第6話 コンパラトキシン

 受賞者の女の子は、まだ未成年ということもあって、アルコールは?めなかった。しかも高校生ということもあり、翌日は学校ということもあり、パーティ自体は午後九時までとなっていた。

 実際には二時間ほどの時間だったが、俊六には思ったよりも長く感じられた。大久保氏や高杉氏と話をしたからかも知れない。

 このようなパーティ自体、あまり好きではない俊六だったので、時間が長く感じられるのはしょうがないことであったが、それ以上に、いつも執筆に使っている時間がどれほど短いかということを感じさせるという比較対象となり、不思議な感覚を味わっていた。

 最近、小説を書くようになり、毎日が充実している。記憶が欠落してしまうという問題を抱えているので、どうなるかと思っていたが、集中しているとその問題はあまり関係なかった。ただ、執筆の間をあまり開けてしまうと、本当に前に書いていたことを忘れてしまう。そういう意味でも、毎日の執筆は欠かしてはならなかった。

 ただ、次の作品までのアイデアを捻り出す時間と、今回書いた作品の推敲に使う時間はゆっくり取っても大丈夫だった。だが、俊六はそんな時間でも集中して考えることで、それほどの時間を費やすこともなかった。次作のアイデアも、二日と置くこともなく発想が思い浮かび、そこからプロットの作成までに時間が掛かることはない。元々プロット作成までは以前からできていたのだから、無理をしているという意識はなかった。

 小説をいうものを、段階で分けると、アイデアを拾い集めること、プロットに仕上げること、書き始めから書き終わるまで、そして最後に推敲。この段階に分けることができるだろう。

 一番時間が掛かるのは書いている時間であることが間違いないが、なるべくであれば、

「書き始めるまでに、すべては終わっている」

 という段階にしておくことができれば最高だと思っていた。

 執筆の段階というのは、集中力だけで、文章の構成などを考えるだけでいいと思える時間にすることで、余計なことを考える必要もなく、物語を組み立てることができるというものだ。

 だから、二時間くらい集中して書いていても、自分の感覚としては、二十分くらいのっものだという意識である。

 こうなると、記憶を欠落するという欠点も補うことができて、プロットを忠実に形にできる、

 そもそもプロットというのは、作家の人は基本的に皆作るものであって、設計書であり、企画書のようなものだ。

 つまり、出版社との契約の中で、作品を執筆する許可が得られるかどうかは、プロットのできに掛かっている。

 プロットの内容に沿って、出版社はこの作品の宣伝が打てるのであるし、

「これなら売れる」

 という出版社全体の意識をプロットを見ての編集会議で決めるからである。

 ただ、俊六は実際にプロの作家がプロットをどのように書いているのかを見たことがなかった。

 弟子でありながら、佐久間先生も彼にプロットを見せることはなかった。出来上がった作品を読んでもらい、そこで初めて先生の作品に触れることができるのだ。

 つまりは完成品を拝むことで、やっと作品に触れることができ、参加することができる。佐久間先生の弟子としてできることは、この推敲という作業から先のことであった。

 まずは、誤字脱字がないかどうかの確認。そして何度か読み直して、作品の中での矛盾がないかどうかの確認。このあたりは集中して書いていると、なかなか気づかない部分であり、しかも推敲を作者がしようとすると、自分の中で、

「正しく書けている」

 という思い込みがあるために、間違いをスルーしてしまうことも無きにしも非ずであった。

 それを是正し、世に出す前の体裁を取り繕うところ、そこを担うのが助手としての仕事であった。

 本当はあまり好きな仕事ではなかった。それは、自分で執筆するようになってから、余計に感じることである。

「これくらい、俺にだってできる」

 と思うような仕事、それが後始末であり、今は自分の作品の最後まで面倒見なければいけなくなったことで、先生の最後の部分だけを補正していた自分を、情けなく感じてしまうのだった。

