第11話 京のチェロ
チェロの音が聞こえる。
その瞬間、京の音楽が私の中に入ってきた。ベートベンらしい風格と面白さのある曲。でも時々、私たちみたいに言い合いしてるように聞こえることもある。
京と出会って、まだ数週間なのに、喧嘩ばっかりして、お互い気をつかうことも無くなった。
違う。京はずっと私に気を使ってくれるようになった。私の歩幅、歩く速度を気にしてくれるようになったし、休憩もきっちり取ってくれる。帰りは必ず校門で一緒に待ってくれる。
でも友達になろうって言ったのに、その返事はなくて、音楽のパートナーになっただけだと思っていた。
オーディションの前に
「変?」って京に聞いたのは、私が見た目ですら京の足を引っ張っていないか心配だったから。
その時は答えてくれなかったけど、後でベンチに座って、いきなり「綺麗だった」って言われて、キスされた。
「キスしていい?」って言われて、驚いてたら、唇に柔らかい感触と京の息がかかった。
京の匂いと、風と…。日差しが明るくて、目を開けても閉じても何も変わらない。そんなに長い時間じゃなかったのに、私はいろんなことを考えた。あまりにも動かない私に京は少し離れて「ごめん」と言った。
「…どうして?」とそれだけ絞り出した。
「好きだから」
「嘘」
咄嗟に出た言葉だった。信じられない…そういう思いと、その言葉を否定してほしいという気持ちが混ざっていた。
「那由…ごめん。嘘じゃないけど…」
けど…の後は大抵ガッカリすることを言われる。
「俺…留学するから」
「…うん」
「何年かかるか分からないから…」
「…キスしたのに?」
「ごめん」
「ファーストキスだったのに?」
私は謝る京に腹が立って、手で京の顔を触った。そして両手で頬を掴むと、自分からキスをした。ぶつからないようにゆっくりと近づく。近くに来た時、京から唇を合わせてくれた。
(何これ、キスだけの関係?)と私は京の体温を感じながら考えていた。
顔を離して、でもまだ頰の手は置いたまま
「前にも言ったけど…私は京と仲良くしたい。友達になりたい」と言った。
「友達…は無理かも」と京は言って、私を抱きしめた。
背中に大きな手を感じる。それが温かくて泣きそうになる。京の手、大きくて、温かいこの手はチェロを弾くためにある。
「…待ってる。京が戻ってくるの」
きっと京は私のことなんて忘れてしまう。遠い場所で夢に向かって、いろんな人と出会って…。こんな…私のことなんて。
「でも京は忘れてくれていいから」
「…那由。そんなこと言われたら…付き合えない」
そう言われたけど、京の手から力が抜けることはなかった。京の心臓の音が聞こえる。
「…待てる?」
「公務員して待ってる」
そう言うと、京は少し笑った。
「なるべく最短で…帰ってくる」
そう言ってくれた。
それから…二年が経った。
定演には二人で出られた。とっておきの思い出だった。舞台だけが明るく光って、私は京のチェロの音と、ピアノの音の世界にいた。終わった瞬間、拍手が波のように押し寄せてきた。ライトの明るさにどこを見たらいいのか分からなかったけど、京が手を取ってくれて、二人でお辞儀をした。
京はその三ヶ月後に大学を中退して、ポーランドに行ってしまった。私とチェロを弾いているだけじゃなくて、コンクールの準備もしていたし、向こうの大学への編入も準備していた。多分、寝る時間なかったと思う。
市役所で私はたまに昼の休憩時間にロビーに置いてあるピアノを弾いている。仕事はまだまだ慣れないけれど、音声入力しながらなんとか働いている。
どこかで愛の挨拶を聞くと、京のチェロを弾かせてもらったことを思い出す。
学校の練習室で、私がチェロを弾いてみたいと言ったら、椅子に座らせてもらって、後ろから二人羽織のような形で、チェロを弾かせてくれた。
私が弓を持つとその上から優しく手を握ってくれる。左手は逆に京の手の上に私の手を置いた。ゆっくりビブラートをかけてくれて、京の揺れを感じていた。チェロの背面の木からは直に音が伝わる。
その時に弾いてくれた曲だった。
愛の挨拶。
曲が永遠に終わらなければいい、と思った。
「那由、チェロ上手いね」と後ろから耳元で言う。
「京みたいでしょ?」
ほとんど京が弾いているのに、そんなことを言う。自分から言ってきたのに「嘘つき」と言って、耳にキスされた。
