第4話 光と影のシルエット
公務員になると言って、笑う彼女を見て、俺は何とも言えない気持ちになった。
「…」
「京くん、美味しくない?」
「は?」
なんで、こんなに気楽なんだ、と思ったけれど、きっと聞いても「それしかない」と言って笑うのだろう。
諦め?
悟り?
そう逡巡しているのに、「美味しくない? あ、チョコ味嫌いだった?」とどうでもいいことを聞いてくる。
「…いや。オレンジショコラ…だった」
「あー、それおいしいよねぇ」
「まあ…」と言うと、嬉しそうに笑う。
それが無性に腹ただしくなった。どうしてもっと努力しないのだ、と言う思いと、未来がないと笑う彼女に苛立ち、思わず口に出してしまった。
「あのさ、目が見えないから…って言い訳にするのはどうかと思う」
「え?」
「あんたが、先がないから、ここで適当に過ごすって言うのは別に構わないけど、でも俺の足手まといにはならないで欲しい」
固まっている。別に俺の方を向くわけでもないけれど、確実にマフィンを食べる口は止まった。だからと言って、言った言葉は取り消せない。そしたら驚いたことに手をギュッと握って、俺に反論をしてきた。
「あのさ、それがマフィンをあげた人に言う言葉?」
「は?」
「私、マフィンあげたし、あなたのこと、京くんって言ってるのに、なんであんた呼ばわりされなきゃいけないの?」
「…そこ?」
「ちゃんと名前で呼んで。那由って名前があるんだから」
「…那由?」
「あ、できれば、ちゃんをつけて」
「いや、そうじゃなくて…那由って、あの…数字の位の?」
「あ、そうなの。那由他から来てて」
「俺の京も数字の位だけど…お前の方が大きいなんて」
「は? だからお前とかやめてって言ってるでしょ?」
全く視線が合わないのに言い合いをしていると、側から見ると俺が一方的に怒っているように見えたようだ。校舎の窓から「澤谷くーん、もうあんまりいじめないであげてー」とピアノ科の先生から呼びかけられる。
「誰が、いつ」と思って振り返ると、後ろから「いじめられてませーん」と大きな声で那由が返事した。
「でも名前をちゃんと呼んでくれなくてー」と追加情報も来た。
「あ、そうなんだー。仲良くしなさいよー。音楽作れなくなるわよー」と言われた。
「仲良くしなくたって…」と俺が呟くと、
「そう言うことだから、ちゃんと名前を呼んでください」と言われた。
「こだわるところ…間違ってる。けど、ちゃんと名前を呼んだら、ちゃんと練習するか?」
「ちゃんと? 仕方なく練習します」
「じゃあ、ちゃんはなし。呼び捨てで」
「じゃあ、私も呼び捨てで」
なんでそこで張り合うんだよ、とため息が出たけれど、もうこれ以上くだらないことで時間を取られたくなかった。
「那由、いいか。邪魔はするな」
思い切り顰めっ面を作ってこっちに顔を向けた。見えてない相手に、よくそんなことができるな、と思って、ほんの少しだけ見えてない世界がどんなものか気になった。
「なぁ、俺の顔見えてる?」
「顔? 見えてない」
「じゃあ、何が見えてるの?」
「見えてるもの? 光と…色と…シルエット…だから京の大きさもわかる」
早速呼び捨てされた。
「真っ暗ってわけじゃないんだ」と何だか少しだけ安心した。
すると那由は笑い出して「でも真っ暗な時は真っ暗だよ。夜とか…。ちょっと月明かりとかは分からない」と言う。
「じゃあ、なるべく早めに帰れるようにするから…」
「あ、じゃあ、迎えを遅らせてもらうように言うね」と携帯で音声入力を始めた。
携帯一つにしたって、普通の人とは違うのだから、ピアノだって苦労しているんだろうな、と俺は少し反省して、練習はもう少しだけ優しくしようと思った。
それから三時間位、練習して、気になるところはほぼなくなった。でも疲れたのか終わったのに、椅子から動かない。
「もう帰っていいけど」
「今…何時かな? お腹空いたー。お母さん、迎えに来る時間…過ぎてる?」
「えっと…後、十五分位かな」と俺は時計を確認した。
「はぁぁ」とため息ついて、那由はのろのろと立ち上がる。
その姿を見ると、さすがに罪悪感が込み上げてくる。
「ごめん」
「え?」
「マフィン食べたから」と理由を言うと、笑いながら首を横に振る。
「そうじゃないでしょー。鬼のように練習させたことでしょー」とそれも怒ったふりして言う。
「じゃあ、一緒に校門まで行こう」
「うん。ほんと、疲れた」と言ってピアノの蓋を閉めた。
「ちょっとだけ待ってて。チェロ片付けるから」
「うん」と静かに椅子に座っている。
どこを見ているのか分からない視線で、きちんと座っているその姿がまるで子どもみたいに見えた。可愛いって言ったら、なんて言うだろうと思ったけれど、何も言えずにチェロを拭いてケースにしまった。
「今度、チェロ聞かせてね。あ、でも実は前に聞いてたんだ」
「え?」
「あのベンチでお菓子を食べながら、綺麗な音が聞こえるなぁって。音大って色んな人の音楽が聴けるし、本当に来てよかった」
「…俺はただの…通過点だと思ってるから」
「通過点?」
「プロになるための」
「そっか。ごめんね」
「なんで謝るんだ?」
「確かに。一緒に弾くことになったのは…私のせいじゃないか。先生が勝手に決めたことだし。別に私、京と演奏したいなんて思ってなかったし」と言い出した時は思わずいらっとしてしまったが、「私はただ京の音を聞くだけでよかったのに」と続けられて、黙ってしまった。
「きっと京なら、プロのチェリストになれるよ。性格だけ良くならないとね」
一言多いけど、素直に嬉しかった。
「あのさ、那由もいいピアニストになれると思うけど」
「私のところはそこまで裕福じゃないから。ただ…事故の保険金が入って」
「生々しい話だな」と言うと、那由は笑った。
「更に生々しいけど、そのお金は将来のために貯金して、奨学金を借りて音大を卒業するのが精一杯で。奨学金返済のために公務員になるの」
「じゃあ、別に音大じゃなくても」
「他に行きたい大学なかったんだもん。最後にいろんな経験をしたかったから…」
「最後?」
「私、しっかりしなきゃ。自分で生きていかなきゃって思ってるから」
「…ふ…ん。もうそろそろ…ここ、出ないと」
那由は立ち上がるとピアノの蓋を手で撫でて、歩く。俺はその手を取った。校門までは責任を持って送るつもりだ。携帯の電灯をつけて聞いてみた。
「灯、あった方がいい?」
「…そんなことしてくれる人…初めてだ。でもどっちでもいい」
どっちでもいいと言われて、消そうと思ったが、つけておくことにした。廊下はまだいいが、外はもう薄暗くなっている。少しでも光があった方がいいんじゃないかとそれは俺の勝手な思いだけれど。すれ違う学生が俺が那由の手を引いてるのを見て、驚いた顔をしている。
那由のことを知らない学生が多いのか、付き合っていると誤解された気がした。でもそれはそれで楽になるか、と俺は思った。
春の夜はふわっと空気が緩んで心もとなくなる。新しい出会いも、馴染めなくて気持ちが落ち着かない。
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