第4話 披露パーティ

 今年の梅雨は、梅雨入り自体が遅かったからなのか、あけるのも遅く、八月の声が近づいてきた頃にやっとあけたのだ。ここ最近の特徴でもある、梅雨明け寸前の集中豪雨が容赦なく全国各地に爪痕を残しながら、猛威を振るったのは、ついこの間のことだった。

 梅雨明け前から、早朝より、いちいち寝て居られなくなるほどのセミのやかましい声が聞こえていた。それを聞いただけでも、梅雨明けが間近なのは想像がついたというものだ。

「本当に、ミンミンうるさいよな」

 と言いながら、差からクーラーを入れていないとたまらない暑さに、連日の雨で湿気も半端ではなかっただけに、朝からの暑さはたまったものではなかった。

 暑さというものがここまでひどいと、人間の頭の中もまともに整理できなくなる。まだ梅雨だというのに、これでは夏本番が思いやられるというものだ。

 その日、出版社では、ある作家のデビュー作が発表されるということで、記者会見を開くため、朝からその準備に追われていた。

 その作家は女性で、恋愛小説でも純愛をテーマにした最近では珍しいと思われるジャンルを得意とするかのような作家だった。

 昨年、その出版社の主催する恋愛小説コンテストで大賞を受賞し、その受賞作がデビュー作として発行されるという記念すべき日となっていた。

 その記念パーティに招かれた評論家だったが、彼はその女性の作品を褒めちぎっていた。そもそも批判することが本職のような人だったので、褒めるにしても、少し辛口になりがちで、しかも恋愛小説などは自分のジャンルではないので、あまり批評することは控えていたのだが、彼女の作品に対してだけは、他の評論家も顔負けのべた褒めだった。

「高杉さんは、彼女の作品のどこがいいんですか?」

 と聞かれると、

「どこがいいも何も、そんなことは評論にちゃんと書いてあるから、それを読めばいい。あんたら記者のくせにそれくらいのこともできないのかね」

 とばかりに、下手にインタビューなどしようものならいつもの、

「高杉節」

 が飛んでくるわけである。

 高杉氏の言っていることは至極当然のことを言っているのだが、それだけに、言われた方は腹が立つ。わざと相手を怒らせようとでもしているのではないかと言わんばかりのその言い方に苛立ちを覚えるのだ。

 かしこい記者は、

「どうせ腹を立てても、あいつの術中に嵌ってしまうだけなので、適当に聞いていればいいんだ。ただ、彼の話の中にはたまに核心に迫る鋭い言葉が含まれているので、それを見逃さないことだ」

 と話していた。

「皆あなたのようにはいきませんよ。どうしてあんなにまわりを怒らせようとするのかね? 過去に何かあったんじゃないか?」

 と、彼の過去を疑う人もいるくらいだった。

 もっとも、高杉の過去について知っている人は業界でもそれほどいない。プライバシーに触れられることを高杉が極端に嫌うからだ。プライバシーの侵害を犯すことは記者にとって致命的であり、それが同業者に向けられることでも同じことだった。それだけに高杉の過去については、若い連中にとっては特にベールに包まれていて、ある意味興味深いことであった。

 先輩から聞き出そうとする人もいたが、彼の過去についてはある時期から喋ってはいけないという決まりのようなものが出てきて、そのせいで誰も彼について語ろうとはしなくなった。

「どこからか、圧力でもかかっているのかな?」

 というウワサもあったが、それは当たらずとも遠からじであり、やはりそれだけ彼の過去には大きな何かがあるのだろうと思われた。

 その日のパーティは盛況で、普段よりもたくさんの招待客がやってきていた。何しろ高杉氏がいるくらいなので、当然といえば当然だ。この場にまったくふさわしいとは思えない高杉氏の存在で、まわりは異様な雰囲気に包まれていた。よく見ると高杉氏のまわりには誰もおらず、一人でワインを?んでいる。他の人なら

