第5話 大きな手

 京はお母さんが来るまで一緒に校門で待ってくれた。そして挨拶をして、「遅くまですみません」とお母さんに謝った。驚いて、私はさようならも言わずに車に乗った。お母さんが京を駅まで車で送ることにしたようだった。チェロが大きいので助手席に乗せることになったので、一旦、車から降り、私はチェロの後ろで、京は私の隣に座ることになった。


「一緒に演奏してくれるなんて…ほんと、ごめんなさいね。色々大変だから。それなのに学校の先生もいろんなことをしてくれて…。別にプロになるわけでもないんだけど」とお母さんが言った。


「あの…。まぁ…下手ですけど。でもプロになれると思います。練習不足なだけで」


「あら、そう?」とお母さんは少しびっくりしたような声を出していた。


(なんでそんなことを言うんだろう)と私は思いながら黙って聞いていた。


 そして駅前で京は降りて行った。車を走らせるとすぐにお母さんは「ねぇ、那由は見えないけど、京くんってものすごく男前で、驚いちゃった。きっとモテるでしょ?」と聞いた。


「多分…」と言っておいた。


 一生見ることのできない顔についてなんてどうでもいい。疲れ過ぎて、そのまま家に着くまで眠ってしまった。


 私は暗い中で明るい光を辿っていた。いつもは暗くても平気なのに明かりがあると、それについ頼ってしまう。光が正しいなんて分からないのに…。


「那由、着いたわよ」と母の声で目が覚めた。


 あの光…京がライトを照らしてくれてた光だった。


「あ、うん」と言って、私は車から出る。


 いつもは助手席だったけど、今日は後部座席だから、ちょっと変な感じがした。


「那由はピアニストになりたいの?」と突然、母に聞かれた。


「まさか」


「だって、京くんがあんなこと言うから」


「ピアニストになるにはお金も必要だし…、その上、みんな血の滲むようような努力をしてるから。私は…ピアノを勉強したいだけだし、素敵な演奏はみんなから聞かせてもらってるだけで…」


 そんな話をしながら、家の中に入る。


「ご飯、何? お腹空いちゃった」


「カレーとポテトサラダ」


「わー。私の好きなメニューだ」


 私はポテトサラダにカレーをかけるのが大好きだった。早く手を洗って食べよう、と急いで靴を脱いだ。お父さんは仕事で帰りが遅い。いつもご飯はお母さんと一緒だ。お腹空いた、とうるさい私のためにお母さんは急いでカレーを温め直してくれる。


「お母さん、私も料理できるようにならないとね」


「今は便利だよねぇ。カットしてる野菜もあるし」


「うん。また時間のある時、教えて」


「教えるほどのもの…お母さん作ってないのよ」と言って、笑う。


 でもなるべく手作りのものを食べさせてくれる。お母さんがずっと泣いていたのを私は知ってる。私の前では泣かなかったけれど、夜中にキッチンに降りた時、鼻を啜る音が聞こえて、一人でひっそりと泣いているのを知った。事故から一年経っていた。私は水を飲みたかったけれど、そのまま自分の部屋に戻った。

 母は不安だったのだろうけど、私は少しも不安じゃなかった。悲しさはあったけれど、どうしようもないなら、これでやるしかないと割と早い段階で諦めがついた。自分のことは自分でできるように、なんとか考えた。目が見えないことも含めて、何がしたいかじっくり考えて、私はピアノを選んだ。特にピアニストになりたいわけでもないが、ピアノの先生は丁寧に教えてくれたし、耳が聞こえるのだからやってみようと思った。


 ご飯を食べて、お風呂に入って、私は自分の部屋に戻った。流石に今日はもうピアノを弾く気にはなれない。ベッドに入って目を瞑る。チェロの低く響く音とピアノの音が頭で鳴った。ずっと同じフレーズを繰り返す。

 そこはもう弾いたはずなのに、私の目の前に大きな手が現れて、鍵盤を押していく。私は思わず叫び声を上げた。


 夜中の二時だった。京との練習がトラウマになったようだった。私は暗い部屋の中で荒い息をする。


「もう…いやだ」


 そう言って、また目を閉じた。そして永遠に朝が来ないことを祈った。



「はぁ」とため息をつきながら、学校の門をくぐった。


 やはり朝が来て、母に送ってもらってここまで来た。送り迎えをしてもらってるのも本当に申し訳ないけど、「帰りに買い物行けるし」と母はいつもそう言ってくれる。だから途中で逃げることもできずに、学校まできた。久しぶりに学校に行きたくないと思った。中学は時々休んだ。休むと行きにくくなるのが学校だ。

