第2話 躁鬱状態

 坂上俊六が躁鬱症を自覚し始めたのは、佐久間先生が亡くなる少し前くらいだった。ちょうどその時に何かショックなことがあったというわけではなく、心の中で抱えているストレスがちょうど爆発したのではないかと思っていた。

 それまで神経内科になど通ったことがなかった俊六だったので、まさか自分がこんな状況になるとは思わなかった。

 佐久間先生が神経内科に通っていたというのは、俊六だけが早い段階から知っていた。弟子なのだからもちろんのことであったのだが、今度は自分が神経内科に通い始めたということは佐久間先生には内緒にしていた。

 その理由はいくつかあるのだが、俊六の中にある種の計算があったのは事実だった。そういう意味で、もちろん同じ神経内科に通うなどという愚なことをするはずもなく、少し離れたところの小さな神経内科に通っていたのだ。

 俊六の症状は、佐久間先生のそれよりは、まだ初期段階ということもあり、表に出てくる部分は大したことはなかった。たまにイライラしたり、落ち込んでみたりする程度で、普通に見ると、誰もその状態であれば、何も神経内科に通うほどのものだとは思わないだろう。

 だから彼は誰にも秘密にできたのだし、先生ですら欺くことができたのだった。

 俊六によって酷かったのは、特に仕事を離れて一人になった時だった。仕事中は一人であったが、仕事をしている時は、それほど異常は見受けられなかった。仕事と言っても彼の仕事はあくまでもアシスタント、先生の相談役であったり、それ以外は雑用に近かったのだ。

「坂上さんは小説を書かないんですか」

 と出版社の佐久間担当者の人から聞かれることもあったが、

「いえいえ、まだまだ勉強中です」

 と答えるだけだった。

 しかし、勉強中ということは、その意志は十分にあるわけで、

「あわやくば、自分の作品を本にできるなどということがあればすごいよな」

 と感じていた。

 もちろん、作家になるための勉強をしていないわけではない。そうでもなければ、自分から佐久間光映の弟子になどなろうと思うわけもない。

 いろいろな作家の中から佐久間光映を選んだのは、彼の作品の「曖昧さ」に惹かれたからだった。

「どうすれば、あんな作品を世に出すことができるんだろう?」

 という思いが強かった。

 曖昧という言葉、その言葉が持つ曖昧さには、自分が考えているもの以上のものがあることを教えてくれたのが、佐久間作品だったのだ。

「佐久間作品には、限りない可能性を感じる」

 というものだった。

 しかし逆に佐久間作品には、

「限りなく可能性は低いがゼロではない」

 という作風が見え隠れしているようで、それは限りない可能性を秘めていると感じたことと矛盾しているように思えた。

 だがこの矛盾を解決してくれるキーワードが、

「曖昧さ」

 だったのだ、

 彼が感じた曖昧さと、可能性に対しての正反対の感覚が一つになると、どうにも忘れることのできない作品になるような気がした。

 考えてみれば、

「逆も真なり」

 という言葉が示すように、左右対称のものを重ねて、それがピッタリと一致すれば、それはまったくの正反対であり、一種の

「プラマイゼロ」

 を作り出すことであり、これがまた、

「限りなく可能性は低いがゼロではない」

 という言葉と矛盾しているようで、何ともおかしな感覚ではないか。

 それこそが佐久間ワールドだと思うと、自分が目指すものが見えてきた気がした。

 その矛盾を解決し、自分のものにできたならば、

「ひょっとすると、佐久間先生よりもすごい作家として自分も活躍できるかも知れない」

 と感じたのだ。

 他の作家の作品をいくら研究しても、その結果、すぐに自分もその作家と同じような作品を書けるような気はしなかった。その作家の作風が難しいとか、独特だとかといういいではない、難しさや独特さは、むしろ佐久間先生の方が強いのではないかと俊六は感じていた。

 曖昧さであったり、可能性であったり、ゼロであったり、このあたりが佐久間先生のキーワードだと気付くまでにもかなりの時間が経つだろう。

 しかし、

「百里の道は九十九里を半ばとす」

 という言葉もあるではないか。

 つまりは、まだまだ自分は道半ばだということを自覚していかなければ、先に進むことはできないということを示している。

 佐久間先生にどうすれば近づけるか、近づけば近づくほど、この気持ちは大きくなってくる。別に先生は自分から逃げているわけではないのに、その大きさが変わらないのだ。

 その感覚は、佐久間作品の曖昧さが示しているからなのか、今まで曖昧だと思っていたことが実はリアルなものであり、そのリアルな部分が見えてきたからなのか、俊六にはまだ分かっていなかった。

