第12話 残る記憶

 那由が泣いている理由が分かる。悲しいけど、信じてもらえていないんだな、と思った。涙にキスをした。口に出して「信じて」と言うのは簡単だけど、信じさせるものが何もない。

 遠くに行く自分が何を言ったらいいのだろう。

 柔らかい肌、甘い匂い、そして涙。

 悲しませたくないのに…一番幸せにしてあげたいのに、と思って抱き締める。


 その日は雨だった。見事な朝焼けを見て、雨を知ったが、やはり朝から恐ろしく降り出した。どこも観光も行けずに、部屋で昼まで過ごさせてもらい、昼からゆっくり帰ることにした。

 昼は駅近く定食屋に入った。持参しているスプーンでゆっくり食べる那由は寝不足のせいと泣いていたせいで目が少し腫れている。


「京…。不細工じゃない?」


「ちっとも」


「瞼が開けずらいんだけど」と言うから思わず笑ってしまった。


「昨日、寝ないからだ」


「だって…」と言って、顔を赤くして俯く。


(君はいいな。目が見えないから…記憶に残るのも少ない)とそんなひどいことを考えてしまう。


「可愛い。ゆっくり食べて…それから電車に乗ろう」


 本当に少しずつ食べる様子がまた可愛かった。自分に力がなくて、哀しくなる。もっと大人だったら、那由を連れて行けたのに。


「チェロはいいなぁ。ずっと京といられて」と言われて、那由ならチェロケースに入りそうだと可笑しくなった。


 寝不足だった那由は電車に乗って、すぐに肩に頭をもたせかけて眠ってしまった。握った小さな手を見る。この手でピアノを弾くのは大変だろう。


(ピアニストになる気持ちもないのに、大学に来てくれて、ありがとう。君に会えたから)


 本当に待っていて、と寝ている那由の髪にキスをした。



 

 留学した当初はまだ連絡を取る余裕があった。次第にポーランドじゃなくて、ロシアに行ったり、オーストリアに行ったり…あちこち移動して…時差もあって、いつの間にか連絡が取れなくなっていた。それでも早く戻りたくて、一年だけ集中しようと決めた。でもチェロを弾くたびに、那由を思い出す。一緒に弾いた思い出、オーディションの練習で喧嘩したこと。忘れるなんて無理だった。会いたかったから、連絡も取らずに必死で練習した。


 もしかしたら那由は俺のことを忘れているかもしれない。


 それでも会いたかった。

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