭介は今まで温めていた作品の中から、いくつかピックアップして、試写で見た作品を思い出しながら、それぞれに当て嵌めてみた。
しかし、一度完成させてしまったものを結び付けるという才能は、どうやら自分に備わっていないことに気付くと、
「新作を作ろう」
と思うようになる。
しかも、その方がしっくりくる。確かに出あがった作品から結び付ける方が容易ではあるし、効率もいいのだろうが、どうにもしっくりとはこなかった、そういう意味でも新作を作ることで再度新たに気を取り直すこということは、新しいものには新しいもので対抗するという自分のポリシーを裏付けるような気がするのだ。
音楽以外にも映画を作品として盛り立てるためにはいくつもの段階を必要とする。
まずは、企画があって、作品の大筋が決まる。脚本で細かい段落を作り、さらにアクターが演技を行い、映像に収める。それまでに演出、監督が携わり、編集作業の中で、音楽もいよいよ登場してくるというわけだ。
恭介の作品は、オープニングの音楽やエンディング曲でもない。作中にある効果を高めるための、場面を彩る音楽である。
作品を見てから曲を作るのが本当の筋と言えるのではないだろうか。
歌詞のある曲であれば、まず歌詞が出来上がって、そこにメルディという曲ができ、そしてアレンジが出来上がることで、歌手が歌うことになるのだ。
だが、ある作詞家は逆のパターンを取っているという、先にメルディを聴いてから、詩をそこに当て嵌める。考えてみれば、曲作りというのは、テーマが存在し、そこで曲をイメージするのであるから、先に曲があってそこから詩を起こすというのも決して無理なことではない。むしろ、その方が自然なのではないかと思えてくる。
「ただ、後から付け加える方が楽なのではないか?」
と考える人もいるようだが、決してそうではない。
先に出来上がっている方が、制約がなくて簡単であり、限られた範囲内で模索するのは、難しいようには思えない。
ただ、それはあくまでもその人が感じることであって、物事を、
「楽や苦」
という境界だけで判断するというのは難しいのではないだろうか。
映画の場合だが、この場合はまず決めるのがテーマなので、映像に起こすのと、音楽を作成するのが、同時進行でも逆のパターンであっても、悪くないであろう。
作詞作曲にも言えることが、映像と音楽というものにでも言えるのではないかと思った。ただ、大学時代に作った自分の曲が実際にウケなかったのは、
「そういえば、あの時の作品は、映像を見ずに作ったのではなかったか」
基本的には映像を見て音楽を作るという、いかにも当然のやり方が大半だったが。中には敢えて逆のパターンで挑んだこともあった。
どうしてなのかというと、それは言わずと知れた、ワンパターンというものを払拭したかったからではなかったか。
それでも、一度つまらないと言われたからで、自分の才能に限界を感じるほど、自分がそんなにたいそうな曲作りの人間だとは思っていない。プロでもないのだから、いくらアマチュアという言葉をつけても、それは思い上がりであり、作曲家などという言葉は恐れ多いと思っていた。
それは小説の世界でも言えることで、テーマが先にあって、想像力がそれを補う。ただ、それは、すべてを一人でこなすという意味では、音楽や映像作品どとはまったく違っている。
それだけに自由ではあるが、その先に進むにつれて、先が短くなってしまったりするように見えるのは、単純に距離や視界の狭さを反映しているだけではないだろう。
映像には映像にしかできないこと、小節には小説にしか分からないことが存在しているからであった。
作成している時は、
――俺以上の作曲家はいない――
などと自惚れて書くこともあるが、後で襲ってくる自己嫌悪に陥ってしまうことが分かってくると、そう簡単には、自惚れることはなくなった。
一種の、
「世間の目」
を気にしているからなのかも知れない。
いかに普段から音楽を意識しているかということがベテランになればなるほど重要になってくるのだろうが、それをずっと理解しているわけではなかった。
自己嫌悪に陥れば、それがそのまま鬱状態にひることもある。躁鬱症を感じることが学生時代から続いている恭介にとって、自己嫌悪はあまり感じたくない症状であった。
自己嫌悪から入ると、まずは鬱病を感じてしまう。鬱になると、仕事も何もかも手につかなくなるばかりではなく、食事をすることも眠ることさえ億劫になることさえある。
ただ、鬱状態における睡眠は顕著であった。鬱状態における自分の一番楽しい時間と嫌な時間の両方が睡眠というものに対して与えられるのだ。まず、一番好きな時間としてであるが、
「寝る前」
と答えるであろう。
一番嫌いな時間としては、
「眠りから覚めた時」
と答えるだろう。
これを起きた時と答えないのは、寝る前と違って、目が覚めた時というのが曖昧に感じられるからだった。
なぜなら、目が覚め李時の定義として、まずは、夢を見たか見ていなかったかということが問題になる。ただ、夢の場合は、目が覚めてから覚えていないというだけで、本当は夢というのは毎回見るものではないかという意識を恭介は持っているからだった。
覚えている夢というのは悪夢が多く、楽しかった夢というのは、
――見たかも知れない――
という残像のようなものが残っているくらいだった。
しかも目が覚める時というのは、徐々に覚めていくもので、その間がどれくらいの時間なのか、ハッキリとしない。同じくらいの時間なのではないかという意識があるだけで、曖昧にかんじるため、恭介は逆の理論で、
「目が覚めるまでのプロセスの時間は、毎回寸分狂わず、ずっと一緒なのだ」
と思っていた。
それは楽しい夢であっても、怖い夢であっても、夢を一切覚えていない時であっても同じこと、そのシチュエーションや度合いによって、覚醒するまでの意識に誤差を生じさせるだけだと考えていた。
鬱状態の時の目が覚めるというというのは、特に長く感じられる、
――置きたくないという無意識の抵抗なんだろうか?