 目が見えなくなって、困ったのが勉強で、特に数学、理系は理解し難かった。勉強も苦手、運動もできない。私の居場所はどこにもなくて、時々、学校を休んで家でピアノを弾いたりしていた。


「それがまさかこんなことになろうとは」と呟いてしまう。


 不意に周りの声が耳に届く。


「あの子じゃない?」


「あー、昨日澤谷くんと手を繋いでた子」


「何科? 知らないけど…。あんまり見たことないけど、ほんとにうちの学生?」


「確かピアノ科じゃない?」


 声の方に顔を向けると、動いている数人のシルエットがあった。その影は少し揺れた。誰だか分からない影に説明するのも面倒臭いと思って、そのまま歩き出した時、


「那由ー、おはよう」と後ろから花の声がした。


「あ、花。おはよう」と嬉しくなって、振り返る。


「那由、昨日、大丈夫だった?」


「全然、大丈夫じゃないよー」と私は花に昨日、あったことを全部吐き出した。


「それは…大変」


「また花と一緒に弾きたいよー」と言って、私は花の腕を取った。


「それが…ごめんね」


「え?」


 花は弦楽四重奏で定演のオーディションに出るというのだ。しばらく私と会えないらしい。


「さみし…い」


「でもお互い頑張って、定演に出られたらいいよね」


「私は…別に」と言った時、後ろから


「俺は別にじゃない」と京の声が聞こえた。


「あ…じゃあ、私はここで」と言って、花が私を置いて行った。


(薄情者…)と花と思われるシルエットが去っていくのが分かる。


 私は聞こえなかったふりをして、そのまま歩いたが、京が後ろをついてくるのが分かる。校舎に入っても、レッスン室までついてくるので、


「一体、どこまでついてくるの?」と振り返って言うと、


「んー? 児玉さん…レッスンだったよね?」と太田先生の声がした。


「あ、あれ? すみません。間違えました」と慌てて謝る。


 どこかのタイミングで入れ替わったのだろうか、と思っていると、


「あー、先生、それ、俺に言ってるんです」と京の声がした。


「あぁ、そうか。澤谷くんがストーカーしてるのかぁ」


「してません」と京が怒っているが、私には何がなんやらさっぱり分からない。


「かなりの熱心さだから、ストーカーかと思ったよー。手塚先生から夜中にライン来た時はびっくりしたからね。久しぶりにガツガツしてる子、見たよ。いいよ。そういうの。音楽家になるのならそうでなきゃね」と私には理解できないことを先生が言う。


 京が自分の担当教授を通して、私の先生に定演の曲を見て欲しいと連絡したらしい。京がわざわざ私の先生にお願いしたというのは、やはり自分だと上手く伝えられないところがあるから、私の担当の先生なら日頃レッスンしているし、上手くできるだろうということだった。

 昨日の今日で、京はすでに動いていた。


「私のレッスンの時間なのに…」と呟くと、京は「昨日、帰ってからピアノ弾いた?」と言い返した。


 確かにその通りで言い返せなかった。


「児玉さんのピアノは楽しいって気持ちが全面に出てて、それがすごくいい。そういうのはコンクールとか出まくって疲弊して無くす子が多いから、それは素晴らしいことなんだけど、でも一回だけでいいから…ピアノに本気を出してもらえたらいいなぁって思ってたから、ちょうどよかった」


「よくないです」と小さく呟いて、椅子に腰をかけた。


 太田先生がいるからか、京も大人しかったし、やっぱり先生のレッスンの方が分かりやすかったし、何より、京といい距離が保てたことで楽になれた。


「ピアノもフルコンだからね。すごく響くよ。今弾いてるピアノより。だから打鍵も響きを考えてね。チェロは自分の楽器使うけど…ピアノは今とは違うからね」


 フルコンのピアノ…。学期末試験の時に使わせてもらうホールに置かれたピアノ。あの音を想像した。


「そう、それを意識して。ベートベンらしく。最初のテーマをチェロが弾いて、ピアノが弾く…会話だからね。次はピアノから」


 京のチェロは本当に驚くほど、優しい。性格とは全く違う音がする。暖かくて、柔らかい。


「一緒に入る合図は分かりやすくして上げて」


 京の息が聞こえる。断然入りやすくなる。昨日より弾きやすくなってる。昨日の練習の成果もあるけれど…、先生の的確な指示もあって、初めて京と弾いていて楽しいと思えた。これならもう少し頑張れるかな、と思えた。


 そうは言え、レッスンが終わるや否や私はすぐにレッスン室を飛び出す。捕まる前に逃げることにした。


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