第5話 耽美主義
俊六も自分の書く小説を、
「耽美主義」
に近いと思っている。
耽美主義というと、
「何をおいても、美を第一に追求する」
という発想で、そこには道徳的な発想を廃し、美というものを追求する形である。
最近ではBL小説などによく言われていることであるが、どうしても俊六はその世界に共感することはできない。
昔の探偵小説などで、殺人現場を芸術的な様相にすることで美を追求した殺人というものを完成させるという発想があったが、そっちの方が似合っている気がした。
むしろ、耽美主義はそちらに由来する。殺人現場の描写を美しくとよく考えるが、その発想は今に始まったことではなかったのだ。
さらに、SM的な描写や、エロチシズムな描写も耽美主義の発想から来ているもので、気持ち悪いという印象をいかに美しいという気持ちに変えることができるかというのが、自分にとっての小説を書く意義だとも思っていた。
評論家の中には、
「坂上俊六の作品は、ただのエログロ趣味であり、文学への冒涜だ」
とまでいう人もいるが、そんな人は佐久間先生の作品もあまりいい評価をしていなかった。
彼らの根本は道徳的な発想にあり、小説などは、道徳性を持ってこそ成り立つと思っているのではないだろうか。
いくら純文学のように文学的な表現を使っていても、そこに耽美主義やエログロが含まれていれば、彼らの評価はグッと下がってしまう。彼らは自分たちのことを、
「文学の王道」
のように思っているかも知れないが、その発想が文学の世界を狭めていることに気付いていないのではないだろうか。
そういう意味では、彼らにとって幻想小説がどのように写っているのか、実際に彼らの頭になって見てみたいものだと感じる。想像を絶するものに写っているのかも知れない。
高杉という評論家は、さらに変わっていた。彼は佐久間先生の作品をコケおろすにも関わらず、俊六の作品には一定の評価を与えていた。
「彼の作品には、幻想的な発想が滲み出ていて、すでに佐久間光映のそれを超えた」
と言わしめるほとであった。
もっとも、完全にコケおろしている人を引き合いに出して、
「それを超えた」
と言っても、どこまで信憑性のあるものか、考えさせられる。
俊六の作品は、基本は耽美主義であったが、それだけではない幻想小説の世界が広がっていた。
むしろ、耽美主義ではない幻想小説の世界を開こうと、独自に発想しているのが彼の作風だった。
言葉としては難しいが、一言でいえば、
「幻想小説の限界に挑戦」
とでも言えばいいのだろうか。
俊六にとって、幻想小説というジャンルは今まで佐久間先生についてきて、ある程度その幅を教えられたような気がしている。さらにそこを一歩進めて、耽美主義との決裂という冒険的な発想を抱いたのは、ひょっとすると、師匠である佐久間先生への挑戦ではないだろうか。
それを感じている評論家もいるようで、
「彼の作品には佐久間先生にはない幻想部分を感じることができる」
という批評を見ることができる。
その発想を強く抱いているのが、大久保氏であり高杉氏であった。
二人の評論家は、決して似たような発想をする人ではない、お互いに違う視点を意識しているように思うくらいに見え方が違っているところがあるが、佐久間先生と俊六との関係性においては、酷似しているところがあるという一種矛盾しているかのように思える共通点があったのだ。
二人の評論家の一致した意見は、俊六に対して、
「さらなる幻想小説への探求」
を求めているところであった。
俊六もそれが分かっているので、二人にそれなりの敬意を表しているが、高杉氏に関しては、どうしても人間的に好きになれないところがあった。
「やっぱり、先生を批判しているところが許せないのかな?」
と感じていたことであろう。
そもそも俊六が耽美主義の小説と巡り合ったのは、本で読んだからではない。あれは中学の頃だったか、江戸川乱歩、夢野久作などの小説を読んでいて、
「俺もいずれは小説家になりたいんだ」
と言っていた友達がいたが、そいつが文芸部に所属し、当時の文芸部は文化祭に向けて一年に一度、機関紙を発行していた。同人誌と言ってもいいような内容で、小説はもちろんのこと、ポエム、短歌、マンガに至るまで、文芸と呼ばれるものであれば、何でもオーケーという雑誌だった。
元々は文芸部員だけの本だったが、一般からも公募するようになり、公募がそのままコンテストに変わっていた。審査員はコンテストに応募していない文芸部員が賄うとして、その友達は、コンテストに応募していた。
当時の中学生は、結構ファンタジー系の小説が多く、ただ今のような某出版社系のような異世界ファンタジーとは一線を画するものだが、それが俊六には新鮮に見えた。
エログロなど猟奇的な発想など、結構何でもありで、ただ、中学生ということもあり、一応発行に際しては、学校の先生による検閲があった。
それでも、表現の自由という観点が根強かったので、コンテストへの参加を見送ったり、同人誌への発表を見送るような作品はほとんどなかった。
そんな中で友達の作品は、耽美主義のものが多く、最初は耽美主義などという言葉を知らなかったので、
「こんな小説がこの世に存在するんだ」
