Ⅵ 神罰
深夜のホテルのバスルームで、男は煙草の煙を吐いた。新種のマリファナは従来よりも匂いや煙が少なく、吸う場所を選ばない。
ベッドの女はディアーヌといい、今は心地よい余韻と倦怠感に浸っているだろう。今日知り合ったばかりだが、顔も体も魅力的で相性も最高だった。ちらつかせた金と連ねた嘘で簡単に体を開くのだから、チョロいものだ。
彼女は男の裏の顔には気づいていないだろう。鏡に映るちょっと気怠げな顔に、裸体の大きな胸板と腹筋が、世の女たちにはたまらないのだと自覚しているから、つい笑みが出る。
「女ってのはどいつもこいつも馬鹿だな」
これまでにだまされて貢いでくれた女たちは、四人いた。特に四人目は商工会勤めのカタブツで、幸薄そうな地味女だったが、金だけはしこたま貯めていてくれた。あの時は美容師と偽り優しく髪に触れて夢中にさせ、君と一緒に自分の店を持ちたいんだと夢を見させたらイチコロだった。
「髪と体を切り刻んでやったっけ」
嘘と偽りで絞れるだけ金を絞り取った後、監禁し全ては嘘だとばらして絶望を与えた時の快感。そして泣きながら命乞いをする顔を見ながら切り刻んだ快感を思い出し、男は身震いしてまた笑った。
ふと、のぞいた鏡の端で何かが動いた気がする。振り返ってみるが、バスルームのドアとクリーム色の天井があるだけだ。しかし首を戻すと、鏡の上の角でやっぱり何かが動いている。
天井に蜘蛛か、
チカッ、チラッ。あれは刃物——
ドンドンッ!
背後のドアが叩かれ、思わず背中がビクつく。
「そこにいるの? シャワー浴びたいわ」
「あ、ああ」
もう一度鏡を確認すると、鏡の角の人影はなくなっている。
「今開け——ヒッ⁉︎」
だが扉を開けて戦慄した。ディアーヌが顔中から流血していたのだ。
「なに? あたしの顔に何かついてる?」
「そっ! その顔っ⁉︎」
「なによ? 何もないじゃない」
女が鏡をのぞくと、鏡の中の顔は血濡れてなどいない。振り返った顔にも異常はない。
「ヤクのやり過ぎなんじゃないの?」
クスクス笑いながら女は男の背を押して追い出すと、バスルームの扉を閉めた。
そうだ、新種にまだ慣れていないのかもしれない。
すると部屋の外から「ルームサービスをお持ちしました」と声がかかる。
「ルームサービス? こんな時間に?」
「あたしが頼んだの。開けてくれる」
仕方がないので腰にバスタオルを巻きつけてドアを開ける。
「ご注文のワインをお持ちしました」
アルミ製のワインクーラーが乗せられたワゴンを押して、長い黒髪に黒いワンピースの女が入室した。女の顔は白いを通り越して青い。唇に色がない。目に光がない。そしてなんだ、この豚肉の血合いが腐ったような臭いは。
おかしい。絶対に何かおかしい。男の頭の中で激しく警鐘が鳴らされる。
「栓を開けてよろしいですか」
「お、ああ、頼むよ」
「承知しました」
女がワゴンの下から取り出したのは、ワインの封を切るには大きすぎる肉切り包丁だった。
「ヒィッ⁉︎」
「あたしを殺したでしょう?」
包丁を持った女がにじり寄ってくる。光のない暗い目には、無機質な殺意だけが澱んでいる。
最後に殺した女の髪。偽りの優しさで触れてやった髪も、同じ長い黒髪だった。
「殺してなんかねぇっ! やめろっ、こっこっちに来るなぁぁぁぁっ!」
咄嗟にワイン瓶を引っ掴んで、思い切り女の頭に叩きつける。瓶が割れ、赤紫色のワインが女の頭から顔と髪を伝い、床へボタボタと滴る。
「血……血がたくさん……殺された……切られて……殺されたあああああああああああああああああああああっ!」
目玉をひん剥き絶叫して、黒髪が包丁と共に突進してくる。
「ひえええええぇっ!」
避けると黒髪女はゴツッ! と鈍い音で男の背後の壁に額をぶつけ、その場に仰向けにひっくり返った。目を見開いたまま瞬きすらせず動かない。足先で突いてみても反応しない。死んでいる。
「俺じゃない。俺が殺したんじゃないからな。こいつが勝手にぶつかって——」
「キャアアアアアアァァアァア———ッ!」
耳をつんざく悲鳴に飛び上がる。
「今度は何だよぉ⁉︎」
悲鳴の主はバスルームのディアーヌだ。
「なによこれ! ねぇちょっと来てよぉ!」
気は進まないが行かないわけにいかない。恐々と扉を開けて、青ざめた女が指さすバスタブをのぞき、今度こそ腰を抜かしてしまった。
排水口からゴボゴボと音がする。それはかつて聞いた、肺を切り裂かれた女の苦しそうな呼吸音だ。そして真っ赤などろっとした液体が、排水口から一気に迫り上がる。排水されるどころかどんどん増えてバスタブに溜まっていき、底一面が血色に染まると、今度は排水口から黒くて長い髪が飛び出てきた。
「きゃあああああああ!」
「ひいいいいいいいぃぃぃぃぃっ!」
かつて切り裂いた長い黒髪。あの女の黒い髪だ!
