第9話 気持ちが見えない


 練習が終わると、京は一緒に校門で母が来るのを待ってくれるようになった。そして母は京も駅まで送ってくれる。大きなチェロを抱えて、駅まで行くのが大変だろうと言って、助手席にチェロを乗せる。だから後部座席に私と京が隣り合って座るようになった。後部座席でダメ出しをされることもあったけど、大抵は母が京に話しかけていた。


「京くんは留学とかするの?」


「はい。できれば卒業する前に行きたいんです。高卒になりますけど」


「へぇ…。すごいわねぇ。やっぱりドイツとか?」


「ポーランド…に教えてもらいたい先生がいるので」


「行ったことないわー。ご飯美味しいのかしら」と母が聞いた時、京は吹き出した。


「あら? 変な事聞いた?」


「いや…。すみません。やっぱり親子だなって思って」


「え? そうかな? 那由と似てる?」


「食い意地が張ってるって言いたいんでしょ」と私は京に向かって言った。


「うん? まぁ、食べること好きなんだなって」


「あら、そうかも」と母は呑気に返事した。


 水だらけのスパゲッティの話をされるかと少し心配した。母には心配かけたくない。でも京はそんな話より、私がいかに美味しそうにドーナツを食べたかを話していた。


「ドーナツ買ってくれたの」と言って、残りのドーナツももらったので、母に報告する。


「まぁ、ありがとうございます。那由、買いに行けないから…毎日、おやつ持参してて。今日も今からスーパーに寄って帰るから…明日、京くんの分も持たせるわね」


「え? いや…大丈夫です」


「仲良くしてくれてるもの」


(仲良く…か)


 あの後、結局、京は私に返事しなかった。友達になろうという気持ちはないのだろう、と私は思った。ただ先生から言われただけのパートナーだった。別に京と友達になろうって真剣に思ったわけじゃない…と考えると胸がちくっとした。


「…いえ。怒らせてばかりで…」と京が言う。


 京だって練習の時はずっと怒りっぱなしなのを棚に上げて、とちょっとむかついた。


「申し訳ないなって」


「え?」


 思わず私は聞き返した。申し訳ないなんて思ってる態度でなかった気がする。母の手前そう言っているだけなのだろうか、と首を傾げた。


「辛くない?」


 京の真面目な声を聞いて、思わず言葉が出なかった。練習は辛くて仕方がなかったけど…、たまに楽しく感じることもあって…でもできたら、もう少し穏やかに練習したいな、と思っていた。


「那由、今日は家に帰ってからも練習しなさいよ」と母が代わりに言った。


 駅に着いて、京が車から降りると、母がため息をついた。


「あんなに綺麗な顔で、心配そうに覗き込まれたら、キュンとしちゃうわよ」と言う。


 覗き込まれてたなんて、全然分からない。まして心配そうに…なんて。母の前だからとはいえ、芝居がすぎる。


「ちゃんと練習して、京くんの足引っ張らないようにしないと」と母までが鬼モードに入っていた。


 もしや、それが狙いだったのでは? と今更ながらに思う。今まできっとそうやって女性を手のひらで転がしていたのかもしれないけど、私には効かないから、と思った。でもお友達にもなる気がないらしいから、きっと転がすつもりもないのだろう。私は母とは別の意味でため息をついた。


 夜にピアノを一人で弾いていると、京のチェロの音が聞こえる。ここで京のチェロがテーマを弾いて、私が返す。一人で弾いているのに、ずっと京のチェロがあるような気がした。ついでに京のお叱りも聞こえるけど。ここで京を怒らせたな、と思って繰り返し練習する。


「こんなに練習してるのに、友達にもなれない」


 それがなぜだか、胸が苦しくなった。



 カフェテラスの前で待ち合わせていた花がだいぶ遅れて来た。花とのランチは楽しみだったけれど、花もカルテットの練習とかで時間通りには来れなくなった。ものすごい勢いで謝られたけど、花が謝るべきことではないから、と私は気にしないでと言った。

 

「澤谷くん、那由のランチよろしくね」と言った。

 

 隣にいたとは気が付かなかった。


「もちろん」


 私は思わず声の方を見たが、影は少しも動かない。


「ずっとそこにいたの?」


「まあ…」


「え? どうして?」


「…いや。なんとなく」


「何かあったら、澤谷くんのせいなんだからね」と花は言った。


 今日は三人でランチになった。私は今日はオムライスにすることにした。


「那由はなんで、いつもいつも子供みたいなものを食べてるんだ?」と京が聞いた。


「何? 子供みたいなものって」


「スパゲッティにオムライスだから」


「…それは」


 食べるのが簡単だからだ。小鉢などついている定食は食べるのが難しく、時間もかかる。それにあまり綺麗に食べれる自信がなかった。


「いつも私と半分こしてるの」と花が言った。


「半分こ?」


「そう私が今日の定食を頼んで、少し分けてもらうの」と花は言ってくれた。


 花はそう言ったけれど、本当は私の食事の介助もしてくれる。頼んだわけではないけれど、私が定食を頼まないことに気がついていて、「半分ちょうだい」

と先に言ってくれた。その代わりに、私におかずを分けてくれる。


「お皿のここに唐揚げ置いたからね」とか「ハンバーグ乗せてるからね。フォークに刺しておくよ」とかいつもそうして分けてくれる。もちろんガッツリ自分の分も持っていってくれる。私に罪悪感を起こさせないように。


「そしたら本当にお子様ランチみたいになるでしょ?」と花が澤谷くんに説明している。


「…食べたいもの、頼んだら?」と京が言った。


「え?」


「別にゆっくり食べたらいいし。スプーンとかで。俺が教えるから」と言って、私のオムライスを奪い取った。


 そして自分が頼んだ定食を私の目の前に置く。そしてメニューを一つ一つ言ってくれた。


「メインは焼き鮭、大根おろし付き。小鉢はオクラと鰹節。味噌汁、ご飯、以上」


 焼き鮭は骨も見えないからハードルが高かった。


「皮、食べる人? 食べない人?」と京が聞いたから、首を横に振る。


「京くんが皮取ってくれてる。骨も…」と花が教えてくれた。


 そして私にスプーンを渡してくれて、ここに鮭があるから、と手をとって教えてくれた。


「ゆっくり食べたら? どうせ昼休みやることないし。オクラ食べたかったら言って。場所教える」


 私が何か言う度に京は手をお椀に当ててくれる。


 途中で花が「カルテットの練習に戻るから」と言って席を立った。その時に「ちょっと安心した」と言って去って行った。


 私はものすごく時間をかけて、ご飯を食べた。二、三回、場所を教えてもらうと、もう感覚で場所が分かる。


「京は食べ終わった?」


「気にするな」


 私は後から花に教えてもらったんだけど、京はさっさと食べて、ずっと私を見ていたらしい。


「あんなに優しそうな顔するんだって思った」


 私は京がどんな顔をするのかも、そもそもどんな顔かも分からない。でも手が触れると暖かくて、大きいのは分かる。まるで京のチェロと同じだ。その日から私は京のチェロと呼吸と体の動きをしっかりと感じ取るようにした。

 そしたら不思議なことに京の音がより身近に感じられる。どんな音を出したいのか、どんな音が欲しいのか、こんな音を出したら、どんな音が返ってくるのか…。


「会話」


 楽器で会話していると思った。そして京から怒られることがなくなった。

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