Ⅳ 交差点

 女性の悲鳴に続き「事故だ!」「ぶつかったぞ!」「大丈夫か⁉」とバタバタ足音が続く。

 しばらく息の根が止まっていた気がしたが、実際はほんの数秒だったかもしれない。全身が恐れに支配され、膝も顎も震えている。


 息を詰め、体の真ん中に力をこめて振り返って、思わず膝から力が抜ける。モスグリーンの蒸気車が大破し、前の車輪が外れて転がっているのだ。ぶつかられた街灯はひしゃげていた。


 これは現実なのか? さっきまでは平和な交差点だったのに。あんなのがぶつかってきたら人間の体なんて簡単につぶされちゃうじゃないか。

 通行人の手で、運転席からは頭から血を流した運転手が引っ張り出されている。どうやら意識はあるようだ。

 そうだよ、おれも確かめなきゃ。助けなきゃ。


「フランさん」

 立ち上がろうと地面に手をつき力を入れると、肘がわなないてガクガクした。見たくないものがあるかもしれない。それでも進むしかないと言い聞かせ駆け寄った。

 するとひしゃげた街灯の奥、わずか二メートルのところにふわんふわんの白金頭が尻もちをついていた。


「フランさぁん! 足は、どこか痛いですか⁉︎ 立てますか?」

「なんとか平気。さすがに腰が抜けたけど」

「よかった……。おれもう死んじゃったかと思って……っく、ぅえっ、」

 フランの赤目を見た途端、いろんなことが溢れて止められず、フランに抱きついてしまった。


「ルゥ、泣いてるの?」

 花の香水の香りがする。人目もはばからずにぎゅうぎゅうしがみつくと「だいじょうぶだよ」と、後ろ頭をぽんぽんしてくれた。


 よかった。フランが生きている。怪我もない。それだけでいい。おれのごはんを食べてくれなくても、おいしいなんて言ってくれなくたっていい。お払い箱にされても、フランが無事ならそれで構わない。


 すると上から美声が降ってきた。

「フラン君⁉︎ ちょ、大丈夫なの? ルゥ君はなに抱きついてんの、離れてよ」

 その声だけでわかる。強引にルゥを引き剥がそうとしてくるのは新市街の神だ。


「デビッキ。どうしたの?」

「どうしたのって、それはこっちのセリフだけど。街灯がなかったら、冗談抜きで危ないところだったねぇ。立てる?」


 デビッキとルゥに支えられて立ち上がると少しふらついたが、フランは「平気だよ」と自力で歩き始める。しばらく周囲をきょろきょろしていたが、残念そうに呟いた。


「猫、いなくなっちゃったね。人がたくさんで騒がしいからかな」

「おれも気が動転して、いつ離しちゃったのか覚えてなくて」

「車通りもあるし、危ないからどこかに隠れてくれてるといいんだけどなぁ」

 でもこれで良かったのだとルゥは心の中で呟いた。


 するとデビッキが親指をクイと背後へ向ける。

「フラン君、うちで少し休んでいくといいよ」

「え、でもデート中なんじゃないの?」

 隣にいる女性と目が合うと、微笑んで会釈をされる。デビッキが何かを告げると、手を振ってどこかに行ってしまった。


「そんな、彼女に悪いよ」

「先に店に行ってもらっただけだから。それにルゥ君は、何やらおれに相談があるみたいだし」

 人の顔だけ見て瞬時に察知するとは、さすが司教というべきか。

 でも聖職者のくせに街中で堂々とデートしやがって! しかも彼女が十四人もいるとかな!


 デビッキは聖ザナルーカ教会の執務室に二人を招き入れると、温かいアップルティーを淹れてくれた。茶葉の缶のロゴを見るにさすが高級ブランド品で、苦みや渋みが全くない。みずみずしいアップルの香りが乱高下した情緒を落ち着かせてくれる。


「なるほどね、その猫が邪を引き寄せたとルゥ君は考えてるのね。だからおれに引き渡そうとしてて、途中で事故に遭遇したんだ」

「何か思い詰めてるのは感じてたけど。それならそうと言ってくれれば良かったのに」


「……フランさん、可愛がってましたし。それにすごく嬉しそうだったので、言いづらくて」

 言えなかったのはそうじゃない。君はもう必要ないよとフランから言われてしまうのではないかと、怖かったからだ。


「おれは神だしラグナ教最強の悪魔祓いだし、フラン君に隠してでもおれのところに連れてくるって判断は実に適正だ。ルゥ君にしては完ぺきだよ」

「なぜか褒められてる気が全然しないんですが」


「でもさ、おれの見たところフラン君を危険な目に遭わせたのはその猫じゃないな」

「見たところって、猫はいなくなっちゃったんですよ。何を見てるんです?」

「君だよ」

 デビッキの目はまっすぐにルゥを向いている。


「え?」

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