第2話 気楽なピアノ
「澤谷君が…そんな人とは思わなかった」
何度繰り返されたであろうこの台詞を俺はため息と共に流した。チェロをケースにしまうと、早く出ていくように扉を大きく開ける。
「ひどい」と言って、部屋から出ていった。
ひどいというのはどっちのことだろう、としばし考えるが、分からない。彼女は一体、俺の何を見たのだろう。外見? コンクールの評価? どっちにしろ、それは俺のささやかな一部だ。俺が何をしたって言うんだ? 何もしていないのに勝手に期待して、自分の想像と違うからといって、一人で幻滅して。
開け放たれた分厚い練習室の扉を通ろうとした時、入り口に立っている女学生に気がついた。気まずそうに練習室が開くのを待っていた。
「遅くなって…」と言うと、「いえ」と言って、首を振るが、少しも視線が合わない。
そして手でドアを確かめるように取っ手まで這わせて、掴んだ。その動きに不安を覚えて、見ていると、部屋に入って扉を閉めた。閉めたように思っているのだが、隙間が空いている。しっかり噛み合っていない。
「あ…」と思っていると、廊下から「那由」とバイオリン科の女学生が走ってくる。
すぐに扉が開かれた。
「花? あのね、さっき言ってたチェロの人と女の人がすごい大きな声で喧嘩して」と本人がいると言うのに話し始めた。
「那由…ちょっと」と言いながら俺を見ると、慌ててバイオリン科の女学生が中に押し込んだ。
(何だ、変なやつ)と思った瞬間に、中から悲鳴が聞こえた。
防音室でも聞こえるのだから、相当大きい。彼女が聞いた喧嘩も相当大きかったんだな、と思った。しかし一方的に相手が騒いでいただけなのに。
(割に合わない)と思っていると、ピアノが流れ出した。
ちょっと壁の方に耳を澄ませる と、そんなに技術が高くないが、恐ろしく気楽に弾いていて、可笑しくなった。こんなに気楽に弾いている学生がいるとは、羨ましくもなった。でもこれでコンクールに出るのは無謀だ。
「遊びに来てるんだな」と呟いて、その場を後にした。
特待生で入ったものの、この学校で音楽をしていると息が詰まる。早く留学したいが、担当の先生の許可が降りない。国内のコンクールで優勝か、最低でも三位以内に入ることが条件だ。この夏のコンクールだけは落とせない。
恋愛なんてしている時間はない。早く結果を出したい。
結果を出して…と思っているのに、翌日、レッスンに行くとまさかのあの女がいた。
担当教授が愛想笑いを浮かべて、「彼女は児玉那由さん。新しい試みとして、ベートーベンのピアノとチェロのためのソナタを弾いてもらおうと思って」と言う。
ピアノの前で小さくなっている女学生はこの前の俺がものすごい喧嘩をしていると言っていた女学生だ。
「コンクールの曲を進めたいんですけど」と俺は先生に言った。
「うん。それもやっていくけどね。まぁ、別の角度から音楽にアプローチして欲しくて」
「でも…彼女の技術はそんなに高くないですよ」
「どこかで聞いたの?」
「少し…」
「じゃあ、話は早いよね。君のためにもぜひ彼女と演奏して」
「は? どう言うことですか?」
「技術力が高い君なら…きっと上手く合わせることができると思うよ」
「ごめんなさい」と俯いてなぜか謝っている。
流石に俺は目の前で人のことを言うことはできなかったので、黙ることにした。
「謝らなくていいんだよ。前の室内楽で、バイオリンと合わせてるのを聞いて、すごく楽しそうだったから…。澤谷君は上手いんだけど…演奏が固くて怖い時があるんだよね」と言うと、あろうことか、女は笑い出した。
そして慌ててすぐに「ごめんなさい」と言う。
「ありえないです」と思わず俺も口走ってしまった。
「まぁ、そう言わずに。上手くいったら、六月にある定期演奏会に出ればいいし」
六月の定期演奏会はオーケストラとのコンチェルトがしたくてオーディションを予定していたのに…、こんな冴えない感じのピアノと一緒だなんて、と睨み付けたが、視線も合わなければ空気も読まないような感じでふわふわしている。
「あ、最初に言っておくけど、児玉さんは視覚障害者なんだ」
「視覚障害者…」
「シルエットがぼんやり見えるだけだから、小節番号で言われても分からない」
「…音楽以外のことで苦労するってことですよね?」と俺は言ってしまった。
「あの…私、やっぱり出来そうにありません」
「は?」と思わず、なんで断られているのか理解出来なかった。
断るのはこっちだ、と思ってしまう。
「チャレンジしてみて欲しいんだけど…」と教授が言うと、女学生は返事をせずに俯いた。
(そこは、一つ返事をするところだろう)と思ったら、なぜか俺の口が言っていた。
「分かりました。定演に出られるよう頑張ります」
自分の口が何を言ったか、耳を疑った。
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