 プロットを作るという作業は、学生時代にはしたことがなかった。とにかく思いついたら書き始め、書いているうちに何とか形にしようとしてしまう。ただ、そうなると、最後は支離滅裂、広げてしまった内容をいかに収めるかが難しくなってくる。

 これがプロットを作らずに進めることの一番のデメリットだった。

 ただ、プロットというのも人それぞれだ。しかも、その人の性格によって、プロットをどのようにするか、そのあたりから考えないと、せっかく作っても無駄になってしまう。

 最初にある程度まで落としたプロットを作成しておくに越したことはない。何しろ設計図なのだから、最初にキチンとしている方がいいに決まっている。

 しかし、人によってはあまりプロットを完全に作りすぎてしまうと、実際の話を作る時に、文章が成り立たない状態になることもあるらしい、

「プロットを作ってしまったことで安心してしまう」

 ということである。

 プロットを作っても、それをそのなま発表するわけではない。そこから読者が読めるように清書するのが小説を執筆するということだ、プロットの段階で安心してしまうと、途中までできてしまった作品がおろそかになってしまうこともある、肝心な表現力が低下してしまうのだ。

 そんな人はプロットを完全に仕上げない方がいい。書きながらいくらでも修正がきくように余裕という遊びの部分を作っておくことが、執筆には必要だ。一つの情景を言葉だけで表現しようとすると、いくつもの文章になってしまう。それが写生というものではないだろうか。

 写生をすることで、相手にその状況を想像させ、作者と読者は同じ視点から物語を見たり、読者が少し自分よりも低い位置から見ることができるように細工することが作者のテクニックであり、小説執筆の醍醐味と言えるのではないだろうか。

 プロットを先生が見せてくれなかったのは、人それぞれで書き方が違うということを無言で教えたかったからではないかと今では思っている。

 プロットも箇条書きにする人や、まるであらすじを書いているかのような文章として残している人もいる。

 セリフ部分をシナリオのようにして、そこを強調している人もいれば、四コマ漫画を描いているかのような絵コンテにしている人もいるだろう。

 それが正解というわけでもない。その人のやり方なのだ。

 絵が下手な人に、

「四コマ漫画がいい」

 などと言ってマンガを書かせても、マンガを描くことに集中してしまって小説であることすら忘れてしまうこともあるだろう、

 登場人物は、ある程度書き方は決まっているかも知れない。

 性別、年齢、主人公との関係、そして登場場面の背景、そして大切なその人の性格。さらには主人公との関係など、書くことは決まっている。それを登場場面ですべて明かしてしまうか、それとも最後まで隠しておくべきなのかは、その人物の物語における立場で変わってくる。

 キーマンとなる人間であれば、情報のほとんどは隠しておかなければいけないだろうが、まったく何も明かさないのは、読者に対してアンフェアであるし、また逆に読者に、疑念を抱かせることになるかも知れない。

「この男こそ、何かのカギを握っている」

 と思わせることも必要だが、だからと言って、いきなり登場させるのは、アンフェアである。

 小説には起承転結というものがあり、どの場面で登場させるか、あるいは、小説の書き方として、一人称視点から書くのか、三人称視点から書くのかによって、目線が変わってくる。そのため、起承転結のどこで登場させるかというのも、微妙に関わってくる部分があるのではないだろうか。

 プロットにはいろいろな書き方はあるが、何を書くかというのは、ある程度決まっているようなものだった。

 小説の設定として、過去なのか、未来なのか、現在なのかによっても違ってくる。未来だけは明らかに分かっていないことなので、フィクションであることは確定であるが、現在はあっという間に過去になる。現在を追いかけるという小説もありなのではないかと最近考えるようにもなっていた。

 プロットというと人子で終わってしまうが、書き留めておくこととしては、まだこの他にもいろいろある、つまりプロットは設計書でありながら、さらに小説の道しるべであり、時としては、備忘録のようなものだと言えるのではないだろうか。