「寂しそうにしているので、話しかけてみよう」

 と思うのだろうが、相手が高杉氏では、下手に話しかけでもしたら、何を言われるか分かったものではない。

 それでも、主催者側のスタッフが、社交辞令であろうが、何人か高杉氏に話しかけに行った。

「こんばんは、これはお珍しい方においでいただけて光栄です」

 と本音に近い形で皮肉を込めて言ったが、どんな言葉を使おうとも、その心境が社交辞令であることに違いない。

 それであれば、

「思っていることを口にすればいい」

 と言わんばかりに口を開いた。

 高杉氏は、鬱陶しそうにそのスタッフを睨みつけていたが、さすがに百戦錬磨とでもいおうか、動じる様子はなかった。

「しょせん、檻に入れられたトラかライオンのようだ」

 としか思っていないのだろう。

「ところで、今回は珍しく、受賞者に対して、手放しでの褒めよう。あれはどうしたことなんだい?」

 と切り出すと、

「どうしたも何も、いいものはいいと言っているだけだ。私だって、いつも批評だけしかしないわけではない。私にいいと言わせる作品がなかなかないというだけだ。本当に出版業界も地に落ちたのではないかと思うくらいだよ」

 と、高杉氏は完全に嘆いていた。

「でも、少なくとも私が知る限りでは君の酷評は本当に見るに堪えないものもあるんだよ。例えば、亡くなった佐久間先生の作品に対しての君の酷評はまるで別の恨みでも籠っているかのように感じたくらいだ」

 というと、高杉氏はギクッと何かに覚えた様子で、

「そんなことはない。やつの作品こそ、欺瞞に満ちたもので、あいつの人間としての尊厳の欠片もない作品には、いつも反吐が出るくらいのものだからな」

 と、これ以上ないというくらいの酷評であった。

 ここまでくれば、評論どころか批評でもない。完全な個人攻撃である。確かに他の作家に対しても酷評は多いが、佐久間先生に関しては、人間的な憎悪を抱いているかのようだった。

――個人的に何かあるんじゃないのか?

 と主催者側のスタッフは感じ、佐久間先生の生前を思い出していた。

――どこといって、おかしなところはなかったがな――

 としか思えない。

 このパーティには俊六も招かれていた。

「やあ、坂上君。最近はどうだね?」

 俊六に話しかけてきたのは、高杉氏だった。

「ああ、高杉さんですか。まあ相変わらずの毎日ですよ」

 俊六としては、あまり高杉とは話をしたくないという思いがあった。

 今回パーティに参加したのも、

――高杉はこういうパーティに参加しないはずだ――

 という思いがあったからで、もちろん、参加の優先順位としては低い要素ではあったが、まさか彼がこのパーティの中に「含まれて」いるとは、想像もしていなかった。

「坂上君が作家になれたのも、佐久間先生のおかげなんだろうね」

 といきなりの口激だった。

「それはどういう意味でしょう?」

 彼の言いたいことは分かっていたので、こちらも攻撃的になってしまった。

「だって、彼は予言作家なんだろう? 君のデビューも予言されていたではないか」

 と、思っていたことを言ってきた。

 俊六も負けていない。

「そうですね。僕は先生から作家にしてもらったようなものですからね」

 というと、今度は高杉の方がへりくだってきた。

「まあ、そういいなさんな。君の実力は私が認めるからね。そうだなあ、君の作品には重みがあるんだよ。佐久間先生のような曖昧な作品ではなくてね。だから彼の作品が少しでも的中すれば、話題が大きいんだ。それだけ内容が軽くて曖昧だということを示しているんじゃないかな?」

 と言ってきた。

「僕は、小説をなるべく分かりやすく書こうと思っているだけなんですよ。読んでくれる人がいる。その人たちがどう感じるんだろうってですね。そればかりを考えて書いています」

「そういう作品を僕は好きなんだ。今回受賞した女の子の作品も、そういう作品に感じたんだ。ノンフィクションではないけど、どこにでもありそうな話なのに、読んでいて感動する。僕はそんな作品が好きなんだよ」

