お茶の時間が過ぎても

かにりよ

第1話 甘く響くチェロの音

那由なゆ」と友達の声がする。


 木陰のベンチで私は水筒に入った紅茶を飲んでいるところだった。

 声からして、はなだ。私は小学二年生の時に事故にあってから視力が悪い。ぼんやりとしたシルエットでしか見えない。音大に進んだけれど、成績は下から数えた方が早い。小さい頃は普通に視力もあったし、ピアノも楽しく弾いていただけだ。全盲のピアニストだったら、もっと耳が良かったのだろうか。でもそんな人たちの血の滲むような努力とは無縁の生活をしていたので、ぎりぎり入った音大で、なんとか留年せずについていってる。


「練習室に忘れ物してたって。ノートに児玉那由こだまなゆって名前書いてたからすぐわかったけど…次、音楽史でしょ? 一緒に行こう」


「花? ありがとう」と言って、私はぼんやりした姿の友達に隣に座るように手でベンチを軽く叩く。


 花はバイオリンを専攻していて、私と室内楽を組んでくれた。本当に気持ちのいい子で、日々の生活もお手伝いしてくれている。


「那由はいつもここでお茶してるね」


「雨の日以外はね。今の季節は気持ちもいいし…後、練習室の音も聞こえてくるし」


「そっか。今日は何のおやつだったの?」


「サーターアンタギー。スーパーのだけど、美味しいよ。花も食べる?」


「ダイエット中だから遠慮しとく」


「花、太ってないのに」


「那由は分からないけど、結構肉ついてるんだから」と言ってから「ごめん」と言われた。


 私は笑って「こっちこそごめん」と言った。


 気を遣われるのも慣れてきた。私は遠慮なく花の腕を取った。優しい友達に恵まれて、本当に良かった。世界は思っているより暖かい。

 私はそんな風に過ごしていた。ピアノのコンクールに出るわけでもなく、ただ課題曲を練習して、授業を受ける。優しい友達と一緒に過ごす時間はかけがえのない時間だ。


 音楽の仕事ができるほど、腕もないので、公務員試験を受けて働くつもりだった。公的機関なら、視覚障害者でも働く場がある。好きな音楽を楽しむためだけに、贅沢だけれど、音大に通わせてもらっている。


 風に乗って、甘い音が流れてきた。


「あ、このチェロ…」


「あぁ、けい君がさっき練習室に入ってたわ。国際コンクールも7位だったし、上手いよね。顔もいいから調子に乗ってるのか、すごく横柄な態度よ」


「京君?」


「チェロ科の澤谷京さわたに けい


「花は嫌いなの?」


「嫌いっていうか…。近寄るなって態度を取られるから、女嫌いか…あっちの人だって噂まである」


「へぇ。でも上手いね。私とは弾いてくれないだろうけど」


「…あ、そう言えば、ピアノ科の子ともいつも揉めてるわよ。伴奏が下手くそだとかなんとか」


「怖い」


「まぁ、那由とは縁がないことを祈っておくわ」


「ないと思うけど」


 花がそこまで言うのだから本当に性格が曲がっているのだろう。私は見えない目で音のする方を眺めた。ぼんやり白い校舎の影が浮かぶ。


 流れてくるチェロの音はとても暖かくて、甘い響きだった。


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