第3話 予言作品

 世の中に、

「予言小説」

 なる言葉があるかどうかは分からないが、結果として未来を予見した作品というのは実際にあるものだという。

「預言の書」

 と呼ばれるもので、いわゆる

「ノストラダムスの大予言」

 と一般的には伝わっている。

 しかし実際にはこの本はノストラダムスが予言したことについて解説しているというよりも、今までの彼の予言の正当性を証明し、今後起こるであろう未曽有の大災害というものがどういうものであるかを推理するものであった。彼の著わしたものは詩集であり、そこに予言めいた内容の話が書かれていて、それがことごとく当たっているという話なのだ。もちろんその中には明らかなこじつけと言われるようなものもあるが、信憑性はその歩を閲覧し、歴史がそれを裏付ける事実を残しているかが問題で、ただ、大予言なる本がベストセラーとして長年売られていたことを思えば、信憑性に関してはかなりのものだったに違いない。

 ただ、言われている

「恐怖の大王が、一九九九年の七月に振ってくる」

 というのが当たらなかったことは周知のとおりであった。

 このノストラダムスの話というのは、あまりにも大げさなものであったが、未来を預言、あるいは予見するというのは、そんなに簡単なことではないだろうが、その未来もどれほどの未来を予見するかによって、預言と言われるかどうかの分かれ目でもあろう。

 例えば百年後の未来を予知するのはかなり難しいだろう。完全に創造によるものか、それこそタイムマシンや未来を見ることのできる

「何とかビジョン」

 なるものでも開発しなければ難しいに違いない。

 しかし、これが一年後となるとどうだろう? 今度はその範囲が問題になってくる。

 自分や、その周辺だけの未来を予見するのと、世界的な何かを予見するのではだいぶ違いがあるだろう。ただ、それも勉強しているかしていないかで違うものであり、勉強していれば分かるものもあるというものだ。

 例えば経済数位なども経済学者くらいの知識があり、情報が備わっていれば、経済学を勉強している人であれば、専門家が舌を巻くほどの推理もできるかも知れない。

 ただ、それが自分の未来となると、却って分かりにくいものではないだろうか。自分の姿は鏡のような媒体を介さなければ自分では見ることができないように、ある程度までは想像できても、それ以上は無理だという結界のようなものが存在するのかも知れない。

 そう思うと、預言や予見というものは、簡単に思えることほど難しく、難しいと思うことほど理屈で考えさえすれば、それほど難しいものではないのではないだろうか。

 または、霊能力のような不思議な力を持っていて、預言に精通している人がいるとする。その人が未来を見てきたことのように書いて、それが本当のことであると立証されるとどうなるであろう。

 ノストラダムスがそうであったように、まるで妖怪や魔女の化身ではないかというような偏見の目で見られるに違いない。

 本人が世の中んためと思っているのかどうかは分からないが、ノストラダムスのように謎めいた言葉を連ねた詩集にその預言を書かなければいけない羽目になってしまう。

 デマや中傷が蔓延る時代だけではない。世の中には有事や災害に見舞われればデマを信じてしまう傾向がある、

 大正十二年の九月に起こった関東大震災でも、

「朝鮮人が起こした地震」

 などと言って、朝鮮人迫害が行われたこともあったりして、そのデマというのは、出所にもよるのだろうが、一旦広がってしまうと、どこから発せられたものなのか分かるはずもなく、限りなく伝染してしまう。

 そう考えると、予見や予言というのは実に恐ろしいもので、自分が考えもしないことが自分の不幸として襲い掛かるという本末転倒な話になってしまう。

 予言をすることが自分にとって不幸に陥らせるのであれば、

「実に皮肉なことだ」

 などという言葉で言い表せるものではないだろう。

 しかし、想像力が少しでも勝っている人は、少々の予言くらいは難しいことではない。理論的に考えれば誰にでも思いつくようなことを、いかに自分が予知したのかという風に書いていけば、それが予言小説のように言われるかも知れない。