とも思っていたが、
「逆に一番嫌いな時間だという意識を持ってからは、鬱状態には嫌なことが意識的にできるようになるという特徴があるのではないか?」
と思うようになった。
ただ、そうなると、嫌いな時間を意識できるのであれば、鬱状態の時ほど自分の気持ちに向き合えて、気持ちをコントロールできる時もないという思いもあり、本当は嫌で嫌でたまらない時期であるにも関わらず、冷静に自分を見つめなおすこともできる時期ではないかと思うこともあった。
もっとも、躁状態への変化も鬱に入った時も自分には分かる。しかも、鬱状態から躁状態に入る時は、鬱状態の出口が見えて、鬱状態に入る時には、鬱に入ってしまったことが分かるのだ。どちらも鬱状態の出来事であり、前者はトンネルからの出口、そして後者は、日暮れから夕方の喧騒と下雰囲気に、身体が感じる気だるさを誘発しているような、無意識に汗が滲んでくるそんな時間帯を意識させるのである。
時間帯でいうと、鬱状態というのは一日の中での夕方に値する。日が完全に暮れてしまって漆黒の闇に包まれている夜であっても、そこは躁状態になるのだ。躁鬱症の中で迎える夜には決して夢などない。
「躁鬱状態こそが夢の中だ」
という感覚があるだかだろうか?
この感覚は、夢を覚えていないという感覚と似ている。ただ覚えている夢のほとんどが怖い夢であるため、楽しい夢はすべて記憶の奥に封印されるものだと考えているが、本当に楽しい夢というのが存在しているのか、躁鬱症に陥った時に、時々考えることであった。
しかもこれを考える時は、鬱状態の時ばかりではない。躁状態になっても鬱状態の時に考えたことが継続されて考える唯一と言ってもいい発想だった。
「やはり躁状態と鬱状態とは、夢というキーワードで繋がっていて、だからこそ、一人の人間の中で行ったり来たりするものなのではないだろうか?」
と感じるのだった。
躁鬱症の正体がどんなものなのか分からないが、恭介にとって、切っても切り離せないと思う理由に、睡眠というキーワードがあるからだ、
「人間は睡眠を摂らなければ生きられない」
誰もが何の疑いもなく感じていることであり、この思いは恭介にも他の人以上に強く持っていた。
恭介と晴彦が出会ったのは、本当に偶然であった。あれは地元で開かれた花火大会の帰りだっただろうか。花火など興味のなかった恭介の方は、普通に帰宅しようと、派遣先の会社から電車に乗るために液に向かった時、思ったよりも人出の多さにビックリさせられた。
「どうしたことなんだ?」
と思っていたが、その日がこの駅で一年で一番目か二番目に乗降者の多い日に当たっていることに最初は気付かなかった。
もう一つの比較というと、元旦で、近くの神社が初詣で賑わう場所だということを知っていたからである。二日の紐それなりに多いのだろうが、二日の日に比べればその日の方がはるかに多いように感じられた。
考えてみれば、近くには大きな川もあり、神社があるということは花火が催される条件に当て嵌まることに気が付いた。
そもそも花火という儀式には、五穀豊穣の祈願も込められていると聞く。神社に五穀豊穣の行事があるのも当然のことで、全国にはここ以外でも五穀豊穣祈願祈願をこめての奉納花火というのがあるらしい。それを思うと、花火というのも立派な宗教的な儀式であると言えるであろう。
さらに時期的にも各地で花火大会が催されていて、普段はあまり乗降客のいないこの駅が年に何度かホームに溢れんばかりの人を収容する日があっても、いいのではないだろうか。
今年は梅雨が長く、梅雨が明けたのが八月に近づいていた時期であった。そのせいもあってか、いきなり気温がうなぎ上り、梅雨に慣れていた身体が急に襲ってきた猛暑に耐えられず、倒れる人も少なくなかったようだ。
天気予報ではお盆の前あたりからこの暑さのことを、
「残暑」
と表現する。
