第6話 苛立つ理由

 

 レッスンが終わると、逃げるように那由は出て行った。それを見て、太田教授は笑った。


「よっぽどきつい合わせしたの?」


「普通です」と言って、チェロを拭くと、ケースにしまう。


「ありがとうございました。…でも昨日よりすごく合わせやすかったし…上手くなってました」と頭を下げると、太田教授はなんとも言えない顔をした。


「…君はこれからも頑張っていけばいいし、才能も感じられる」


 俺は何を言われるのかと思わず「え?」と聞き返してしまった。


「あの子は無理だ」


 突然の言葉に俺は戸惑った。


「…それはやる気がないから…ですか?」


「まぁ、それもある。でも…人の何倍も譜読みの時間がかかって…、練習も…。留学だって…それができるには経済力も必要なんだ。ごく普通のお家の経済状況では難しい。彼女を教えていて、何度も『目が見えていたら』と思わないことはなかったけどね。だからこそ、一度だけでいいからちゃんと音楽を誰かと作ることをして欲しいって思ってる。君や他の音大生にとっては、音大は通過点でしかないのかもしれないけれど、彼女にはこの場が最後の音楽ができるところだから。…しっかりやって欲しい」


 最後の言葉はなんとなく俺に向けられているような気がした。


「…はい」


 一度だけ…という言葉は大きく響いた。それに確かに俺の家は恵まれていた。運命という言葉が何か分からないけれど、俺はたまたま音楽を続けられる家に生まれて、健康で。でも那由はただ小さい頃からピアノを習っていたけど、視力を失うという…自分の力ではどうしようもない出来事が起こった。きっと世の中でいうと、かわいそうなんだと思う。思うんだけど、なぜか俺はいらいらしていた。


 ひどい出来事が起きて、それでもなお健気に生きている彼女に理由わけもなく腹が立っていた。俺にそんな資格はないのに、なぜか無性に腹立だしくて…逃げた那由を追いかけた。


 いつものベンチのもう一つ奥の方に座って、水筒のお茶を飲んでいる。それで逃げたつもりなのだろうか、と思って近づこうとした時、俺は声をかけられた。


「澤谷先輩…あの」


「え?」と振り返ると見たことのない女学生がいた。


 ハーフアップにしていて、ピンクのワンピースに白のカーディガンを着ているが、顔は少しきつい印象の美人だった。


「…あの定演のオーディション、一緒に参加してもらえませんか? 私、ピアノ科です。国内コンクールでも最終まで残って」


「あ、ごめん。もう決めてて」


「知ってます。でもあの人だったら私の方が上手いし…。まだ申し込み用紙出してないですよね? 私とだったらオーディション絶対受かります」


 昨日だったら、この子と組もうかと思ってたかもしれない、と無言になった。


「ダメですか? …ボランティアされてるんですか?」


「ボランティア?」


「誰も彼女と組みたいなんて思う人いないから」


 そう見られているのか、と唖然とした。


「上手な人だったら諦めつくんですけど。あの人だったら…私の方が絶対うまいのにって諦められません」と勝ち気な顔で言う。


 内緒話って、結局、すごい勢いで広まるんだよな…と思って、彼女を手招きした。近づく彼女の耳元で


「内緒なんだけど…。俺、あの子が好きなんだ」と言った。


「え?」


「絶対、誰にも言わないで」と言って、その子を置いて、那由のところへ行く。


 これで煩わしさから解放されると思った。でも俺は解放されたが、その分、いや、それ以上、那由が後から困ることになった。

 後輩がじっと見ていることを分かっていて、俺は那由の隣に親しげに座る。すると、那由は少し向こう側に座り直す。さらに距離を詰めると、また少し空間を開けて座り直す。これを繰り返すと、那由がベンチから落ちそうだったので、声をかける。


「さっきはレッスンの時間使わせてくれてありがとう」


「え? 京?」と思い切り、嫌そうな声を出した。


「今度は俺のレッスンの時間に来てよ」と言うと、大きくため息をついた。


「昨日、大きな手の夢見たんだから」


「大きな手?」


「そう鍵盤にすごい大きな手」と言いながら、俺の方に向く。


「あぁ、これ?」と右手を那由の顔の前で広げる。


 それでも視線が手を見ることはない。ただ日差しを遮る影にはなっただろう。


「…練習、しないの?」


「練習…」と実に生気の抜かれたような顔をする。


「俺は那由と練習がしたい」


「練習…。え?」


 そう言って、驚いたように口を開ける。俺は振り返ってみると、後ろにいた女子学生はいなくなっていた。


「さ、練習、練習」と言って、俺が立ち上がると、「嘘つくの?」と言った。


「嘘ついてない。練習はしないと」


「別に私とじゃなくてもいいのに、ばか」と言った。


「ばか?」


「私よりうまい人ばっかりなんだから、私じゃなくてもいいでしょ? そんなことも分かんないの?」


 那由にばかと言われて、思わずいらいらが怒りに変わった。


「お前だって、俺と弾けるんだから、つべこべ言わずに練習したらいいだろう。俺が定演に出させてやるから」


「お前じゃない」


 那由だとなんで優しくなれないんだろう、と思いながら、現状打破を考えることにした。


「分かった。お前ってもう絶対言わない。だから練習しよう」


「…どうして、受けたの?」


「…それは…俺のためだって…先生が言う…から」


「京のため?」


「多分」


「じゃあ、京のためなんだから、労って」


「はぁ?」と文句を言いそうになったが、ぐっと堪えて「お昼、奢ります」と言った。


「お昼は花と食べたいから、いらない」


「…そっか。じゃあ、美味しいお菓子をおやつに買うから」


「ふーん」


「明日、買ってくるから」


「そう?」


「今日はないから…あれだけど」


「いいよ。今日は私が持ってる。京は練習に没頭すると休憩しないし…」


(いらないだろ?)と言う言葉を飲み込んで、奥歯を噛んだ。


 そんな無駄なことを言いながら、なんとか練習ができることになる。歩くのに腕を貸す。その方が早く練習室に着くからだ。放っておくと那由はやっぱりゆっくりと歩くから、その時間すら惜しい。

 階段を登り切った時、突然、那由に言われた。

 

「ばかって言って、ごめん」


「…うん」


 多分、俺はばかだ、となぜかその時素直に思えた。持たれた腕がくすぐったく感じた。

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