 今の時代はオカルトというジャンルもあり、超常現象を言い表すことで、新たなジャンル分けに貢献できるのではないかという説もあるくらいである。

 超常現象というものは、実際には人間にとって、何も超常ではないという考えである。

 人間の脳というのは、約十パーセントも使われていないという話である。つまり予知はおろか、テレキネシス、サイコキネシス、さらには瞬間移動すらできるのでないかと考えるのは乱暴であろうか。

 人は夢を見た時、その夢が現実になることがあるという。いわゆる、

「予知夢」

 と呼ばれるものであるが、これも、毎日同じ視線から自分というものを見ていれば内面から客観的に自分を見つめ直せば分かるかも知れないものである。

 しかし、実際には悲しいかな起きていてそれができるというのは難しいことのようで、夢でしかそれを実現させてくれないらしい。

 それは実際に夢の中で見たことを、夢が覚めるにしたがって忘れてしまっているからではないだろうか。

 夢というのは、なぜか目が覚めてくるにしたがって忘れてしまうのだが、それは夢の世界が現実世界とはまったく別の世界であり、その間には確固たる結界のようなものが存在しているからではないかと思うのだ。

 だが、最近亡くなった佐久間先生は、そんな予見的な小説を書くことで有名であった。

 いや、有名であったというよりも、死んでから有名になったと言った方がいいだろう。

 先生の死後、弟子である坂上俊六に先生から遺言があったのは前述の通りであるが、遺作というか、未発表の作品がかなり残っていて、その作品を公表するかどうかは俊六に任されていた。

 もちろん、著作名は佐久間先生の名前である。ただ、その時に入ってくる印税は俊六のものになるという、普通に考えれば、

「おいしい話」

 だった。

 だが、俊六は迷っていた。

「作品を公表するのはいいとして、自分がその印税というおこぼれに預かっていいものかどうか」

 という考えであった。

 しかし、これはあくまでも建前であり、本音は違った。

 本音には二つあり、一つは、

「自分の作品でもないものを自分の意見で発表するということは、作家のタマゴとはいえ、端くれの一人として、恥ずかしいものではないか」

 というものであった。

 この考え方は、結構信憑性がある。これはきっと彼以外の他の作家についている弟子やアシスタントの人間からすれば、同じ悩みを抱くに違いない。

 作家としてのプライドを抱いたまま意思を貫くか、それとも目先の金銭に委ねるかのどちらかであった。

 またもう一つは、この作品群の中には、予知的な内容のことが結構含まれていたからである。

 伝染病の流行であったり、災害の予見。さらには、経済の動向など、結構詳しく書かれていた。

 これをそのまま発表すると結構センセーショナルが巻き起こり、外れれば、死んだ人の作品ということで、そこまでひどくはないだろうが、誹謗中傷は免れないだろう。

 しかし、当たってしまえば、問題はそんなことでは済まなくなる。しかも本人は死んでいるのだから、証明のしようもなければ、釈明を聞くこともできない。誹謗中傷がデマとなって、パニックを起こすかも知れない。それほど未来に対してシビアに書かれているものが多かった。

 しかも、先生が今まで発表し公開してきた作品の中に、未来を書いた小説はなかった。ほとんど現代や過去のことで、予見などという言葉とは無縁の作風だったのだ。

 だからこそ、今まで発表せずに自分の中に抱えていたのかも知れない。それなのに、なぜそれを弟子の俊六に委ねようというのであろうか。あまりにも荷が重すぎて、どうしていいか迷うことでしかなかった。

「どうして先生はこの俺にこんな厄介なものを残したんだ」

 と先生を恨みたいくらいだったが、考えてみれば、

「先生は自分の死も予見していたということか」

 こんな遺言まで書いているのだから、予見していたと見るのが正解であろう。

 やはり最初は、

「遺作を公表することはいけないことだ」

 と思い、公表を思いとどまるつもりでいた。

 しかし、編集者の人の意見や、先生の遺志を考えると、ここは発表するのが筋だと思い返した。

――どうせ、俺には発表できるような話はないんだし――

 と感じていた。

 俊六がなかなかデビューできないのには、枯れには小説家としての才能とでもいうべきか、備わっていなければいけないある部分が欠如していた。これは致命的ともいえる部分で、いわゆる、

