第3話 春の匂い

 京くんとの合わせは細かくて大変だった。的確な指摘がすぐに飛んでくる。その度に、私の音は途切れた。切れてしまうと、どこからスタートって言うのが、難しい。京くんの指差す楽譜が私は見えない。すぐに京くんはイライラして、チェロでピアノパートを弾き始める。


「ここから」って言われる。


 それを必死に思い出して弾くんだけど、私は泣きたくなった。いっそ、最初っからって言ってもらった方が何回弾くことになってもその方がましだった。花と一緒だったら…と思う。遠慮をしているのかもしれないけれど、花はもっと長いフレーズを弾いて、分かりやすく言ってくれるし、なんなら頭からやり直してくれる。


「やる気あるの?」って聞くから「ないです」って答えたら、さらに怒られた。


「下手なんだから、やる気くらい持って」


「そんなに怒ったら、全然楽しくないです。本物のベートベンでもそこまで怒らないと思います」


「いや、怒ると思う。こんなんじゃ、もっと怒ると思う」


 そう言われると、黙るしかない。ベートベン大先生は怒るだろうか。いやそれより目の前の京くんの方が大変だ。この時ばかりは目が見えなくなって良かったと思う。鬼のように怒っている人の姿を見ずに済むのだから。


 黙っていると、京くんが近づいてきて、突然、ピアノを鳴らした。


「ここのフレーズ、次と変わるの…分かる?」


 私じゃない指が鍵盤の上で動いている。思わずその手を掴んだ。大きな手だった。


「え?」と言われて、慌てて手を離す。


「ごめんなさい」


「最初から行くから。ピアノはそんなに得意じゃないから右手だけ…」と言って、京くんは弾いてくれる。


 とっても分かりやすい。私の中にさっきまで聞いていた京くんのチェロが流れてくる。私は左手を鍵盤に置いて、京くんの右手に合わせた。


(なんて分かりやすい)


「京くん…」


「は?」と言って手を止めた。


「分かった」


「分かった?」


「今なら出来そう」と言って、京くんの右手を鍵盤から下ろす。


「ちょっと」と不満そうな声が聞こえたが、私はチェロを弾くように言った。


 チェロが暖かい木の音を出す。私はピアノで続いた。


「あまりチェロの音、聞かなくていいから」


「あ、うん。でも聞いてしまう」


「そしたら遅くなるし」


「…うん。でも…暖かくて」と言ったら、チェロの音が止まった。


「は?」


「チェロの音が暖かくて、気持ちよくて…聞いてしまう」


「それだと少し遅れて、気持ち悪いから」


「…うん。分かった。でも本当に…もっと聞きたい」と言って、私はバッハの平均律、前奏曲 第一番ハ長調を弾く。


 そうしたら、いつも花がそれに合わせてグノーのアベマリアを弾いてくれるからだ。


「なんでいきなり違う曲するわけ?」と京くんが言った。


「アベマリア…知らない? グノーの」


 そう言うとまた怒らせてしまった。私はもっとチェロの音が聞きたくて、二回くらい弾きながらお願いしたら、三回目に弾いてくれた。心地良すぎて、もう一度弾こうとしたら、もう二度と弾かないと言われてしまったので、練習に戻った。チェロの音が素敵だったけど、今度はちゃんと集中してピアノを弾いた。


 練習が終わったので、私は先に部屋を出た。少し休憩しようといつもの場所に向かう。壁づたいに階段を降りていると、後から出たはずの京くんに追いつかれたようで


「邪魔」と言われた。


「あ、ごめんなさい」と言って、壁に背中を当てて、避ける。


「どこ行くの?」


「え?」


「今から、どこ行くつもり?」


「あ、お茶をしようかなって」


「は?」


「おやつ食べようかと」


「はぁ?」とまた不機嫌な声が聞こえる。


 どうしてそんなとこまで怒られなきゃいけないのかと思ってたら、「どこのお店に行くの?」と聞かれた。


「お店じゃなくて…、校舎出て、すぐのベンチで」と言うと、腕を掴まれた。


「案内するから」


 自分で行けると思ったけど、これ以上不機嫌になられても困ると思って、黙って、ついて行った。視界が明るくなる。出口が近い。ここまで来たら、もう大丈夫だと思っていたが、律儀にベンチまで連れて行ってくれた。


「ありがとう。…あのおやつ、食べる?」と念のために聞いてみる。


「おやつ?」


「今日は…ね」と鞄の中を探る。


 形のつぶれたマフィンを取り出して、差し出す。


「これ…」


「ちょっと形が潰れちゃった?」と聞くと、黙ってマフィンが受け取られた。


「あのさ…、食べたら練習しなよ。右手、左手…交互でよければ、付き合うから」


(まだ、弾くの?)と思ったけれど、それはマフィンを頬張ったせいで言葉にならなかった。


「なんでもっと練習しないの?」と聞かれて、私は首を傾げた。


「練習…する意味がないから」


「え?」


「だって、私は…目が見えないし…今だって…京くんに迷惑かけてるし。こんなんでピアニストになんかなれないし…」


「じゃあ…なんで音大に来たの?」


「それはピアノが好きだし…。最後に好きなことして、そして公務員になって働くから」


「公務員?」


「だって、こんなんじゃ…ピアノの先生にもなれない」


 そこに私はなんの悲壮感もなくて、なんならもう一口齧り付いたマフィンの甘さに笑顔が出たと思う。爽やかな風が吹いて、春の匂いが運ばれる。

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