腰が立たず、四つん這いで一人、無我夢中でバスルームの外に逃げ出す。
すると目の前にほっそりした足が二本ある。無意識に首を上に向けてしまい、見なきゃよかったと激しく後悔する。さっき死んで倒れていたはずの黒いワンピースだが、首から上が乗っていない。そしてざんばらの黒髪を垂らした自分の生首を、左腕に抱えていた。右手には変わらず肉切り包丁が握られ、滴るワインで全身が血濡れているようだ。
「髪の毛……返して。あたしの髪……血……」
血合いが腐ったような臭いがする。そうだ、これは死体の臭いだ。腐敗した血液の臭いだ。
逃げろ。全力で走れ。何がどうなっても抵抗しろ。体中の全組織がそう叫ぶが、恐怖に言葉を発することすらできない。
「あたしを殺したわよねえええぇぇっ⁉︎」
一歩前に出られ、男は情けない格好で後ずさる。腰に巻いていたタオルが外れたのにも気付かず、あわあわ震えるばかりだった。バスルームのドアノブを探るが、ディアーヌが内側からカギをかけたらしく開かない。
次は開いている部屋のドアを目がけて、男は全裸のまま部屋から飛び出した。生涯でこれほど懸命に走ったことがあるだろうか。
ちらりと後ろを見ると、生首と包丁を持ったまま黒服女が追ってくる。しかも速い。
「殺したわよねぇぇぇぇえエエエえっ?」
「ギャアアアアああああッ! 許してくださいっ! 四人とも俺が殺しました!」
長い廊下を全速力で走り抜けて角を曲がる。階段室に続く扉だ。ノブを回す。だがこんな時に限って施錠されていた。
「クソッ!」
やばい、止まってしまった分だけ追いつかれる。何でもいい、とにかく逃げろ!
しかし再度全力で床を蹴った時、目の前に急に人が壁になって現れた。
ぶつかる! 体を捻るが間に合わない。
「動くなっ!」
「被疑者確保」
バランスを崩したところを取り押さえられ、うつ伏せに床に押し付けられた。三名の屈強な男にガッチリ組み敷かれて身動きが取れない。
「ブノワ=ヤヌク。詐欺罪と監禁及び殺人容疑で逮捕する」
背面で腕を縛り上げられた。頭の上からする女の声は、ノールデン市警察署長のライザで間違いない。
「サツがふざけんなよ、俺が殺したんじゃねぇ! あの女が勝手に頭ぶつけて死ん——」
ダァァァ——ン!
銃声が響く。声も出せぬほどの激痛に一気に冷や汗が噴き出た。自分の足の裏を弾丸が貫通したのだと理解するまでしばらくかかった。
「立場を
男の後頭部に当てられたのは、硬く熱い感触と火薬の匂いだ。ライザ署長の心次第でいつ火を噴くか分からぬ銃口がそこにある。この街では警察署長に逆らってはならないと、小さな子供でも知っている。
「四人とも殺したと証言したな。殺害された被害者の恐怖と苦痛はこんなものではなかったのだぞ」
ガチッと撃鉄が引き起こされる。
「ひっ……!」
限界だった。覆うものの無い股間から失禁していた。
「今以上に痛くて怖い思いをたっぷりさせて吐かせてやるからな。楽しみにしていろ。その後は罪人兵士として戦場がいいな。負傷したら野戦病院で、麻酔なしで手術だからな。うむ、お前にぴったりだ」
下着すら身に着けさせてもらえず、震える男は警官に囲まれてホテルを後にした。
その一部始終をルゥたちは別の部屋からそっと見ていたが、思わずフランの袖をつかんでいた。
「いっ、一番怖いのはライザ署長でしたよねぇ!?」
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