 最後には念を押すように言った。

「僕の作品は、いつも頭に描いているようなことを文章にしているだけなんです。だから時々書いていて、ちゃんと繋がっているのかな? って感じるんですが、それは自分が絶えず思い描いていることだから継続して書けたんだって思います。小説というのは、継続が大切だと思うんですよ。いろいろな作品を書き続けるだけの意味ではなく、一つの作品の中で、貫かれる信念のようなものが感じられるようなですね」

「そういう作品が、人の心を打つんですよ。僕は自分で小説を書いたことがないのでよくは分かりませんが、作家というものは、人に読んでもらいたいと思って書いているんじゃないんですかね?」

 今までにこんな話を作家の人に話したことなどなかった高杉は自分の饒舌ぶりにビックリしていた。

 しかも、今日は新人ともいうべき作家を相手に自分の考えを聞いてもらっているという立場だ。本当であれば、批評する相手に相談しているのである。何とも言えない状況に、高杉は戸惑っているように感じられた。

――案外、こいつは俺と同じような境遇なのかも知れないな――

 と高杉は感じていたが、その思いはまんざら間違っていなかった。

 ただ、読者諸君が今頭に描いたであろう境遇と、彼の感じた境遇とではかなりの違いがあるということだけはお伝えしておこう。

 その理由はまだ物語の進行度合いとしては、明かすことはできない。どんな理由が存在しているのかは、徐々に分かってくることだが、まだ、この物語では、何も事件らしいものが起こっていないからだ。

 しかし、その事件というのが起こるのは間もなくのことで、ここまでの伏線を踏まえて今後を読んでいただけると嬉しい限りである。

 高杉は、その日、思ったよりも酔いのまわりが早かった。いつもは一人でチビリチビリとやるのだが、その日は俊六という話し相手があり、しかも、自分が思っていたよりも会話という者が結構楽しいと気付いたことで、酔いも早く回ったのだろう。

「こんな気持ちのいい酒は久しぶりだ」

 と口から洩れたのだが、これを本音だと俊六は気付いただろうか。

「酒というのは、いつも一人で飲むものだって思っていたよ」

 というと、

「人と呑むのもいいでしょう?」

「そうだね」

 高杉が嬉しかったのは、俊六の言葉が、ことごとく高杉の考えていることの的を得ていたことだった。

 俊六には相手の裏を読むという力があるわけではない、それが証拠としていわゆる高杉のいう、

「重たい作品」

 という言葉がそのことを表していた。

「坂上君の作品には、裏表がない、そこがいいんだ」

 というと、

「僕は今まで高杉さんを誤解していたようです。いつもうらの部分ばかりを表に出しているように思っていたけど、高杉さんには裏なんてないんですよね。裏だと思っていたのは、一回転した表だったわけですよね」

 というと、

「なかなかそれを分かってくれる人もいなくてね」

 と言った。

「じゃあ、そろそろ僕は失敬しよう」

 と言って、いきなり高杉はその場から急に離れた。

――おかしいな?

 と思って、後ろを振り向くと、そこには一人の編集者がいた。

「珍しいものを見せてもらったよ。まさか高杉君が、誰かと楽しそうに話をしているところなど、本当に久しぶりに見た」

 と言って笑った。

 この編集者はベテランの域に入る人で、もう四十歳近いのではないだろうか。一度編集長も歴任したことがあるようだが、今は一介の編集者として地道に活動している。どうして編集長迄やった人が一介の編集者に甘んじているのかというのを一度佐久間先生に聞いたことがあったが、

「あの人は編集長をしている時、ちょうど作家のスキャンダルが持ち上がって、雑誌が急に売れなくなったんだ。その責任を取る形で編集長を辞任したんだよ」

 と言われた。

 確かにそんな編集長がいるというウワサを聞いたことがあった。しかし、その時にスキャンダルのあった作家が誰だったのか、そして、その結果世間でどのような問題が起こったのかということは、ある程度一部の人間しか知らないことで、マスコミもその当時騒がなかったらしい。