 俊六が躁鬱症を気にし始めてから病院に行くと、

「何かあなたの場合は、ストレスに繋がるまでのジレンマが感じられるのだが、何か心当たりはありますか?」

 と言われた。

 ストレスにジレンマはある程度セットのようなものだと思っていた俊六だったので、それを言われて何となく違和感を抱いたのだが、

「今のところありません」

 と答えた。

 これは半分本当で半分ウソだった。ジレンマは間違いなく感じているのだが、そのジレンマは自分の中で解決済みだと思っていた。なぜならジレンマが理由で躁鬱になるのであれば、もっと前からのはずだからである。しかし、ストレスが蓄積されるものだという理屈を忘れていたことから、ジレンマがストレスとして蓄積されていることでの躁鬱であるという意識が欠如していたのだった。

 それが、俊六の思いであり、その時の考えであった。

 躁鬱症というものは、躁状態と鬱状態が定期的に繰り返されるもので、その感覚を俊六は感じていた。一番最初にそれを感じたのは中学生の頃であっただろうか。ひょっとすると最初に陥った躁鬱状態が、今までの仲で一番躁鬱を繰り返していることに敏感だったかも知れない。

 あの頃は最初から自分が躁鬱を繰り返していると感じていた。最初は鬱から入ったのだが、鬱から抜ける感覚を自分で知ることができた気がした。

「ああ、もうすぐ出口だ」

 と感じたのは、暗闇の中で光を感じたというよりも、黄色いハロゲンランプの中のトンネルを走行している車が、トンネルを抜ける時に感じる青い光に似ている。黄色いイメージが瞼の裏に沁みついているので、それを抜ける時は青く感じるのだ。

「黄色ばかりを見ていると、赤い色を想像するのではないか?」

 とこの話をした友達に言われたことがあったが、

「そうじゃないんだ。想像するのは青なんだ。きっと外の青空が最初に飛び込んできた光景だからなのかも知れない」

 というと、

「というよりも、トンネルの中は黄色というよりもオレンジ掛かっている色に見えるので、そもそもに赤い色が入っているからではないか?」

 と言われたが、

「それはあるかも知れないな」

 と、迷わずその意見に賛成した俊六だった。

「もう一つ言えば、赤い色を怖がっているのかも知れないと思うんだ。俺は基本的に赤い色は好きで、シャツなんかも赤い色を好んで着たりするんだけど、時々赤い色を見ると、無性に吐き気がしてくることがあるんだ。鉄分を含んだ臭いというよりも、さらに何かの薬品も含んでいるような感じがしてね」

 中学時代というと、思春期真っ只中であり、一度、公園にある公衆トイレで、多目的トイレと入れれる場所を使ったことがあった。広々としていて、託児用の台もあったりする、男女兼用のトイレである。

 その気持ち悪い臭いがちょうどその時トイレの中からしてきた。それはトイレ独特の臭いという臭いではなく、何か薬品のような、それでいてどこか懐かしい臭いを感じたのだ。

 思わず臭いの元を探していると、それが汚物入れの中からだということに気付き、中を開けてみると、その時は何か分からなかったが、ガーゼのような綿のようなものを丸めて、テープで止めていた。

 時間が少し経っているからなのか、そのテープが緩んでいて、それがゆっくりと開いた。どうやら女性の生理器具であることを、その時初めて知ったのだ。中はどす黒いほどの血で、よくそれが血だと分かったなと思うほどの真っ黒さであった。その時、俊六は好奇心からだとはいえ、見てしまったことを本当に後悔したのだった。

 それから赤い色をあまり好きに思えなくなった。自分が見たのはどす頃い色で決して赤ではなかったのに、赤を気持ち悪いと思うというのは、元の赤さを想像できていたからなのかも知れない。