暑さを感じるようになってまだ半月も経っていないのに、残暑というのもおかしなものだが、お盆が過ぎて花火の時期になると、気のせいか、少し気温が下がってきたかのように思えるから不思議だった。
昼間は相変わらずのうだるような暑さだったが、朝だけは爽やかな感じがする。夜になってもまだ三十度を超えている日もあるくらいなので、夕方から宵の口は、まだうだっているのだが、花火の日は、気分的に少し涼しかったような気がしていたのに、このものすごい人出で、せっかくの涼しさが台無しだった。
しかも、その日は会社を出たのが遅かったので、ちょうど花火大会の終了時間と重なってしまったのか、電車に乗る人はハンパではなかった。
普段なら余裕で座れるはずの車内は、まるで朝の通勤ラッシュを思わせた。彼の仕事はシフト制で、普通のサラリーマンのような九時出勤というようなシフトは稀だったので、朝の通勤ラッシュを味わったことはほとんどなかった。そのせいもあってか、この日は電車の中が鬱陶しさ以外の何物でもない気がして、その覚悟の元、電車に乗り込んだ。
ラッシュの時、座ることができない時の自分の立ち位置はいつも決まっていて、一番最後に乗り込んで、閉まる扉にもたれかかるというイメージで電車に乗る。さすがに多いとは言え、立っている人に押されてドアに押し付けられるというような超満員というわけでもないので、幾分か余裕があった。それでも、電車がカーブすると吊革につかまっていても、遠心力で外側に流されてしまうので、圧迫を感じることもあった。そんな時、自分の前の扉と壁の分け目あたりに立っていた一人の男性の様子が少し変であることに気が付いた。
顔色はどう表現していいのか分からないほどで、しいて言えば土色と表現すればいいのか、まるでそこだけモノクロ映像になったかのようだった。
よく見ると額から汗が滲んでいるようで、次第に表情が苦悶の表情に歪んでいるかのように見えた。
「大丈夫ですか?」
と声を掛けると、
「ありがとうございます。まあ、何とか」
とそこまでいうと、苦悶の表情から噎せ返っているのか、咳き込んでしまった。
――おのままではいけない――
と思い、
「次の駅で、ちょっと降りましょう」
というと、
「ええ」
と、納得したように、背筋を曲げて、何とか自分が楽になる姿勢を模索しているようだった。
そんな状態を他の誰も見てみぬふりだった。
――誰も何も言わないんだ――
といまさらながらに思ったが、その理由を考えてみた。
一つは、彼に最初から誰も気を付けておらず、そんな状態になっていることに気付いていない場合だ。そしてもう一つは気付いてはいるが、関わることになってしまうのが面倒くさくて、何も言わないという場合、この時はきっと恭介のように誰か声を掛けてくれる人の出現を待っているという人もいるかも知れない。ただ、気付いていて何も言わないくらいなので、そんな人の出現を待っているようなこともないだろう。
ここにいる連中がどれくらいの割合なのかはよく分からないが、一人が声を掛けなければ誰も掛けないという集団意識のようなものがあることはよく分かっている。もし誰かが声を掛けようものなら、自分も掛けなければいけないのではないかと思っている人がいるとすれば、自分が声を掛けてしまったことで、他の人から恨まれるというそんなおかしな感情に見舞われるのではないかと感じたのは、自分の考えすぎではないかと思った。
その証拠に自分が声を掛けた時、誰一人としてこの場に自分の存在感を示そうとする人はいなかったではないか。しょせん、世の中というのはそういうもので、誰か一人が差し伸べれば、最終的にその人だけがまるで人身御供のようにまわりから置き去りにされてしまうのではないだろうか。
あまりにも極端な考えであるが、最近の恭介は極端な考えを抱くことが多くなった。
――それだけ年を取ったのかな?