「どうやら、内輪の問題だったようで、そのおかげで、出版界が大きな問題で揺れることはなかったんだが、そのかわりに煽りを食ったのが、あの編集長だったようだ」

 という話だった。

 だから、今ではその時の資料も残っていないので、人に聞くしかないのだが、今でもその時のことは緘口令が敷かれているようで、そのことを探ろうとしても無駄であった。

「その時の編集長と高杉君とはそれまで周知の仲だったようなんだけど、それから変に二人ともぎこちなくなっちゃって、本当にどうしちゃったんだろうね」

 と、その時の事情を知っているのか知らないのか分からないが、佐久間先生はそこまでしか教えてくれなかった。

 この編集者の名前は確か、大久保さんという名前だったはずだ。

 最近では顔は見かけるが、いつも端の方にいて、影になって寂しい存在なので、名前すらすぐに思い出せないほどだった。

 そんな大久保さんは、高杉氏を見つけると、本当は話しかけたいのかも知れないが、相手が逃げるものだから、追いかけることもできずに、完全に委縮してしまっていた。

「大久保さんは、以前、、高杉さんとは仲が良かったと伺いましたが、何かあったんですか?」

 理由を教えてなどくれないことは分かっていて、それでも聞いてみた。

「ああ、いろいろあってね」

 含みのある言い方だが、これが精いっぱいなのだろう。

「そういえば、大久保さんは、小説を個人的に執筆なさっていると聞いたことがあるんですが、それは本当なんでしょうか?」

 と話を変えてみると、その話には大久保も大いに興味を示し、話に食いついてきた。

「ああ、そうなんだよ。編集者としてずっといろいろな作品を見てきたので、そろそろ自分も書いてみたいなという気がしてきてね。編集者としては、あまりいい仕事もできなかったので、書いてみたいと思ったのも、その気持ちがあったからなんだよ」

「それはいいと思います。かつての横溝正史先生のように、編集長を歴任した人が、ベストセラー作家になったというような話も聞きますからね。僕も早く大久保さんの作品を読んでみたいものです」

「そう言ってくれると、頑張ろうという気になるよ」

「どんな作品を考えているんですか?」

「僕は横溝先生のように、ミステリーが書きたいと思っているんだ。ミステリーにもいろいろ種類があって、昔からの探偵小説。それも本格探偵小説、変格探偵小説などのどちらにしようかなどと考えているところだね」

「探偵小説って面白そうですね、本格と変格ってどう違うんですか?」

「これは昔の作家が提唱したジャンルなんだけど、本格というのは、謎解きやトリックなどを重視したオーソドックスな探偵小説で、変格というのは、猟奇趣味や怪奇と言ったジャンルの小説をいうらしいんだ。あくまでも大正時代から昭和初期にかけての話なので、今の時代にそぐわないかも知れないが、佐久間先生の描いた世界である、オカルトのジャンルなどに精通しているところがあったりするから、興味深いんじゃないかな? 私もかなり影響を受けて読み込んだつもりなので、佐久間先生の作品などがさしずめの目標というところでしょうか?」

「佐久間先生の作品は、きっと変格のジャンルになるんでしょうね。羞恥や猟奇といったものや、耽美主義的なところもあり、そこがオカルトとしてのジャンルを貫いているようで面白いと思うんですよ」

「オカルト小説というと、超自然的であったり、上場現象、あるいは都市伝説のようなものをイメージするんでしょうが、私は幻想小説だと思っているんですよ。それが幻影である場合もあれば、本当に存在する別の世界の出来事であったりですね。そういう意味では佐久間先生の作品はオカルト小説の神髄をいっていると思います。特に最近では、予言小説などとも言われていますからね」

 と、大久保は言った。

「僕もだから先生の弟子になったようなもので、まだ先生の作品が世間であまり認められていなかった頃から僕は先生についていますからね。でも僕にはなかなか先生のような作品は書けなかった。きっと先生が僕の考えるような作品を実現してくれているのだと思って、それで僕は満足していました」