 俊六の中で、

「青は爽快な色で躁状態のイメージ、赤から黄色に掛けての色は鬱状態のイメージ」

 と自分の中で勝手に色分けしていたのだ。

 鬱状態になった頭の中で、躁状態がくるのが分かるというのは最初からだったが、躁状態から鬱状態になるというのは、なかなか分からなかった。

 トンネルのようなハッキリとした残像が頭の中に現れるわけでもないので、感覚でしかないのだろう。

「そう思うと、鬱状態への入り口など齧ることはできないはずだ」

 と思っていたが、どうでもなかった。

 鬱状態と躁状態の違いを、今では、

「昼と夜との違いだ」

 と感じるようになったが、その根本は、躁状態から鬱状態への移行する際には、

「夕方という時間を感じることができるからだ」

 と思っている、

 どの時点からが夕方なのかは難しい。朝のように日が昇ってくれば朝だというのがないからだ。だが、夕方にはいろいろな時間帯が存在する。日が暮れてしまえば、その時点で夜だと思うのであれば、夕方には、西日が強い影響を及ぼして、影をこれでもかとばかりに伸ばしている感覚があった。

 そして日が暮れる前の数十分くらいを、

「夕凪の時間」

 というらしい。

「風がまったくなく、無風状態のことを夕凪の時間」

 というらしい。

 さらにこの時間は、もっとも魔物に出会う可能性のある時間帯として、

「逢魔が時」

 という別名もあるらしい。

 逢魔が時とはまさに、魔物と出会う時刻という意味で、夕方の薄暗くなる時、昼と夜が移り変わる時刻、黄昏時のことをいうようだ。夕凪と同意語ではないようだ。

 この時間帯、交通事故が多発したり、不幸な出来事が起こりやすい時間とされた。

 交通事故がよく起こる原因としては、日が暮れる直前には、色が消えて見え、モノクロに見えるため、色の識別ができないことから、交通事故が多いという話になっている。これは結構信憑性のある説に思える。

 魔物が出るというのは、どうしても都市伝説の類に違いないが、太古の昔より信じられていることから、これからも言われ続けることであろう。

 昼から夜に向かうその時間、昼の最後には、色を感じることのできない時間帯があり、魔物を引き寄せるという意味で、心の中の「逢魔が時」が存在するという意味で、躁状態から鬱状態への移行がこの時間に存在していると考えてもいいのではないだろうか。

 今までにあまり感じたことのない鬱状態と躁状態、急に現れてくるのが思春期だというのも因縁を感じる。そのおかげなのか、思春期があっという間に終わってしまったかのように思えた。

 実際に、中学時代のほとんどが思春期だったという認識で、中学時代真っ只中では、そんなに毎日があっという間に過ぎるなどという感覚はまったくなかったが、後になって考えると、中学時代があっという間だったように思うのは、夕凪という時間も、ほとんど毎日意識もせずに通り過ぎているからではないかと思っていた。

 実際に都会で生活をしていると、夕凪など感じることはほとんどない。夜になってきても、街灯が眩しくて、繁華街などでは、

「眠らない街」

 なども存在し、人の流れが絶えることはない。

 早朝であっても、早朝から営業する店もあったりして、絶えず人の往来はあるというものだ。

 さすがにそんな街に中学生が出没しているわけではないが、毎日を変化もなくすぐしていると、あっという間に数日間であっても、一括りのように通り過ぎてしまうのだった。

 そんな毎日を過ごしていると、まわりの景色の変化にもなかなか気づかなくなってくる。下手をすると季節の変わり目であっても意識することもなく、ただ、

「暑くなったな」

 と夏になっているにも関わらず、まるで他人事のようにしか感じなくなってしまうようだ

「肌で感じる季節ではなく、行事で感じる季節になってしまうというのは、大人になった証拠だ」

 などと親が言っていた時期があったは、本当にそうなのだろうか?