と思えてくるくらいで、老人というにはまだまだだが、若い連中から見れば、すでに若さを感じなくなっていると思われてることだろう。
年齢的に中途半端な自分だったが、なぜこの日はこの人を助けようと思ったのか、自分でも不思議だった。普段なら、さっき自分が考えたような自分の気配をその空間から消してしまい、決して目立たないように群衆の中に入り込んでしまい、人とのかかわりなどありえないと言わんばかりの雰囲気を醸し出していることだろう。もちろん、無意識にである。そんな感情を持ってしまうことを自分で警戒するが、それはそんな感情を持ってしまうと、まるで正夢であるかのように、目の前に災いが降りかかってくることが分かるからだった。
災いというのは、この日のように、目の前で誰かが気分を悪くして、目の前にいるというだけで面倒を見なければいけないという義務感に苛まれてしまうことだ。
その人の面倒を見なければいけないということは、それほど苦痛ではない。自分が感じた義務感というものに苛まれることが、自分の中で嫌なだけであった。
つまりは、義務感さえなければ、別に気分が悪くなった人の面倒をみるくらいのことは別に苦痛でも何でもないと感じるからだ、
だが、その日の恭介は何となく人が多くて、嫌な気分になっていたのは最初からのことで、言われてみればであるが、
「予感めいたものがあった」
という意識があったからだろう。
その予感は、
「覚悟ができていた」
ということだったのかも知れない。
恭介は自分がこんなことをよく考えている気がする。いつ頃からこんなことを考えるようになったのかということも気になっていた。
「少なくとも大学時代まではそんなことはなかったはずだ」
と思っていた。
これを一種の精神的な病のようなものだとは思わない。精神的な病というと、考えられるのは躁鬱状態を繰り返しているような時だった。その時には、躁鬱が襲ってくる時、循環する感情が自分でも分かっている。
「自分の感情が分かること、それが心の病に罹っている証拠ではないだろうか」
と感じていた。
いわゆる精神疾患とでもいうべきであろうか。
ただ、躁鬱症になる時と、今のように自分を冷静に精神分析をし、自己嫌悪を誘発させてしまうような精神状態の時とでは明らかに違っていることに気が付いていた。
自己嫌悪は確かに鬱状態への入り口であった。しかし、鬱状態への入り口である自己嫌悪と、冷静に自己分析をしている時の自己嫌悪では、まったく違っていることに気付かされた。
冷静に自己分析ができる時というのは、躁鬱状態ではありえないことだ。自分を包むまわりの状況、まわりを見る自分の目がいつもと違っているということに気付きはするが、どのように違っているかということを表現するのは難しい。
その時、恭介が助けた相手は、サラリーマン風の三十代くらいの男性だった。
「すみません。降りる駅でもなかったんでしょう?」
と言われて、
「ええ、まあ」
と、本当は、否定するのが一般的には常識なのかも知れないが、恭介は否定する気にはならなかった。
相手は恐縮するのも分かっていたが、しょせんはお互いに社交辞令、正直に言って何が悪いと感じていた。
こういう時に気を遣う人間をどこか好きになれない恭介だったが、気を遣う必要がある時というのがいまいち分からない。実際に社交辞令という言葉が好きになれない恭介は、
「一般常識的」
という言葉も大嫌いだった。
一般的な常識とよく言われるが、誰が一体決めたことだというのだ。そんなものに縛られるから、一般常識を過剰に解釈する人もいて、余計なトラブルを呼ぶこともあるのではないかと思うのだった。
「ひょっとして、自分が感じている躁鬱症という精神疾患も、この一般的常識というものの存在を意識しすぎて、そこから入っているのではないか?」
と感じることがあった。
意識しすぎると、自分だけではなく他人への強制にも繋がってくる。何しろ一般的な常識というのは、誰も二当て嵌まる平等なことであり、だからこそ常識という言葉を使っていると思っているのだとすると、そこに罪悪感は存在せず、堂々と正義をひけらかすことができるという考えに至ってしまう。
「一般的常識」
という言葉は、その言葉の持つ大きな制約力をバックに、自分の考えを押し付けようという実に姑息な考えなのではないかと恭介は思っているが、それも精神疾患があると感じる自分が考えたことだからであろうか。
恭介は、この
「一般的常識」
という言葉を悪としてしか捉えていない。
今ではヘドが出るほど、気色の悪い言葉として認識しているのだった。
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