「モノを覚えられない」

 というところにあった。

 ストーリーをあらかた思いついて、プロットまで出来上がったとしても、それを作品として起こすだけの記憶力が欠如していた。せっかくいいストーリーは思いつくと思っているのに、もったいない話だと思う。先生からも、

「君にはせっかく、プロットを思いつくまでの才能があるのに、いざ執筆となると難しいのはもったいない話だ。プロットを思いつくまでの発想は俺にもないくらいのものなのにな」

 と言ってくれていたくらいだった。

 モノを覚えることができなくなったのは、先生の弟子になってからのことだった。それまではそんなに記憶力について優れているとは思わなかったが、劣っているなど想像もしていない。しかも致命的なほどだということにはビックリしている。

 その分、プロットまでは完璧であった。記憶力の分がプロット作成の方に移行したのではないかと思うほどである。

 そんな俊六は自分に備わっていない記憶力を何とかしようという意思もあった。まだまだ若いのに、こんなことでは、もし小説家の弟子でいられなくなったとしても、他の仕事につけるわけもない。そういう意味で、先生に死なれた時、一瞬目の前が真っ暗になったのも事実だった。

 そんな思いもあって、先生の印税が入ってくるというのは、自分がこれからどうやって生活をしていけばいいのかということに関わってくる問題としては、ありがたいことだった。

 だから、先生の作品を公開するということへの決断の一つには、自分のことも入っているのだった。

「本当に先生という人は素晴らしい人だ。なかなかこんなことはできないよ」

 と言っていたが、まさしくその通りだと思った。

 俊六は先生の本の中から厳選してどれから発表するかを練っていた。

 一気に数冊を発表するようなことはしないと思っていた。それは、

「予言小説」

 という意味合いもあってのことである。

 いきなり何作品も公表してしまって、世間で佐久間先生の作品に違和感を持たれるのを最小限にしたいとも思っていた。

 本当は本が売れるようにするには、センセーショナルな話題は必要なのだが、一気に発表すると、逆効果になるだろう。

 ゆっくり一つずつ発表していく方が、ジワジワと広がっていき、本の売れ行きもいいのではないかと思うようになっていた。

 まずは、最初の方での発表作品は、内輪などの狭い範囲での予言をした作品を中心に考えていた。

「これであれば、世間で予言小説だというウワサが立つことはないだろう。一部の小説家などが少し分かるかも知れないが、それも後からの発表なので、予言とは思わないかも知れない」

 と、俊六はそう思ったのだ。

 それでも評論家の中には気づいた人もいて、これを、

「予言小説ではないか」

 と言ってはいたが、一人だけの意見では、誰が信用するというのだろうか。

 この作品は、普通に発表され、そこそこは売れた。まだ佐久間先生が亡くなってからの印象が世間に残っていたからではないかと思い、想像していたよりも売れたことは、俊六を安心させた。

 嬉しいとまでは思わなかったが、安心した、あるいはホッとしたというのが正直な気持ちだった。

「また少しして次作を考えよう」

 と思うようになり、この頃には最初の戸惑いはなくなっているのだった。

 一年経ってから次作を発表することになったが、今度の作品はある程度の予兆が書かれたものであり、前後編の前編に当たる作品だった。

 この作品は想像通りの反響を呼び、次作が待たれることとなった。

 しかし、次作までにはさほど時間を置くわけにはいかない。なぜなら作者はもう死んでいるのだ。作者未発表のものを、後から遺族が発行しているのだということは読者にも分かっている。それだけにあまり引っ張ると、世間では遺族、あるいは死んでしまった先生の名誉を傷つけることになる。それだけはできなかった。

 そのことは出版社も分かっていて、

「前後編作品でなければ、ここまで焦ることはないんでしょうが、思った以上に反響があったので、後編はあまり間を置かずに発想する方がいいと思います。三か月後でいかがでしょう?」

 という話になり、

「それでいいと思います。皆さんの方が出版に関しては専門家でいらっしゃいますからね」

 と答えた。

 三か月後に発表した後編もさすがに反響を呼び、

「予言小説の後編」

 と銘打って、発行した。

 もう皆もこれが予言小説のようなものであるということは分かっている。となると逆手を取って、小説にあまり興味のない人たちにも売り込もうということで、少し過剰な宣伝にした。これは出版社の人からの提案で、さすがの俊六も、