 小学生の頃には感じていた。春には春の、梅雨には梅雨の、夏には夏の虫の声が聞こえる。秋になれば、虫のコーラス大合唱である。

 秋の虫は不思議なことに、大合唱にありがちな、一つの楽器が目立たないというわけではなく、秋の虫ほど個性的で、魅力のある虫の声はないということを証明してくれているようだ。鈴虫であったりコウロギであったり、松虫であったりと、それぞれの虫の特徴を醸し出しているのだった。

 鬱状態にはそれと同じ感覚でありながら、出てくる感情はまったくの正反対だ。それぞれに特徴のあるものが和音として奏でられているが、一足す一が、三にも四にもなって、よくない感覚が倍増されてしまうのだった。

 それが鬱状態であり、夕凪や逢魔が時を思わせる時間の正体でもあったのだ。

 そんな鬱状態と、何をやってもうまく行くと自分に信じ込ませることで、たいていのことはうまくいく躁状態とが、ずっと繰り返している。

「プラマイゼロ」

 と言ってしまえばそうなのだろうが、果たしてゼロになるのだろうか、最終的に辻褄は合っているような気がするが、ゼロになることはあり得ない。

 そう言い聞かせることが、躁鬱の出口を模索することになる。

 どんなに躁状態が続いても、その後に鬱状態が待っているのが分かっていると、本当の躁状態を見ているような気がしてこないもの、無理のないことであろう。

 事故でも何でもいいから、躁鬱症の状態から抜け出せるきっかけになってくれれば、それはありがたいことであった。

 鬱状態に陥ってからのことだが、言われている鬱状態をじかくするこ都ができる。例えば、興味、悦びの著しい減退、不眠または、睡眠過剰。または、どんどん悪い方に考えるなどの心情が現れてくる。

 そして自分の中で特に意識している鬱状態での印象は、

「何事に対しても価値を見出せない」

 ということであった。

 それまでは何も意識しなくてもできていたことを、必ず何かの価値がないとする意味がないと思い込んでしまうというか、つまり、価値がなければやる気も出ない。そおやる気を見出すだけの価値を見つけることができないというものだ。何をするにも理由を儲ける。よく考えてみると、何もしたくないから、理由付けして何もしないようにしようというものぐさ感覚とでもいうか、子供の頃にはよく感じた思いであった。

 そのうちには、今まで喜びとして甘んじて受けてきたことであっても、いちいち理由付けをしてしまうようになり、

「どうして食べたいと思うのか?」

「どうして眠たいと思うのか?」

 など、本能に近いことまで理論づけて価値を見出そうとすると、それが億劫になり、食事をするのも、眠るのすら億劫になり、しようとは思わなくなる。もちろん、眠たいという意識はあるのに、身体が反応しないのである。

 普段であれば、そんな状態は信じられないだろう。鬱状態に入り込んだことのない人間はもちろん、一度感じたことのある人間であっても、普通の状態に戻ってしまうと、その時の感覚を忘れてしまっているようだ。

 夢に関しても、似たような夢を何度も見ていて、

「ひょっとして、前に見た夢の続きを見ているのではないか?」

 あるいは、

「眠れないという夢を見続けているのではないか」

 というループへの恐怖を感じるような夢を見ているという思いが強かったりするのだ。

 そこに価値観という意識がのしかかってくる。何事も価値観を感じないと、何もできない気がしてしまうと、何もできなくなり、何もできないことがループを繰り返し、そこに恐怖を感じるのだ。これ自体も実はループであり、ループがループを呼ぶという果てしない恐怖が自分を包む。これが俊六の中にある鬱状態という恐怖の正体を形成しているように思えてならなかった。

 この状態は、医学的に、そして心理学的に証明されていることなのかどうかは分からない。勝手に彼が考えているだけのことなのかも知れないが、誰もが似たような感覚を持っているものだと信じて疑わない自分がいた。

 また鬱状態における感覚の特徴として、

「死についての反復思考があり、自殺を考えてしまいがちな精神状態である」

 と思っている。

 普段であれば、死に対してほとんど何も考えないが、鬱状態になると、

「死んだらどうなるのか?」

「死の恐怖というのはどういうことなのだろう?」

 と考えてしまうことだ。

 死というものに対して抱く恐怖については、普段から感じていることがあった。

「死というものに対して肉体的な恐怖、つまり痛いであるとか苦しいであるとかが本当の恐怖なのか、それとも死んでしまうと、この世でやり残したことができなくなってしまったり、最愛の人たちと会うことができなくなってしまうことを感じるからなのか、よく分からない」

 というものである。

 しかし、鬱状態であれば、後者はあまり意識することはない。なぜなら、この世でやり残したなどということがなんであるか、想像もつかないことが分かっているのだし、鬱状態において、人がそばに来ることさえ気色悪いと思っているところに、最愛などという言葉は当てはまるわけもなく、会えなくなることを恐怖に感じることなどないからである。

