第13話 お茶の時間が過ぎても


 私はピアノの蓋を開けて、愛の挨拶を弾く。今日はなぜだか京のことを思い出していた。

 一緒に食べたおやつ。

 いつも荷物を持ってくれたこと…。

 温かい大きな手。でも今はチェリストとして活躍して…。


 不意に

 木の音がした。


 大きな木の。


 京のチェロの音が聞こえる。


 私の空耳でなければ…京が間違いなく、この場にいた。


 私は音のする方に顔を向けた。大きな影が揺れている。京の音が届いた。


「京…」と言いながら、京の声が聞きたくて、指が止まった。


「那由、もう一回、弾いて」


 懐かしい声がする。京だった。

 愛の挨拶を二人で弾いた。私は夢の中にいるみたいだった。ゆったりとビブラートをかける京の腕が近くにある。弾き終わると、ロビーにいたまばらな人たちが拍手をしてくれた。

 動けない私にあの大きな影が近づいてくる。


「那由…公務員して待っててくれた?」


「本当に? 京?」


「おやつも持ってきた」と言って、私の膝の上に置いてくれる。


「何これ?」


「スーパーのパン屋さんのマドレーヌ。那由のお母さんに先に会ってきた」


「え?」


「ご無沙汰してたから…挨拶に」


「どうして先にお母さんなの?」


「だって、那由がどこで働いてるか知らなくて…そしたらお昼休みにピアノ弾いてるって教えてもらったから、すぐに会いたくて」


 私は心の中で京の言葉を反芻した。


(すぐに会いたくて…。忘れられてなかったの?)

 

「連絡できなくて…ごめんね。会いたかった」


 京の大きな手が私を抱きしめた。


「京…仕事終わるまで待ってて」


「いいよ。迎えに来る」


 懐かしい温かさに触れていたかったけれど、さすがに職場でということが気になって、京の体を少し押した。


「怒られる?」


「わかんない」と答えると、京は笑った。


 本当にまだ実感がなくて、私は京と少し表に出て話すことにした。昨日、日本に着いたらしい。京が連絡しなかったのは忙しいのも、時差もあったけれど、私の声を聞くと、日本にすぐに帰りたくなってしまうからだ、と言った。


「それに…もし那由が他に好きな人ができても…我慢させなくていいと思って」


「好きな人って…。私、ずっと京のこと想ってた」


 思い出の中で息してた。私はずっと京との思い出の中で生きていた。


「…チェロと那由と…これからずっと一緒にいたいんだけど」


「私も?」


「嫌じゃなければ」


 私はなんて答えればいいのか、今言われていることもぼんやりとしか分からない。


「時間大丈夫?」と京に聞かれて、慌てて戻ることにした。


「じゃあ、また後で」と言って、待ち合わせ場所と時間を決めて、職場に戻ることにした。


 職場ではいろんな人に話しかけられた。ロビーでチェロを弾く人が現れたかと思いきや、抱き合ったのだから…。私も混乱していて、うまく説明できなかった。仕事をこなしつつも、京に言われたことの意味を考えた。


 でももしかして幻かもしれないという気持ちにもなる。待ち合わせした場所にいないかもしれない。そんな不安な気持ちを抱えて、仕事が終わった後、急いで待ち合わせ場所に向かった。


 夕方の風が吹いて、私は心細くなる。


「那由」と声が聞こえて、動けなくなった。


 本当に京が待っててくれた。私は声のする方に行って「京…あの、さっきのこと…」と言ったけど、どう言ったらいいのか分からなくなる。


「待っててくれた?」


 私は頷くしかなかった。でもいまだに信じられなくて、目から涙がこぼれる。 


「…話はゆっくりしよう。お茶でもしながら」


「もう夕飯の時間だけど」


「那由はもうおやつ食べなくなった?」


「働いてから時間がなくて」


「だから…少し痩せた?」と言って、抱きしめられた。


 京の匂いと温かさが側にある。話したいことがいっぱいある。この二年間、寂しかったこと、頑張ったこと、それからあなたを好きだったこと。思い出の中でずっとあなたに恋してたこと。


「京、大好き」


 見えない京の顔を見上げる。どんな顔をしているだろう。


「那由…愛してる。キスしていい?」


 誰が見てるかわからない場所だったので、私は首を横に振った。


「残念」と言いながら、頬に唇を当てる。


「もう」と怒ったら、軽く唇にキスされた。




 夕方がゆっくり陽を落としていく。あの頃のように歩幅を合わせてくれて、京が歩いてくれた。駅前に美味しいケーキ屋さんがあるから、夕飯前だけど、食べて帰ろうと提案してくれる。


「那由。待っててくれて、ありがとう。ずっと会いたかった」


 今、チェロを演奏する大きな手は私の手を握ってくれている。これまでの時間をゆっくり埋めるように歩きながら、少し外れたお茶の時間に二人で向かった。

 


 

                           〜終わり〜

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お茶の時間が過ぎても かにりよ @caniliyo

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