嘘つきは京なのに、と思った。
朝焼けを初めて見たのも京とだった。何もかもの準備が終わって、京の出発まで一週間だと言う時に旅行に連れて行ってくれた。
「どこ行くの?」
「内緒」
電車で揺られて、ずっと隣に座っていて、それからバスに乗って降りた。潮の香りがした。昼から出たので、着いたのは夕方にさしかかっていた。
「海?」
「もうすぐ行ったらね。少し歩くけど、大丈夫?」
私は海に行くのも初めてだったから本当に嬉しくて、すごくわくわくしていた。その日は暑くて、少し歩いただけで汗ばんできたけど、日陰を選んで歩いてくれた。
宿泊先は海のすぐ近くの小さなホテルだった。二階からは海が見えるらしい。私の目には波は見えないけれど、繰り返される波の音ときらきら光が散りばめられているのが分かる。
「海行こう」
京に誘われて砂浜に出た。遮るものがなくて、とても暑かった。砂はふわふわだけど、きっと焼けている。平日だったからか、人はそこまで多くないのか静かだった。
「海入ってみる?」
「足だけ…」
私と京は裸足になって、波打ち際に立った。思ったより波の勢いはあって、私はよろめきそうになる。その度に京が支えてくれた。
「ありがとう」
私は色々な気持ちを込めて京に言った。
「那由…」
顔が見えないから京はどんな気持ちか分からない。分からないけれど、抱きしめられた手が優しく撫でてくれたのが少し哀しく感じた。
何もかも京が初めてだった。キスも初体験も、恋も。真っ暗でも京のことがはっきり分かる。汗、吐息、体温、匂い…きっと忘れられないと思った。だから少しも眠れなくて、ずっと起きていた。
京が無理矢理してくれた腕枕が少し硬かったせいもあるけど、もし目が見えていたら、きっと可愛い京の寝顔が見れたかもしれない。
「寝れないの?」
「京…起きてる?」
「寝てた」
京はいつも嘘をつくから信用ならない。そう思っていると、髪を優しく撫でてくれる。
「体…痛くない?」
私は首を横に振った。体よりも胸が痛くて、眠れなかった。
きっと私にとっては最初で最後だ、と思うと涙が溢れた。京に気づかれないようにそっと目を拭おうとしたら、涙にキスされた。
「後ろ向いて」と言って、体を反対側に向けられる。
「そっち側に窓があって、もうすぐ夜が明けるから。那由にもわかるかな」と後ろから抱きしめられた。
(あ、まるで私がチェロみたいになった)と思いながら頷いた。
背中の温もりが幸せだった。
「チェロはいいなぁ。ずっと京と一緒で」と私が言うと、後ろで笑ったような吐息がした。
「一緒に夜明け見よう」
京は私のことを忘れるだろう。こんなにも私にいろいろ残しておいて…。私は涙が溢れないようにじっと目を暗闇の中で凝らしていた。
夜明けは不思議だった。夜の色がうっすら弱くなっていく。
「明るくなってきたよ」
京の声に頷いた。いつの間にかもう京が私を怒ることはなくて、それどころかいつも優しくしてくれて、その声が馴染んでしまっている。
「京…。大好き」
抱きしめられている力が強くなる。恋ってもっと楽しいものだと思ってた。
「すごい朝焼けだ。…那由。帰ってくるまで…待ってて」
私は頷きながら、ゆっくりと白くなる視界を見ていた。
ポーランドに行った京から連絡が来たり、来なかったり…「忙しくなるからしばらく連絡できない」と言われて、ついに一年後には来なくなってしまった。
でもこのことは分かっていた。だから私はあの日の見えない朝焼けを時々思い出す。
(「待ってて」なんて嘘つきだな)と思いながら、幸せだった記憶を懐かしむ。
でも嬉しい話を花から聞いた。京が大きな国際コンクールで準優勝したらしい。私はおめでとうも言えずに、毎日働いて、お昼休みの時間に市役所の一階に置いてあるピアノを弾いている。来庁者も受付の人も喜んでもらえるといいと思って。
六月と言うのに、いい気候の日だった。お昼をさっさと食べてピアノを弾きに行こうとしていた。お昼のロビーはそれなりに混雑していた。ふとすれ違った人が京の背丈に似ていて、また思い出が溢れ出す。
だから会いたくなって、愛の挨拶を弾いた。
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