「なるほど」

 と考えた方だった。

 だが、俊六の考えは別にあり、ここで、この前後編のある大作を発表したのは、この作品が一番「予言作品」として体裁をなしていたからだった。

 他の作品は、確かに「予言」に絡む部分はあるが、それ以上にストーリー性を豊かにした作品で、作品としての完成度はまだ未発表の作品の方がよかった。

 すでに、

「予言作家」

 としての地位を確固たるものにした佐久間先生の立場からは、今後作品をどのように発表したとしても、それなりに売れるということは約束されたような気がしていた。

 第一作から二作目までは一年、そして次の後編までは三か月、そしてここからは、半年に一度というコンスタントな発表の仕方でいいだろうというのは、出版社と俊六の間の一致した意見であった。

 すでにここまで来ると、発表する作品の順番はある程度、佐久間の頭の中にあった。もっとも、もうこの後はどれから発表してもいいのだろうが、せっかくだから、佐久間先生が書かれた時系列に沿って発表するのが正解であると思われた。

 実際に発表する作品を何度か読み返してみたりしたが、読んでいるうちにどこか懐かしさがあり、さらに、読み進めば、

「自分であっても、同じような発想をするんだろうな」

 と考えたのだった。

 そんな佐久間先生の未発表作品を読んでいるうちに、

「俺も、もう一度作品を書いてみようかな?」

 という創作意欲に燃えてきた気がした。

 それまでは、執筆に関してあまり真剣には考えていなかった。でも、佐久間先生のところに弟子入りしたのは、ずっと佐久間先生の雑用をするためでも何でもなかったはずだ。小説家になることを目指して入ってきたはずで、致命的な記憶力の欠如というハッキリとしたショックを受けたことがトラウマになって小説を書けなくなってしまった、しかし、プロットまでは完成させることができるのだ。せっかくそこまでできるのだから、挑戦してみてもバチは当たらないだろう。いや、むしろ挑戦しないというのは、プロットが書けるだけに、悪いことではないかとも思えてきた。

 先生の作品の編集を手伝いながら、自分は個人的にプロットを考え、少しずつ書いてみていた。

 一応、自分が書いていることはまだ誰にも話していなかった。

 自分の中にトラウマがあることで、なかなか執筆活動はうまくいかない。一気に数枚書くことができたと思うと、数日間で二、三枚しか進まないなどという時期もあり、結局百五十枚くらいの作品を書くのに、半年もかかってしまったのだ。

 推敲は一度だけは行い、誤字脱字を直すくらいにしていた。俊六は記憶力云々は別にして、推敲は以前から苦手で、執筆活動の中で一番億劫な作業だった。

 そのうちに次作のプロットが出来上がり、さらに次の作品に取り掛かった。今度の作品は、もう少し長い設定にしていたので、合計で二百五十枚くらいの中編でも長い作品となった。これも半年近く掛けて書き上げたのだった。

 ここまでくると、だいぶ作品を書くことへのトラウマはなくなってきた。書いたことは別のデータとして、箇条書きにしていたので、それを見れば、前に書いたことも思い出せる。さらにスピードを上げたことで、忘れる前に新たに書き加えられるので、時系列的に書きさえすれば、あまりトラウマを気にすることなどないことは分かってきた。

 だが、こうなると自分の作風が時系列に沿っているものでなければいけないという制約がついてしまった。

 それでもいいとは思っているが、そのうちにそれで満足できるかどうか気になっているのも事実だった。元々書けなかったことを思えば、ここまで書けるようになっただけでも素晴らしいことなのに、それ以上を望むのはバチが当たるというものだ。

 だが、人間というのは、傲慢なものであって、できるようになればさらに高みを目指すものである。傲慢という言葉を決して悪いこととして考えてはいけない。あくまでも向上心を高めるものであるといういい意味で捉えるべきである、そう思うと、俊六は今向上心の真っ只中にいるということなのだろう。