 後で見ても分かるようにするという意味で、記憶が欠落してしまいそうな俊六には、不可欠なものと言えるのではないだろうか。

 俊六は最近、ミステリーに興味がある。その中でも、

「むごく静かに殺す」

 というテーマを考えたことがあった。

 このタイトルは自分が中学時代、本屋で見た本のタイトルだった。本を買って見ようとまでは思わなかったので内容は知らないが、どうやらむごく静かに殺すという話をテーマにした短編集のようだ。

その本の著者は、社会派小説家で何冊かは読んだことがあったが、どうにも自分の好きなジャンルではない気がしたので、それ以上を読む気にはならなかった。

 ただ、このタイトルだけは(実際のタイトルは「むごく静かに殺せ」であるが)忘れることはできなかった。自分が小説を書けるようになったら、一度は挑戦してみたいと思った内容でもある。

 ただ、実際に書けるかどうか分からないが、題材として二つの矛盾した言葉を重ねたような話を作れればいいと思っていた。

 今少しそのアイデアが頭の中で煮詰まってきたと思っていたところに、この日の急な事件にぶち当たることになった。

 時刻はすでに閉会の近くになっていた。宴もたけなわな状況の中で、がやがやと一人の声に集中しようとすると、まわりの声がそれを遮るかのような状況に陥っていたのを感じると、いよいよ自分も酔いがまわってきたのではないかと思えてきた。

 そんな時、急に乾いた甲高い音とともに、女性の悲鳴がほぼ同時に聞こえてきた。

「キャー」

 その声に驚いて皆がその方を見ると、目の前で一人の男が俯せに倒れていて、身動きができるようすではなかった。

 先ほどの乾いたような甲高い音は、どうやら手に持っていたグラスが滑り落ちて、床で破裂した時の音のようだった。

「どうしたんだ、一体」

 紺色のスーツを着ていることから、主催者側の人間ではなく、来賓であることは想像がついた。

 誰もが怖がって男の顔を確認しようとする者はいない。俊六は少し離れていたので、自分だったらその男を逆さにすることができるかと言われれば、きっとできないと答えるに違いない。

 しかし、じっとその場が凍り付くのをずっと待っているわけにもいかない。主催者側の一人が駆け寄ってその男をひっくり返すと、

「こ、これは」

 その男は白目を剥いていて、口からは真っ赤な血を吐いていた。吐血は服にも床にも付着しているので、抱き起こした瞬間、その人の指には血糊がべっとりとついていた。

 たった今まで立っていたのだから、それもそうだろう。一瞬の出来事に誰も口を開くことができず、その場の凍り付いた時間が、果てしなく続くような気がしたのは、気のせいではないだろう。

 これは誰が見ても毒殺に違いなかった。

――や、毒殺と決めつけるのは早い。自殺という可能性もまったくないわけではない――

 と感じたが、こんな場所でいきなり自らの死を選ぶというのも何か変だ。

 ただ、もし考えられるとすれば、この会場に誰か復讐でもしたい人が来ていて、例えば自分を死に至らしめた相手を思い知らせるために、敢えてその目前で死を選ぶということも考えられなくもない。

 それよりも、その男に殺人の罪を着せようとして何かの細工をしているかも知れない。もし、そうであれば、話はややこしくなるだろう。

 それにしても、衆人の真っ只中で一人の人間を毒殺しようというのだから、殺人だとすれば、これは一種のサイコキラーの殺人とでも言えるかも知れない。

 サイコキラーとは、猟奇殺人や快楽殺人を繰り返すことであり、サイコパス(反社会性パーソナリティ障害)が引き起こす犯罪だと言われている。

 その場は誰も動くことはできなかったが、ちょうど死んでいる男性の横にいた女性は完全に意識を失い、そのまま倒れこんでしまったので、係の人が別室に運び、手当をしていた。意識を失っただけなので、すぐに起きてこれるということだろう。俊六はそれよりも彼女がこれからやってくる警察からの聴取を受けなればいけないことに対して、気の毒に思う一方だった。

 さて、実際に死んでいるその男だが、俊六にも見覚えがあった。見覚えがあったなどと他人行儀な言い方であったが、ついさっきまで話をした相手ではなかったか、何とその男は佐久間先生を大きく批判し続けていた、高杉氏だったのである。