「でも、どうですか? 自分で作品を発表して作家の仲間入りしてみれば、自分をどれほど今まで抑制してきたかということがよく分かったでしょう? 欲が出てきたというのか、人間らしさが出てきたというのか。とにかく、自分の作品を世に出すということを目的にするようになったわけですからね」

「そうですね。そういえば以前僕は先生から面白いことを言われたことがあったんですよ」

 と俊六が切り出すと、

「どういうことですか?」

「先生がいうのには、『小説家が作品を呼び出す場合には、必ず作者である自分が納得していないと、世に出してはいけないんだ。私のように幻想的な小説を書いていてもそうなんだ。だからなるべく作品のアイデアを考える時は、美術館などに言って美しい絵や彫刻、あるいは写真を見ることで想像力をたくましくするんだよ』というんです」

「それは当然のことだと思うね。僕もそこまではしないけど、夢に見たことをなるべく忘れないようにしたいという意識はあるんだ。でも、結局忘れてしまうんだけどね」

「それで先生がいうには、『夢を見るというのも大切なことで、忘れてしまう夢も多いんだけど、実際に覚えている夢のほとんどは怖い夢なんだ。だから夢に見たことを小説にするなら、怖い話になってしまうのは必然ではないか』と言っていました」

「それも僕には分かる気がする」

「それに僕はだね。子供の頃から羞恥や猟奇的な作品や、耽美主義的な作品はあまり好きではなかったんです。子供心に刺激が強すぎたというのはあったんだけど、それ以上に別の意味で遠ざかっていたと言った方がいいかも知れないね」

「どういうことですか?」

 と俊六が聞くと、満を持したかのように、大久保は答えた。

「実はね。猟奇的な作品であったり、耽美主義の作品というのは、正直文章が難しい気がするんだ。わざと難易度のある言葉を選んで説明書きなどに使用としている。子供であれば、非常に難しく思えて仕方がない。だから敬遠していたんだけど、それを、子供だから大人の小説はまだ早いと思われるのは心外だというおかしな感覚を持っていたりしたんだ」

「それは僕もそうでした。何かわざと難しい言葉を使っているような気がしたのは、どこか純文学を意識しているからなのか、それとも、小説の主旨である猟奇的なという意味であったり、耽美主義のように、美を求める思想が言葉にも表れているのではないかと思うんです」

「それこそが文学というものではないでしょうか?」

「うん、その通りだと思う。大人になって、そんなことを考えていた子供の頃を思い出すと、ある意味変わっている子供だったと思うんだけど、それはそれで、他の人と違う発想が生まれそうで、僕は嫌ではなかったね」

「その通りだと思います。僕も人と同じでは嫌だと思っている方なので、その思いがあるから、佐久間先生に弟子入りしたような気もします」

「なかなか坂上君は小説というものを分かっているような気がするね。私もこういう話をするのが結構好きなんだ。そしてその時の相手はいつも佐久間先生だったんだよ」

 と言われて、俊六はハッとした。

「そういえば、僕も先生から聞いたことがあります。自分には小説談義ができる人がいて、その人と話をしていると、いろいろな発想が思い浮かぶんだって言ってましたね。それが大久保さんだったんですね」

「そういうことなんだろうね。僕の他に誰か話す人がいれば別だけど、僕が話をしている限りでは他にそんな人はいない気がする。それよりも僕とこういう会話をした後に、佐久間先生は新しい作品にとりかかることが多いって言っていたよ」

 と大久保氏は言った。

「7僕の知らない先生がそこにいたんですね」

「その通りだと思うよ。でもね、僕は先生の顔はもう一つあると思うんだ」

「どういう意味ですか?」

「先生は僕や君と一緒にいる時はきっと他の人にはしない顔をすると思っているんだけど、実はもう一つ、僕の知らない顔が存在しているようなんだ。その顔になった時の佐久間先生は、部類の発想が生まれてくるようで、そんな時にいつもベストセラーが生まれているんだ。特に僕が気になったのは、先生には珍しく、昭和初期を描いた作品があっただろう?」