 佐久間先生が死んでから、そろそろ一年半が経とうとしていた。

「もう一年半も経つんですね」

 と編集者の人はいったが、まさにその通り、今にでも先生が、

「坂上君」

 と言って話しかけてきそうで、先生が死んだということ自体を自分が本当に受け入れているのだろうかと思う俊六だった。

 先生の作品と、自分の作品を交互に発表しながら、自分も創作活動に勤しんでいる。こんな毎日を先生が存命の頃から想像ができたであろうか。

「いずれは僕も」

 とは思っていたが、なかなか先生の背中ばかりを見て、誰かが背中を押してくれないとできなかったことが多かったに違いない。

 そんな毎日を今は十分に満喫し、自分の作品に磨きをかけることを一番に考えながら、今日も執筆に勤しむ。それが自分の小説家としての毎日であり、そして醍醐味でもあったのだ。

 佐久間先生の遺作が世に出回ってくるようになると、いろいろな批評家が、先生の作品について雑誌などに批評を載せている。そのほとんどは高評価なものが多かったが、一人の批評家で、先生の作品を酷評する批評があった。

 それはあまりにもひどいもので、先生が生きていれば、一言抗議を入れてもいいレベルであった。

 さすがに先生は存命ではないだけに、それを知っての酷評ではないかと思うと、さすがの俊六も腹が立ってきた。

 自分は遺作に関しての出版を一任されているので、さすがにその批評家に対して抗議を申し入れた。もちろん、出版社を通しての正規な抗議であったが、相手の批評家も黙っていない。

「こんな予言小説だか何だか知らないが、世間を騒がせるような話を書いて、どういうつもりなんだ。生きているならそれでもいい。こちらの批評に対して反論できるからな。しかしすでに作者は死んでいる。君は作者ではないのだから、いくら先生の代理として話を持ってきても、それは話にはならないというものだ。僕は言論の自由の元で批評しているんだ。これを卑怯だというのであれば、世間に照らして争ってもいい」

 とまで言い出した。

 さすがにそこまで覚悟しての批評であれば、無碍にするわけにもいかない。とりあえず様子を見るしかないと思った、

 それでも、先生の作品への読者の評価は素晴らしいものだった。一人の批評家の意見など、読者の反応から見れば、別に気にするほどのことではない。逆に一人で批評しているだけなので、先生のファンからすれば、敵視するだけの十分な相手だった。

「先生は、こんな批判を受けて、今あの世でどんな気持ちでいるんだろう?」

 と思ったが、俊六も世間一般の意見も考えると、これ以上騒ぎ立てることは正解ではないと思うようになり、その批評家の批評を無視することに決めた。

 その作家は俊六の作品も読んでいたが、こちらに対しては批評をすることを控えていた。何か言いたいような雰囲気もあるようだと編集者の人から聞いたが、何も言わないのは気持ち悪いと思いながらも、無視するしかなかったのだ。

 そのうちに俊六は自分の作品が徐々にファンもついてきて、一人前の作家として認められることがそう遠くない未来にあるように思えてウキウキしていた。

 実はこのことは、佐久間先生の遺作として最初に発表した作品であり、予言の最初でもあったのだ。

「これってただの偶然?」

 と俊六は思ったが、偶然というよりも、皮肉なことに思えてならなかった。

 その批評家というのは、高杉という男である。彼は批評家としては、ここ数年で出てきた人だが、それまでは何かの企業を起こしている青年実業家であった。なぜその彼が批評家に転じたのかは分からなかったが、青年実業家になるまでの学歴も素晴らしく、勉強に関しては、大学でも天才児という異名を取っていたという話であった。

 元々高杉という男は、医者を目指して医学部で勉強し、医者としての免許も持っている。ただ、実際に医者として勤務したのは、最初の一年ほどで、すぐに実業家に転身し、ある程度の成功を収めたという。

 医学を目指しながら、経営学に関しても造詣が深かったようで、勉強もかなりしていたようだ。そうでもなければ実業家になどなれるはずもなかっただろう。話によると、発起人三人の中の一人として、あまり大きな会社ではなかったが、取締役として君臨していたのだった。

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