「どうして高杉さんが」

 と、その場は騒然としていた。

 っ状況を見る限り、すでに息はしていないようだ。係の人がそれを確認すると、まずは警察に連絡をした。

「救急車は?」

 という他の係の人が聴くと、彼が首を小さく横に振ったので、もうすでに息のないことは分かっていた。

 その係の人は、どうやら、この現場を取り仕切っている人の一人のようで、

「皆さん、落ち着いてください。警察に通報しましたので、もうすぐ警察がこちらに向かってきます。皆さんはなるべくそこから動かないようにしてください。できれば、この部屋からも出ないようにしてください」

 とマイクを掴んで説明した。

「これは殺されたということですか?」

 と誰かが聞くと、

「それは分かりません。まずは警察の捜査待ちということです。ただし、その人が死んでいるのは間違いないですので、自殺、他殺、事故死、どれになるか分かりませんが、皆さんはここから動かない方が賢明だと思います。もしここからいなくなってしまうと、こちらで入場の際に署名していただいたノートがありますので、すぐに分かることです。悪いことは言いませんから、まずは警察が来るまで我々の指示に従ってください」

 という話だ。

 後で分かったことだが、この主催者側の責任者の人は、元々警察官だったという。刑事まではいったのだが、一身上の都合でこのパーティを取り仕切る会社に入社したということである。

 彼の名誉のために言っておくが、彼が珪砂つぃを辞めたのは、気㏍して懲戒免職や、解雇ではない。本当に一身上の都合であった。

 それから、十五分もしないうちに、表に慌ただしく警察車両が入ってきた。この会場は一階にあり、ロビーのすぐ横なので、玄関がすぐに見えるところにあった。大きな完納開きの扉が一度は閉められていたが、警察が入ってきた時に、ゆっくりと開かれたのだ。

 こういう時は、衝動捜査班は最初にやってくるというが、さすがにテキパキとしていた。鑑識や捜査関係者がやってくるまで仕切るプロである。この惨状を見てもmさほど驚きもしないのは、それだけ毎日のように、似たような事件が起こっているということなのか、それを思うと、本当に、

「真実は小説よりも奇なり」

 という言葉があるが、まさにその通りである。

 聞き耳を立てていると、

「どうやら、青酸化合物ではないようですね」

 という話が聞こえてきた。俊六は集中すれば、小声で話をしている人の声が分かるようだった。

「お前は聖徳太子のようなやつだな」

 と子供の頃に言われた。

 聖徳太子というのは、十人の話を同時に聞けたというが本当であろうか。聖徳太子というと、どうにも一万円札の肖像画がイメージに残っているが、それ以外にもいろいろな逸話を持っているようだ。

 青酸化合物というのは、いわゆる青酸カリであったり、生産カリウムと言った、毒薬では定番になっていて、昔からの毒殺事件や、企業への脅迫事件ではよく使われていた。

 青酸化合物は、服毒すると、口の中からアーモンド集がするらしい。どうやら、この被害者には、アーモンド集がしなかったのではないだろうか。

「誰かこの人のことを詳しく知っている人はいますか?」

 ということで、最初は誰も手を挙げなかった。

 この日は招待されたとはいえ、実際には評論家で、主催している出版社と直接的に契約も関係もないようで、主催者側も、彼のことは詳しくないようだった。

 誰も手を挙げないことに業を煮やしたのか、

「それじゃあ」

 とでも思ったのか、手を挙げたのは大久保氏だった。

 二人がどれほどの仲なのかは分からないが、同じ評論家同士、話をすることもあったかも知れない。しかし、

「私も彼のことをそれほど知っているわけではないですが、誰も手を挙げないのでは刑事さんもお困りでしょうから。まずはこの私からお話することにしましょう」

 と言って刑事に近づいていった。

「じゃあ、あなたにお伺いしますね。他の方々にはまた後ほどお伺いするかも知れませんが、その時はよろしくお願いします」

 と言って、頭を下げた。

 そういって、大久保氏を別室に招いた時、ちょうど駆けつけてきたのが、門倉刑事だった。門倉刑事はまだ若いが、現場経験は十分で、これまでにも難事件をいくつも解決に導いたという経験がある。初動捜査の段階から立ち会えたのはよかったと思っていた。