という意味で、かなり興味をそそられたのも事実である。
小説を書いていると、その時の感動をよく思い出す。友達は自分の作品を実際に、
「耽美主義の作品だ」
と自分で言っていたので、意識して書いていたようだ。
それがジャンルとして存在しているわけではないので、主義という言葉には逆に説得力を感じる。
「美を追求すると、どうしても、汚らしいものとの比較になるような気がするんだ、耽美というのは、エログロと紙一重ではないかと思うので、エログロをジャンルのように考えて、耽美をテーマにしたような小説を書こうと思うと、表裏一体の作品ができるんじゃないかって思うんだ」
と、その友達は言っていた。
「そうだよね。長所と短所は紙一重っていうしね」
というと、
「ここでいうエログロと耽美主義とでは長所と短所という意味合いとは違うものを感じるんだ。エログロの中に耽美があり、耽美の中にエログロは存在しているかも知れないが、長所が決して短所になったり、短所が決して長所になったりはしない。似たものに見えているかも知れないが、実は違うものなんだ。そうじゃないと、長所と短所を比較なんかできないからね」
と彼は言った。
「そうかも知れない。でも、僕はエログロというものも、耽美というものも、どちらも長所に含まれたり、短所に含まれたりするような気がするんだ。つまり並んでる長所と短所の上にまたがっているかのように感じるというか……」
と俊六がいうと、
「それも一つの考えさ、僕は僕の発想で、エログロや耽美主義というものを見ているだけのことだからね。君も小説を書いてみればいい。耽美をテーマにするか、エログロをテーマにするか、その路線で考えるとどんな話が出来上がるか楽しみだ」
と言われた。
俊六は、エログロと耽美主義とどちらに興味があるか考えてみた。だが、その結論は出てきそうにもない。それぞれに魅力があり、どちらも自分とは程遠い感覚であると思ったのだ。
「もし、小説が書けるとすれば、僕の中でどっちが近くに感じられるかということが分かった時かも知れないな」
というと、
「ただ、エログロという発想も耽美主義という発想も、近づけば近づくほど、ボヤけて見えてくるように思うんだ。というのは、今は適度な距離を持っているから、視界の焦点があって綺麗に見えているかも知れないが、近づきすぎると、見えるものも見えなくなってしまうのではないだろうか」
「そんなものなんだろうか」
と俊六は頭を傾げてしまった。
コンテストでは、彼の作品は最終ノミネートもされなかったが、彼は他の人には見せないと言っていたその作品を見せてくれた。
その作品は近未来の話で、美を追い求める男性が女性を生きたまま冷凍保存するという話だった。
設定としてはよくある話ではあったが、目覚めた女性が目にしたのは、別の世界であったという発想である。
その世界は美に関しての法律が確固たるものになっていて、冷凍保存される前の考え方とはまったく違っていた。
その発想には、まずある時期に、人類が死滅するという大きな戦争があり、生き残ったのはごく一部の人たちであった(これもよくある設定ではあるが)。
自分たちがさらに生き残るためには生身の身体ではなく、機械の身体で生き残ることを最優先として、その機会であるがゆえに、「美」を追求することが求められた。
出世するにも美が必要。もちろん、国家元首や官僚たちは、すべて、
「見た目の美」
が要求される。
選挙の目的も美から始まっている。
人間のように生身の身体がいつかは滅びる。永遠の美を得ることはできない。これが人類滅亡の根拠だった。生き残った彼女も美を求められるが、どうしてもそれには従うことのできない彼女は、似たように美に対して疑問を持った連中とクーデターを起こす。
クーデターは失敗し、彼らは洗脳されて、奴隷になってしまうが、いずれこの国は滅亡を迎える。あまりにも美の追求が急激すぎて、脳である考えがついていかなかったのだ。
脳だけは生身の人間である。なぜなら、
「美を求めるのは、心が生身だから」
というのが当然の理論だからである。
最後にはそのことに気付いた彼らは、自分の脳を冷凍保存して、自分たちの機械の身体を滅ぼした。
その冷凍保存された脳がどうなったか、それは誰にも分からないというのが、大団円だったのだ。
SF小説であり、ファンタジー性もあるが、耽美主義という考え方をテーマに話が流れるという意味で、興味深くはあったが、奥深さを感じさせなかった。それがノミネートされなかった理由なのかも知れないと思うと、少し不思議な気もした。
だが、俊六はこの小説に、
「予言小説」
のような意識があった。
佐久間先生の作品が、予言小説のようだと感じたのは、この時の意識があり、
「懐かしい」
と感じたに違いない。
佐久間先生の作品は、ここまでどこにでもあるような作品ではなかったが、どこにでもいるような主人公が、不思議な世界に入り込むという、そんな発想が多かった。
つまりは、幻想的で、前衛的と言ってもいいのではないだろうか。予言小説と言われるゆえんはそのあたりにあるのではないだろうか。
