第7話 愛って何?


 お昼の時間になって、花が「合わせで遅れるから先に食堂に行ってて」と電話してくれた。

 

 ミートソースパスタをテーブルに運んで窓際に座る。明るさだけでも感じられるとやはり気持ちが良い。でも誰かが私の向かい側の席の前に立ったのだろう、日差しが遮られた。そして何か液体が溢れる音がした。それは結構な高さから流れる水の音だ。

 ごく近くで。


「あ、ごめんなさい。水こぼしちゃった」


「水?」


「ごめんねぇ。手が滑って」


「手が滑って、水が?」


「そうなのスパゲッティぐちゃぐちゃになっちゃったし…あなたの服にソースが飛んでしまって」


「水…手が滑って溢れてない。上から水かけた音したけど」


「は? 見えないんでしょ? それとも見えてるの?」


「あなたの顔は見えない。何したかも。でも水がこぼれた音じゃない。上から落とした音だった」


「気のせいよ」と言って、影が動いた。


(なんだ、これ)と思わず、思考も停止してしまう。


「那由」と私を呼ぶ声は京だった。


「お前がしたのか?」と怒ったような声と「あ、ちょっと手が滑って」と言う声。


「お前違う」と思わず言ってしまってから、私に言われたんじゃないって気がついた。


「なんで…」と言って、京が止まった。


「なんでってこっちのセリフよ。なんでこの子が好きなの?」


 私はフォークでスパゲッティを掬って食べてみる。水っぽかったし、美味しくはないけれど、食べられないことはなかった。


「好きって…」


「私たち、付き合ってたでしょ?」


 味の濃いところもきっとあるはずだと、諦めずに食べる。


「過去の話だろ? 俺が誰を好きでも関係ないだろ?」


「納得できないのよ。こんなピアノも中途半端な」


 私はお皿を手にして背中を向けて、後ろのテーブルに移ろうとした。


「那由、大丈夫?」と花の声がした。


「…花? 大丈夫? ねぇ、これ大丈夫?」とお皿を見せる。


「うーん。ダメだと思う。水没してる」


「…そっか。でも食べれる?」


「どうしたの。服も汚れて」と言って、花は何かを鞄から取り出そうとしている。


 花の優しい声を聞いたら、泣きたくなった。意地悪されるより、優しくされる方が泣きそうになる。花がポケットティッシュで私の服を拭いてくれているのが分かる。今日はオレンジ色のカットソーに茶色のジャンパースカートだったから、そんなに目立つことはないと思うのに、丁寧に拭き取ってくれる。そしてなぜか花が鼻を啜るような音が聞こえた。


「ごめんね。来るのが遅くて」


「花が…悪いんじゃないもん」


 しばらく私の服を拭いて、「あなたですか?」と花は京と言い合いしている影に向かって言った。


「謝ってください。こんなことして」


「手が滑っただけじゃない」


「だとしても謝ってください」と花は引かなかった。


「花、もういいよ。私にはその人が見えない。だから…なかったの。急に雨が降っただけ」


「は? 那由、何言ってんの?」と花が私に言った。


「急に雨が降って、怒ることもない。何もなかったの」


「そんなわけないじゃない。この人が水かけたんでしょ?」


「いいの。そんな人、私には見えないから」


 そう、私は何もかも悪いことは雨と同じだと思っている。そう思わなければ、自分が苦しくなるから。もう誰かを憎んだりするのはずっと昔、遠い記憶だ。突然、視界がぼんやりした世界になって、形を失った日。あの日のことを思えば、本当ににわか雨にあったくらいだ。


「さぁ、ご飯食べよ」と言ったら、私のお皿は消えていた。


 テーブルの上を手で確かめる。濡れたところがあるだけで、お皿は消えていた。


「那由…お皿は澤谷くんが持って行った」


「え? 何勝手な…」


「多分、代わりに買ってると思うよ。…私も並んでくるから、待ってて」


 買ってくれるんだったら、リクエスト聞いてくれたらよかったのに、と思いながら、私はまた明るさを感じていた。あの時の二人の会話を思い出す。私のことを京が好きだとか、なんとか。どうして京はそんなことを言ったのだろう。


「嘘つきは泥棒の始まり」と呟くと目の前にいい匂いのするものが置かれた。


「嘘つきって? これ、食べなよ。同じもの買って来たから」


「どうして京が?」


「いや…あいつは一応知ってる人だし」


「元カノ?」

 

 京が黙っているので


「どうして元カノが私に意地悪するの? どうしてそれを京が償うの?」


「あ…ごめん」


「京、嘘ついた? 私を好きだって言う嘘」


 黙ってるってことはそうなんだろうな、と思って、私もそれ以上は聞かずにスパゲッティを食べた。さっき水っぽいものを食べたからか、ものすごく美味しく感じる。


「嘘じゃない」


「そんな嘘いらない」


「那由を見てたら…イライラする」


 美味しいスパゲッティをせっかく食べているのに…、と思ったけど、私はフォークを置いた。


「それって、私のこと、嫌いなんじゃないの?」


「嫌いじゃなくて、イライラする」


「…何それ? それが好きなわけないでしょ」


「じゃあ、好きってなんだよ」


「何って…そりゃあ…、どきどきするとか? でも絶対、イライラじゃないでしょう」


「じゃあ、誤解してた。それ、好きだと思ってた」と京が言うから、私はため息をついた。


「もういいよ。いいけど、訂正しといてよ。好きじゃなくて、イライラしてたって」


「…イライラするのは」と言いかけて、黙り込む。


「那由」と花の声がした。


「ねぇ、人を好きになるのってイライラしないよね?」と花に聞いた。


「イライラ…ねぇ。もどかしいから? そう言うものもあるかもね?」と言って、横に座る。


(もどかしい?)


「あ、澤谷くん、行くの?」


「午後から練習室取ってるから。後で迎えにくるから、ここで待ってて」と京は言って、席を立った。


「あの女、澤谷くんの元カノだったの?」と花が訊くので、頷いた。


「あいつ、私のこと女除けに利用してるの」と花に言うと、花は「あ…」と何かを言いたそうにしていた。


 その後すぐに、


「あいつ、言うな」と京の声がした。


 一度は席を立ったが、すぐにまた戻って来たみたいだった。


「スパゲッティごちそうさまです」と私は声の方に鼻に皺を寄せて言った。


「どういたしまして」と京は言って、本当にそれで去って行った。


「なんだか…いいコンビに思えてきた」と花が言うので、私は絶望した。

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