「では、さっそくなんですが、亡くなったこの方とはどのようなお知り合いで?」

 と門倉刑事が切り出した。

「私たちはいわゆる文芸評論家で、普段は大学に所属していて、私も彼も教授をしています。私の場合は、H大学文学部の教授をしていて、彼は確かK大学だったと思います。お互いにオカルトやミステリー、ホラー関係の作品を中心にその作品や、作家に対して研究し、それを出版社に寄稿して、その原稿料を貰っているという商売ですね。時々テレビなどのマスメディアに出演することもありますが、基本的には雑誌などがほとんどになっています」

「今日のこのパーティは?」

「ええ、本日はいつもお世話になっている出版社さんの主催でコンクールがあったのですが、そのコンクールで大賞を受賞した方の祝賀パーティだったんです。基本的に私も彼も畑違いではあったんですが、出版社の方からご招待を受けたので、こうやって来賓として参上したというわけです」

 と大久保がいうと、

「なるほど、そういうことですね。じゃあ、今日は結構盛況だったんでしょうね?」

「そうですね、受賞と受賞作品の出版記念パーティの両方を兼ねていましたので、来賓は五十人以上はいたのではないでしょうか?」

「了解しました。ところで、被害者の高杉さんが誰かに恨まれていたですとか、自分自身で何かに悩んでいたとかいうお話を聞いたことはありましたか?」

 門倉刑事は核心に入ってきた。

「何かに悩んでいるというのは、人間誰しも大なり小なり悩みのようなものはその都度抱くものだと思います。でも、死に対とまで思うようなことはなかったと思います。また彼を恨んでいた人間というと、これも自分たちの職業が評論家という立場上何とも言えないと思います。こちらは作家や作品を批評するのが商売なので、相手にとっていいことも言えば、傷つけるようなこともいうと思います。もちろん、細心の注意を払って批評はするのですが、相手のあることなので、相手がどう捉えるかで変わってくるでしょうね。ただ、彼の場合の批評は極端ではありました。褒める相手は徹底的に褒めちぎるところがあるんですが、逆にあまり気に入らない人には辛らつな批評をしたりもします。それがどれほど相手にショックを与えるかということは、その本人でないと結局のところ分からないのではないでしょうか?」

 門倉刑事は、それを聞いて頷いていた。

 まるで、

――そんなことは分かっているんだ。分かっていて聞いたんだ――

 と言わんばかりの様子だったが、その思いが大久保氏に伝わったかどうかは分からない。

 大久保氏は続けた。

「ただ、彼を本当に恨んでいる人がいなかったかどうかと聞かれればいるにはいたと思います。その人のことは一度も褒めたことがないどころか、辛辣な評論は最初から最後までひどいものでした」

 というと、

「ちょっと待ってください。最後までと今おっしゃいましたが、その作家さんは今では引退なされているということですか?」

 門倉刑事としては、被害者がその作家を引退にまで追い込んだことで、恨みを受けていたのではないかと直感したのだ。

 それにしても、よく、

「最後まで」

 という言葉に敏感に反応したものだ。

 まるで最初からその言葉が出てくるのを予想でもしていたかのような感覚に、大久保氏もビックリしていた。

―ーなるほど、刑事という職業はこれくらい嗅覚が鋭くなければやっていけない商売なんだろうか――

 と感じたのだった。

「いえ、最後までと私が申したのは、その人がもうこの世にいないからです。その作家さんは昨年、病気で他界されました。だから、その人から恨みを買っていたとしてお、その人が犯人であるということはあり得ません」

