第10話 オーディション


 那由が練習してくれているのもわかるし、俺の音を聞いてるのも分かる様になった。必死で応えようとしているのも分かる。ご飯だって、一生懸命食べている。それと同じように、一生懸命にピアノも弾いている。そこに自分の好き嫌いもなく、ひたすら一生懸命で俺は怒る気も失ってしまう。

 定食を頼まずに簡単なものを選んで食べていたことも、自分の気持ちを抑えてた。そんな那由を見て、苛立ちを感じていたけれど、でも手を貸しさえすれば、一生懸命になる。


「ありがとう」


 オクラの小鉢を教えた時、そう言われて、なんて言うか、一緒に新しい扉を開けてみたような気がした。少しずつゆっくり食べていたけど、完食していた。いつも簡単なものを食べるから、おやつが必要なのかもしれないな、と思った。


「美味しい」と素直に感動する様子を見て、もう怒るのはやめようと思った。


 そして焼き鮭が食べたいと素直に自分の気持ちを伝える那由を見て、今までの苛立ちが消えた。なんなら「なんでもわがままを言って欲しい」とすら思った。


 練習を一人でしてても那由のピアノが聞こえる。ここで、いつも遅れると言った感じで、でも注意したら緊張して、さらにぎこちなくなるところも。力を抜いてもらうために、もっと俺が上手くなって、余裕を持って、弾けるように…、繰り返し練習する。


 夜、チェロを弾きながら…俺は那由のピアノを想っていた。



 オーディションの日が来た。これで受かったら定期演奏会に出演できる。那由はいつものベンチに腰掛けていた。今日はオフホワイトのワンピースを着ている。髪も纏められて、薄く化粧もされていた。


「おはよう」と声をかけると、ゆっくりと俺の方に顔を向けた。


「ねぇ、大丈夫?」といきなり言われて、思わず「え?」と聞き返した。


 まさか那由に心配されるとは思ってもみなかったからだ。


「大丈夫か? なのは…」と言いかけて、那由が化粧のことを言っていると分かった。


「変?」


「化粧…のこと?」


「うん。髪型も、服も。まだ花に会えてないから…不安で。お母さんは可愛いって言ったけど」


「自分でしたの?」


「ううん。お母さんがしてくれたんだけど」


「リップ持ってる?」


「うん」と言って鞄の中を探る。


「何か飲んだ? 落ちてるから」


「あ、お茶。緊張して」と言う那由からリップを受け取る。


「ちょっとつけるから口少し開けて」と言ってリップの蓋を開けると真っ赤だった。


(なんで、この色…)と思ったが口を開けて待っている那由の唇に乗せた。


 思った通り真っ赤な唇が変に浮いている。


「那由、唇…触っていい?」


「え? なんで」


「ちょっと濃いから、ぼかす」


「…うん」


 赤色を拭き取ろうと親指を乗せると、那由は見えない目を大きく開けた。


「ごめん。ちょっと我慢して」


「うん」


 柔らかい唇の上を親指でなぞる。軽く開いた口から小さな歯が見える。上唇も丁寧に色をぼかす。なんの抵抗もせずに身を任せてる那由にまた苛立ちが生まれてきた。


「…那由」


「何? 変?」


「…いや。行こう」


 綺麗だと言えずに、俺は那由の手に触れた。手を握ってくる那由は「京、頑張るからね」と言ってくる。

 視線の合わない笑顔を向けられて、どうしようもない気持ちになった。


「任せとけ」




 オーディション審査が行われている教室の前の廊下で順番を待っていたが、目に見えて、那由が緊張しているのがわかる。


「俺が出だしだから…。俺の音聞いて。それだけでいいから」


「音? 聞く。わかった」


「ロボットみたいだな」と言って笑うと、那由の頰が膨らんだ。


 膨らんだ頰を指で押すと、怒り出したタイミングで、呼び出された。


 審査員の先生たちが並ぶ前まで、片手でチェロと弓を抱えて、もう片方の手は那由の背中を軽く押す。那由は椅子の調整は自分でできるようだった。俺はエンドピンをストッパーに差し込み、


「那由」と声を小さくかけるて二人でお辞儀する。


 椅子に腰掛けて、那由の方を少し向く。こっちを見ることもなくピアノに向き合っていた。弓を構えて最初の音を出す。ゆったりとチェロを響かせる。どうか那由に届いて欲しい。


 途中で止められて、オーディションは終わりだ。立ち上がって、挨拶をする。那由の方を見ると、ぼんやりしているので、腕を取って、出ることを促す。


「失敗してない? 大丈夫?」


「大丈夫。ちょっと…まだ審査員の前だから」と小さい声で注意すると、先生たちは少し笑った。

 

 扉から出ると、足が震えているのがわかったので、「少しここで待ってて」と言って、控室に行ってチェロをケースにしまって、那由の鞄も持って出た。


「行こう」と声をかけると、那由は泣きそうな顔をした。


「緊張…したけど、楽しい時もあって」


「うん、大丈夫」


「でも自分だけだったらいいけど…。京が」


「俺が落ちるわけない」


「私のせいで…」


「那由のピアノ、最高だった」と言って、校舎から出た。


 外は眩しすぎるくらいの日差しが降り注いでいた。オーディションはもちろん緊張していたけれど、失敗もなく、それでいて、たまに那由の言った通り音楽が楽しく流れていたときもある。ピアノが美しく高音の輝きを添えていてくれた。


 いつものベンチに腰をかける。


「でもやっぱり京は…チェリストになれるなぁって。今日、思った」


「弾きながら…余裕あったんだな」


「うん。聞いとけって言ったから。…チェロは木の音がする」と言う那由を見ると、こっちを向いて笑っていた。


「木?」


「大きな木の音。安心する。一緒に弾けて楽しかった」


「まだ本番あるから」


「一緒に弾いてくれてありがと。一生の記念になる。いつか、京が有名チェリストになったら、自慢しよう」とまた笑う。


 那由は俺をもう遠くに感じているんだなと思った。


「あれ? サイン書いてやるとか言わないの?」


「サイン? いる?」


「うん。今日、弾いた証拠に書いてもらう」と言って鞄をごそごそ探し始める。

 

 ハーフアップにされてなかった一部の髪が横顔にかかる。


「…那由。…綺麗だった」


「え?」


「今更だけど」


 そう言うと、慌てて自分の手で髪や顔を触り出した。


「キス…していい?」


「…」


 返事を聞く前に唇に触れた。日差しと風と那由がそこにいた。

 

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