中学時代の友達も近未来への予言を意識していたに違いないが、そこに昔からある耽美主義という考え方を結び付けたところは評価できると思う。しかし、そのために話がよくある話から飛躍しすぎて、一回転してしまって、またよくある話に戻ってきてしまったことが、奥深さを感じさせない理由だったのではないかと思うのだった。
昔の幻想小説家と呼ばれる人たちは、幻想の中に耽美主義をうまく織り込み、例えば殺人現場に芸術的な発想を織り交ぜて、一つの美を形成するように、読者を誘っていた。
「耽美主義って、いったい何なのだろう?」
と考えさせられる。
耽美主義を調べてみると、
「道徳功利性を廃して美の享受・形成に最高の価値を置く西欧の芸術思潮」
と言われているようだが、まさにその通りであろう。
「耽美主義というのは、まやかしだ」
という評論家もいた。
その最たる例が大久保氏だったのだが、佐久間先生と俊六の作品に関しては、さほど批評をしていない。
自分たちの作品を、
「耽美主義的な作品」
と公表していないからなのかも知れないが、読んでいれば分かるはずである。
同じ耽美主義であっても、種類があって、佐久間先生や俊六の作品は、
「許せる範囲」
なのであろうか。
ただ、ハッキリしていることは、耽美主義というのは、あくまでも美への追求であり、それはそのまま芸術の追求と言ってもいいのではないだろうか。
耽美主義の大衆小説の代表的な作家としては、江戸川乱歩であったり、夢野久作であったりするのだろうが、純文学においては、森鴎外、泉鏡花、永井荷風、谷崎潤一郎がその代表と言えるのではないだろうか。
純文学と言っても、文章が文学的にできているというだけのことであって、小説的には大衆文学も純文学もそんなにハッキリとした境界線があるわけではない。そのことを分かっていないと、耽美主義の小説を理解することは難しいであろう。
もっとも耽美という発想は、元々自然主義文学の暗さの反動で出てきたのは、白樺派(武者小路実篤、志賀直哉などの作家)と、美を追求する、耽美派だったのだ。
「個性主義・自由主義を中心とし、強烈な自我意識と人道主義に根ざす理想主義的傾向とをもち、大正文学の中心となった」
という意味らしい。
どちらも二十世紀初頭、つまり明治末期から昭和初期までという時代背景があり、歴史的にも激動の時代であったということも一つの要因だったのではないだろうか。
そんな文学の歴史を勉強していると、耽美主義というのが、奥深くなければいけないものではないかと感じるようになった。
容易に耽美を語るのは簡単かも知れないが、それを主張するには説得力が必要で、どうしても物語として起こそうとすると、テーマという形で絞ることしかできないような気がする。
実際のストーリー展開で前面に押し出すことは結構難しく、時代が進めば進むほど、耽美に対しての発想が揺らいできているのではないだろうか。
その理由は、
「世の中が豊かになり、発想や思想も飽和状態になっているのではないか?」
という考えであった。
今流行りの某出版系の異世界ファンタジーや、ケイタイ小説に代表されるようなライトノベルであったり、BLなどという耽美主義とは言えないような文学が蔓延っていることが憂慮に耐えないと思っている人も少なくはないだろう。
あくまでも昔の耽美主義作品にこだわる人間だけに評価してもらえばいいと思っていたが、佐久間先生はどうだったのだろう?
先生はどこか、
「皆に評価される作品を書きたい」
と常々言っていた。
しかし、実際には時代の流れには逆らえず、昔の小説が好きな人は今の小説を受け入れることができなかったり、今の小説しか知らない人にとって、昔の小説は難しすぎて、受け入れるには困難な状態となるため、
「昔の古臭い作品」
として敬意を表しているふりをしながら、実は軽蔑している人も少なくはないだろう。
だが、芸術家というのは、基本ミーハーではやっていけないと思っている。つまり、誰もが認めるような小説は、どちらに対しても妥協した小説であるため、どうしてもミーハーになりがちに思えるのだ。俊六は少なくともそんな小説は小説とは思っていない。
「オリジナリティがなければ、芸術にあらず」
という考えを持っていた。
この考えは佐久間先生も同じだったはずだ。だからこそ、予言小説のようなものが書けるのだと思っていた。時代に真摯に向き合っているからこそ、未来が見えるのではないかという考えは少し無茶であろうか。
俊六も、いずれは自分も予言小説なるものを書いてみたいと実際には思っていた。さすがに公言できるほど、温まっているものではないが、小説を書くことを生業としているのであれば、目標として持ってもいいように感じた。
そのためには、耽美主義を追求することで先生の小説の神髄を見つけることができるような気がして、その先にある未来を書けるようになれるのだという思いを持っていた。
「耽美主義の行き着く先、そこに何が待っているというのだろう」
この日に、高杉氏、大久保氏と話ができたことは俊六にとって、自分の財産になるだろうということを実感していた。
パーティも佳境に入ってくると、いよいよ俊六の気持ちが少し落ち着きがなくなってきたような気がして、人の多さが余計に鬱陶しさを感じさせるのであった。
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