「ええ。確か、田舎の村でおじいさんと孫娘が細々と暮らしていて、戦争が激しくなって、学童疎開などが行われるようになると、その家族も戦争に巻き込まれていくというような話だったですよね」

「うん、そうなんだ。戦争が激化する前は、田舎の閉塞的な中でも、さらにこの二人はまわりとほとんど接触せずに、まるでオオカミ少年のような生活をしていた。それがいやが上にも世間に巻き込まれるようになると、都会からやってきた連中が田舎に対して優越感を持っているがゆえに、彼らを奴隷のように扱い始めた。田舎の人たちは都会に劣等感を持っているので、それを阻害することができなかったんだ。村によっては、そんな都会の人間を自分たちが立場の強いことを利用して、逆に奴隷のようにしているところもあったが、なかなかそうもいかないところが多かった。それでしょうがなく、従っていると、今度は彼らの中でストレスが溜まって、その矛先がおじいさんと孫娘に及ぶようになる。そこで孫娘を若い男連中が蹂躙しているところを老人が咎めて、逆に殺されて、そして娘も口封じに殺害。そして犯行を通り魔に見せようと、財産などを根こそぎ持って帰ったという陰懺な事件を描いていたんだ」

「あの話は、本当に見ていて辛くなる作品だったですね。僕はあの作品を発表することに躊躇しなかった先生が怖かったくらいです」

「そうだったんだね。で、その話を書いた時、佐久間先生は僕といつものように小説談義をしている時に思いついたものだというんだ。あの時の話にこんな残虐性があったとは思えなかったんだけど、先生は、『俺の中に眠っているものが目を覚ましたのかも知れないな』と言っていたのが印象的だったんだ。それがどんなものだったのかまでは分からないけど、先生が過去にあった何かと僕の話を結び付けるきっかけがあったんだろうね」

 と言って大久保氏は考え込んだ。

 確かに先生は時々、急に何かに憑りつかれたようになることがあった。それは、本当に霊にでも憑りつかれたようま気がした。それまで笑っていた表情に笑顔がなくなり、カッと見開いた目がどこを見ているのか、想像もつかなかった。

「俺は泥棒なんだ」

 などと急に言い出すことがあったり、

「詐欺師なんだ」

 ということもあった。

 ただ、そんな時は自分が悪党になったかのように想像して小説を書くのだと言っている。

「小説なんてものは、いくらフィクションであっても、自分で経験したことでもないと書けないものなんじゃないかな?」

 と、普段の先生の作風から考えれば、どの口がいうとでも思えるような発言をすることがあった。

 それも結構真面目な表情で言葉にしていた。俊六にはその気持ちがサッパリと分からなかったのだ。

 大久保氏は、そんな佐久間先生のことを、

「あの人は、やっぱり耽美主義の人なんだよ。美というものが自分にとっての何に当たるかということを小説にして書いていた。あの人の正体が何であれ、小説の素晴らしさに対しては、誰も逆らうことのできないものであろうからね」

 と言っている。

「なるほど、確かにその通りですね。僕も実際に佐久間先生の正体をいまだに知りません。小説を書いている時も一人きりですし、どこからあの発想が生まれるのか、僕には分からないんですが、先生からすれば、『君の方が発想に関しては群を抜いている、だから君を弟子にしようと決めたんだけど、僕の考えは間違っていなかった』と言っていたんですよね。僕には理解できないんですけどね」

「いやいや、それは先生の本音ではないかな? 隣の芝生は青いというじゃないか。君に自分にはない一種の才能を見出したんだよ。それが何かは分からないけど、それが分かった時、君は先生に負けない立派な小説家になっているんじゃないかな?」

「そうあってほしいと思っています

 と俊六はしみじみそう思った。

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