 と聞かされて、

「そうでしたか」

 と明らかに落胆しているようだったが、捜査はまだ始まったばかりである。

 そんな簡単にことが進むわけはなかった。

 門倉刑事が到着したのとほぼ同時に、鑑識も到着し、鑑識は鑑識で自分たちの捜査を行っていた。

 そこで今の時点である程度分かったことであるが、

「まず、死亡したのは、やはり毒によるものですね。でも、すぐに発作を起こしたわけではなく、徐々に効いてきたようです。たぶん床に落ちて割れたグラスに入っていたのでしょうが、体内に入って呼吸困難を引き起こしていたんでしょうね」

 ということだった。

 その横から一人の捜査員が何か言いたそうにしていたのを門倉刑事が見止めて、

「何か言いたいことがあるのなら、いいたまえ」

 と言った。

「実は、グラスの破片が落ちていたあたりに、こんなものが飛び散っていました」

 と言って、彼は小指大くらいの、まるでランプの傘のような白い花びらを指し示した。

「こ、これはスズランの花」

 と、ビックリしたように言った。

「これには一体どんな酒が入っていたんですか?」

 と人に聞くと、

「普通のワインが入っていたようですが、真っ赤なワインですね」

「被害者は、この花びらに気付かなかったのでしょうか?」

「目が悪いとは聞いていましたが、それよりも実際に花びらが入っていても、赤ワインの中ではあまり気にならないんじゃないでしょうか? それに花びらが入っていたからと言って、いちいちこんな場面で気にする人もいないでしょう」

「スズランだとなぜいけないんですか?」

 と誰かが聞くと、

「スズランには、コンパラトキシンという猛毒が含まれていて、スズランは毒草なんですよ。特に花や根に毒が多く含まれていて、スズランを行けた水を飲んだだけでも中毒を起こすと言われているくらいの猛毒なんです」

 と鑑識の人が説明すると、

「自殺する人がこれを飲用するということは?」

「あまり考えられないですね」

「となると、殺人の可能性が高いわけですね」

「そうですね。事故ということは考えられないですからね。花びらが入っていたということは、誰かが意図的に飲ませたと考えるのが普通でしょう」

「なるほど、よく分かりました」

 実際にその後の鑑識の発表でも、死因はコンパラトキシン、つまりはスズランの毒による中毒死であることが分かったのだった。

「毒の正体がスズランだということになると、誰にでも手に入るものであるだけに難しいですね。確かに死んだ場面が場面だっただけに、容疑者は絞られるでしょうが、もし犯人がある程度絞られたとしても、誰にでも手に入れられる毒ですから、それをいつでも誰でもが混入できるとすると、スズラン以外で何か決定的な証拠を掴まないと、逮捕は難しいのではないでしょうか?」

 門倉刑事のいう通り、容疑者として浮かぶ人はさほどいるわけではなかった。

 彼を憎んでいて、あの場所にいた人間ということなので、そうなると、犯人として疑わしいのは本当に限られてくる。

 問題は動機であった。

 彼は批評家として評論家というよりも、人を貶すことの方が多く、そのため、彼を少なからず快く思っていなかった人も多かっただろう。そういう意味では交友関係はごく限られていて、彼を殺したいとまで思う人は、やはり批評された人の中からしか考えられなかった。

 そこに持ってきての、出版社主催のパーティである。作家の先生と呼ばれる人もたくさん招待されていた。その中から彼を憎んでいる人を探すのは、聞き込みによってでしか得ることはできなかった。

 クローズアップされた中にいたのは、辛辣な批評を受けたことが遊泳だった佐久間先生の弟子である俊六もその中の一人だったということは、仕方のないことかも知れない。

 門倉刑事は、彼をそれなりに疑っていた。何度となく事情聴取にも訪れたし、前にも聞いたこと同じことを、何回にもわたって聞いてきた。若干内容は買えていたが、明らかに同じ質問だった。

――僕を疑っているのかな?

 と疑心暗鬼になったのも無理はない。

 彼は気になって、しばらく何も手を付けられなくなってしまった。

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