 そういう意味では、痛みや恐怖を死の恐怖として抱いている感覚になるのだろうか。そんなことを鬱状態では考えてしまうのだ。

 そのくせ、

「死にたい」

 と思うことも多いような気がする。

 ただ、死んでどこにいくのか分からないという意識は残っていて、それはただ今のこの場所にいたくないだけだということになるのだろうか。誰かが近くに来ただけで気色悪いと思うくらいなので、居心地は最悪なのだろうと思う。下手をすると、麻薬中毒における禁断症状の一歩手前なのではないかとさえ思うくらいに感じることから、気色悪いという表現を使っているのだ。

 躁鬱状態がしばらくはなかった。最後は大学受験の時だっただろうか。あの時は自分だけではなくまわりも皆いきり立っているかのような喧騒として雰囲気だったので、いやが上にも鬱状態に引きずりこまれた。

 もっとも、俊六は、

「他人と同じでは嫌だ」

 という性格で、まわりも人に知られないようにしていただけで似たような人も多かったようだ。

 俊六の場合は人に知られても構わないと思って、公言していたので、周知のことだっただろう。人によってはそんな俊六と距離を置くのは当たり前のことであり、俊六に近い人間に、離れるように諭しているやつもいたことを知っている。

 そんな連中を俊六は毛嫌いしていた。自分との関係を人にも同じように促すというのも卑怯な気がしたが、それよりもその男こそ、自分の下手な正義感を振り回しているだけに見えるのだ。

 伝染病が流行った時など、国家の体勢に背くような連中を正義という言葉を盾に、苛めに走る。もちろん、従わない連中もどうかと思うが、正義という言葉を使って自分の行動を正当化するという、

「あざとい正義感」

 にはウンザリさせられるのだ。

 だから、人と同じでは嫌だと思うのかも知れない。子供の頃に、よく父親から、

「一般的な常識のある人間」

 という人と自分を比較して、

「まともな大人になれない」

 と罵倒されたものだったが、子供にそんなことを言ってもしょうがないではないか。

 人に迷惑を掛けるようなことであれば、その場で注意すればいいことであり、分かればそれだけのことなのだ。それを変な説教を並べ立て、いかにも自分が聖人君子であるかのような言い方に、へどが出るほどむかついていた。

 それから、

「一般常識的な」

 などという言葉が大嫌いになり、融通の利かないやつだとして見るようになっていったのだ。

 それが、

「他人と同じでは嫌だ」

 という考えに結び付き、いわゆる民主主義の根本である、

「多数決」

 に対して嫌気がさしてきた。

 民主主義には限界がある。そのために共産主義が台頭してきたのだろうが、共産主義でも理想は素晴らしいが、しょせんは大勢で一つの強力なものを作るという発想は多数決と何ら変わりはないようにしか思えなかった。多数決には自由があるというが、自由を逆手にとって、一部の特権階級が暴利をむさぼる今の世の中というのは、まさに本末転倒な世の中だと言ってもいいのではないだろうか。

 俊六は別に宗教家でもなければ、政治運動に加担しているわけでもないので、これ以上語ると、何か問題になるかも知れないので、このあたりでよすことにしよう。

 躁鬱症がなくなると、普段から結構饒舌であったことに気付いた。饒舌というのは、自分の言葉に自信がなければなかなか言葉には出せないものだ。

 人によっては、言っていることが支離滅裂な人もいるが、そんな人であっても、頭の中では何らかの結論に基づいて喋っているのかも知れない。ただ、言葉を整理しきれないだけではないだろうか。

 俊六が佐久間先生と出会ったのは、大学を卒業して地元の企業に就職したが、大学の頃から文芸サークルに入り、小説を書くことの楽しさを覚え、

「いずれは本を一冊でいいから出してみたい」

 という野望ともいえる思いを感じたからだった。

 そんな時、佐久間先生の作品に出会い、ちょうどその頃、仕事で行き詰まりを感じ始めていたこともあり、思い切って退職、そして弟子入りという電光石火にも似た勢いで、佐久間先生の弟子になったのだ。

 佐久間先生の方でも、アシスタントを探さなければと思っていたところだったので、佐久間先生からすれば、

「飛んで火に入る夏の虫」

 だったのだろう。

 需要と供給がうまくマッチした瞬間だった。

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